階級形成論の深化のために (上)  

                                    斉藤 明

 一 はじめに

 

 これまで、我々の理論的反省の重要な要として、社会的主体について述べてきた。これを踏まえ、この前提からの展開として、階級形成論について再整理すると同時に階級形成論と認識論の統一というテーマにおいても、深化を図りたい。

 我々は、党の建設を労働者階級の自立した政党を目指すものとしてきた。すなわち、階級的政治性を内容とする結合体として、行動員会の中から、社民内分派闘争を通して成長する労働者の政治的団結として実践的道筋を明らかにしながら作業を進めてきた。

 この過程において、一つは、社会党革同問題、一つは社青同の分裂、及び社会党の「反戦・革労協パージ」以降の分派闘争の困難と形骸化、一つは学生戦線の立場主義への偏向と少ブル急進主義への転落、この三点に要約される困難を生み出した。

 革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)の結成当時から孕まれた問題点が、そのまま解決されないで進み、反戦・解放派パージによる社民内分派闘争の勢いが低下し、七十年安保闘争以降の権力と資本の反動により反合理化闘争が抑えられ、学生運動も党派闘争が苛烈となり大衆運動が困難になってくる中で、大衆運動の発展の中からの階級形成という基礎そのものが弱体化してゆく中で、階級的内容の獲得が、個々人の単なる立場の問題に矮小化される傾向が進んだ。それは、社会党内においては、毛沢東派への傾斜、社青同内においては、専従=職業革命家という錯覚、学生戦線では学生共産主義者への立場の転換論となり、労働者の階級的政治的団結としての労働者党とは遠い姿へと向かった。これは根本的には、大衆運動の資本との闘争の停滞と政治主義的傾向の結果といえる。

 その意味で、再度、階級形成論の内容を再整理すると同時に、団結の質を規定する共通の認識作業とその理論的対象化作業が、個々人の立場主義的決意主義に、そして当然にも目的主義に堕した傾向を生み出したことを反省すること、すなわち結論的に言えば、階級形成論と認識論の統一という課題において、階級的政治性の獲得がいかに行われるべきかということについても深めたい。これは、七〇年代初期の組織内討論において発生した、立場主義的傾向についての整理を含む。

 社会的主体としての賃金労働者の階級的自立過程の内容には、社会的認識作業、社会的理論作業を当然にも含む。社会的主体から切り離された理想や目的、諸理論の恣意性、主意主義的立場主義については、これまで十分批判してきた。生きた社会的な活動主体から生まれる目的、実践、反省、理論的再構築の発展する回路が、結合の質、内容を高める過程として個々人の理論的成長と団結全体の成長が一つのものとして進む総過程が、階級形成そのものなのだということ、したがって、階級形成論は同時に社会的認識論でもあることを明確にしなければならない。我々は、「結合された目」という言葉を使ってきた。理論活動はこの「結合された目」を基礎としてのみ、主体の理論的意識となる。

 外的な理論、外的な目的は、特定の自我の判断によるものでしかなく、次にその実現の手段を求め、自他共に手段として位置づけ、その拡張が問題となる。このような構造がエゴイズムに転落するのは、前提作用と措定作用が、すなわち生み出す過程とそれが反省されて、前提に返され、再措定される過程がないからである。

 目的は、予め決定されていて、それが目的であるとする判断は特定の自我がすでにおこなっていることが固定されている。これが再措定されることはない。このことが組織論になると、組織はこの目的の手段であり、担い手であるから、下からそれが変えられてはならない。組織の意志は、上から下への一方的指示に、究極的には個人独裁となる。特定の自我が、この目的の担い手の代表となるや、その自我に同一化すること、または人格的同一性を強要することによって、特定の個人に屈服することを強要することによって組織的同一性を確保しようとすることになる。それ以外に、この結束を維持する方法がない構造だからである。

 我々は七〇年代に入って、「革命期」と情勢規定した。革命が現実的可能性を持つ時期という規定であった。それまでの運動をいかに新たな段階に適したものとして再編成するのかという実際上の問題をかかえた。組織内論争は、この「革命期」規定の曲解傾向に対処することが重大な課題となった。政治的社会的諸関係についての、安定期・動揺期・改編期のサイクルの、改編期に入ったということを、革命期としただけなのだが、したがって、直接的な革命情勢ということではなく、可能性がある段階に入ったという規定であった。しかし、内容より言葉の響きで、情緒的に考えるような傾向の部分が、革命情勢なら革命運動を、革命軍をと短絡する傾向を見せた。組織内討論は、「革命的階級形成を!」という表題に端的に示される内容でまとめた。しかし、少ブル急進主義グループは、独自に分派活動を始めた。そして組織は分裂した。組織全体は、この新たな段階に飛躍することができないまま、停滞してしまった。

 われわれは、この「革命期」規定について、誤解のないように厳密に規定するべきであったこと、及び、階級形成論の段階的再構成の必要性を痛感した。そして、何より解放派の理論的地平が共有されていないというばらばらな実態が露呈して組織的解決が不可能となったことが問題である。理論的再構築のためには、原理論的なところからの再構築が必要だと考えている。

 我々は、なにに反照するべきなのか。どこまで反照するべきなのか?

「革命的マルクス主義=共産主義の旗を奪還するために」の基本精神こそ、反照されるべき地である。

 階級形成論は、まさにこの地平から再構築されねばならないと考える。

 

 二 階級形成論の今日的重要性

  (1)なぜ階級への形成なのか


 

 「共産党宣言」の中で共産主義者の当面の任務ということでまずはじめに挙げられているのが「労働者の階級への形成」である。当たり前だと読み過ごす人が多い。

 だが、ここで立ち止まって考えてみよう。労働者はその存在自体が階級なのではないだろうか。階級へと組織される必要があるということは、そのままでは階級ではないということを意味している。では、階級ではない状態とは何なのか? 階級として成り立つということはどういうことなのか?

 ここで多くの人が、それは意識性の違いだと考える。そして次に、階級意識の中身を考える。そして、共産主義理論をその内容だと考える。そうすると、そのような理論、思想を持った人と、それを持たない人との違いと考える。すると理論、思想の拡大が階級へと組織することと考えるようになる。革命理論のもとへの労働者の獲得となる。そうなると、この「労働者の階級への形成」は解決したかに思い込む。大して意味のないこととして読み飛ばされる。

 よく考えてみることにしよう。いつの間にか、中心が労働者から、理論へと変わって、主体たる労働者は、理論に従属し理論の実現の手段となってしまっている。

 労働者を主体として考えてみよう。

 まず、階級として成立していない状態とは何か?

 われわれは常に、歴史的に作られている所与の前提のもとに生きている。世代の交代をとおして、今日の生産過程、社会に生活している。労働が、賃労働となることによって、すなわち、賃労働と資本に分裂している生産関係において、賃労働者は、相対的過剰人口の圧力と、資本の社会的力によって、資本に対して隷属した位置関係に置かれている。競争と対立の中に置かれている。例えば就職活動は労働力を売りたいという個人が孤立したまま、資本と対するばかりか、他人との競争に置かれている。なぜ「圧迫面接」などいう言葉が出てくるのか。就職活動で年間一五〇人もの学生が自殺するのか。

 資本の搾取は、資本の側が、「対等な契約」の上に、うまく上乗せして儲けているのではない。隷属させる力をもって、不払い労働を力ずくで懐に入れているのである。失業の恐怖で圧迫されて、言いなりになるしかないと押し込められている。「我々は就活の奴隷ではない」というスローガンを掲げたデモが行われている。

 資本が強い立場に立てるためには、労働者が、労働市場において競争に追いたてられていること、対立して、相互に協力して資本に対抗しないことが必要である。常に、相対的過剰人口を作り出し、労働者を分断支配し、社内教育と称して、マインドコントロールをおこない、整理解雇も、あたかも自主的に退職したかの装いを作り出しす。教育過程においても、競争が普遍的原理のように教え込み、強制された競争に叩きこむ。直接的生産過程、再生産過程を貫いて、労働者を個別分断して、相互に無関心な個人を作り出し、資本主義システムに依存させる。

 今日、グローバル資本によってもたらされる、労働市場のグローバル性によって、アジアの低賃金、膨大な相対的過剰人口の圧力となって強まり、これに重ねて、「労働者派遣法」による非正規雇用の拡大と労働条件の劣悪化が進み、構造的に資本の社会的権力の強化が進められている。

 労働組合の組織率は最低にまで下がり、労働者の力は後退している。

 ILOが一月二十二日に発表した世界の雇用情勢に関する年次報告書によると、二〇一二年の世界全体の失業者は一億九千七百三十万人となっている。今年は二億人を上回る可能性があると見込んでいる。また、去年は十五歳から二十四歳までの若者の失業者は、七千三百八十万人と、全体の三分の一以上を占めており、ILOでは「企業が求める技能と、若者が持つ技能との間に明らかな乖離がある」としている。EU内で最も不安定な財政状況にあるスペインでは、若年労働者の四十八%が失業状態である。

 資本の高度化が極限的に進み、労働を排斥し、かつ必要な労働は高度化され、労働者が働く場を失いつつある現在の資本主義システムの根本問題を提示している。ヨーロッパ経済の低迷が波及し、失業者の増大が、「新興諸国」に広がっていることが、新たな特徴である。新興諸国を先頭に新たな経済活動の活性化が予見されたにも関わらず、先進資本主義との密接化された相互作用によって世界資本主義全体が押し並べて低迷する局面に入りつつある。

 近代市民社会のキャッチフレーズは、「自由・平等・私有財産」であった。自由・平等の外見のもとでの賃金奴隷制こそが、実態である。階級として成立する以前ということは、競争と分断により、資本に依存させられている隷属状態にあるということを意味する。労働組合は、団結して資本に対抗して、まずは労働時間と賃金を巡る戦いからスタートした。資本の絶対的剰余価値の追求に対する闘争から相対的剰余価値の追求に軸足が移動して以来、労働組合は、資本の社会的力の強化に屈服さられてきた。巨大独占化、資本の高度化による労働者支配は一層複雑に巧妙化され、実質的包摂過程が進んだ。労働組合の側は、今日、官民の分断、企業エゴイズム、正社員組合と非正規雇用との分断、地域的結合の弱体化などで、労働組合は力を弱めている。われわれの同志は、このような現状の中で、労働組合の階級化に向けて努力している。

 政党は、少ブル政党ではあるが、労働者の利害を代表する性格を部分的は持っていた旧社会党が、連合の成立と主に、市民党になり、ブルジョアジーと労働者と市民に三つの顔を使い分けるのがリベラルと勘違いしてるリベラル党たる民主党、反米反独占の後者を引き下ろし、高福祉社会路線に転換した共産党など、労働者の利害を突き出す政党を欠落していることも大きな要因である。

 労働者が結合して協力するということは、この労働組合の現状を見ても、極めて困難なことであるということがわかる。

 

  (2)労働の疎外について

 

 資本の直接的生産過程と市民社会を貫く社会的力を抜きに、労働者の競争と対立、分断と強制された依存を語ることが出来ない。ところが、多くの理論は、この分析抜きに、労働者は、ブルジョア・イデオロギーに騙されている、とか、労働者は物象化されているのだとか、ひどいのになると、労働者が商品化されているとかということに根拠を求めている。確かに、現社会ではブルジョア・イデオロギーが「常識」とされ、資本主義のもとで、人間関係が、生産と社会において物象化されている(人間が物象化されているのではなく、関係が物象化されている)のであるが、これは結果であり、原因ではない。結果を拭い去ろうとしても、原因を知らずして放置して、正しいイデオロギーを、とか物象化された意識を正すとか語っても詮のない事である。

 レーニンは、「労働の疎外」ということを知らなかった、とよく言われる。「生産力主義」に陥り、労働者の新たな結合、独立ということが、共産主義にとって不可欠な要素であることを理解していいなかった。したがって、「マルクス・レーニン主義」という「マルクス主義」は、本当のマルクス主義ではなかったのだが、「労働の疎外」を語る、新しいと称する新左翼も又、実は「労働の疎外」を理解していない場合が多い。

 多くの誤りは、疎外の概念を、本質との対比、考えられた本質のと比較という方法で理解して、本質にもどれというものである。ここでの本質は、現象や表象の本質把握という意味での本質ではなく、理想形として考えだされたところの本質なるものである。たとえば「本来労働は自己活動であり、喜びであるはずだ」などなどである。このような考え方は、考え出された、考案された本質を再び理想として掲げ、再び理論や理想が目的となり、その担い手が主人公として登場することになり、又同じ事になる。

 労働の本質としての「自己活動」は、疎外の結果失われるのであって、したがって、疎外の止揚において、より豊かな形で取り戻されねばならないものである。また、労働が社会的労働となればなるほど、協働の充実感が高まり、相互に尊敬しあう関係が生まれる。これは社会的動物としてある人間の本源的喜びである。しかしここで注意しなければならないのは現実的歴史的疎外の結果として現実的に喪失するものなのであり、本質を抽象的に理想化し、これとの対比において疎外を語ることは、観念的である。そのようなものこそ、哲学的疎外であり、歴史的現実的疎外とを混同してはならないということである。

 マルクスは、疎外ということを、初期には哲学的概念として使い、後期には使わなくなった、という見解があったが、これは誤解である。歴史は疎外のなかで、疎外を通して前進してきた、とマルクスは語っている。これは、社会的主体にとっての疎外ということを意味している。

 マルクスは「疎外」という概念について、「経済学批判要綱 第二分冊 V」で次のように表現している。

 「労働の客体的諸条件が生きた労働にたいして、まさにその規模そのものによって表されているような、ますます巨大になっていく自立性をとり、そしてますますおおきくなっていく諸部分からなり社会的富が、疎遠かつ圧倒的な力として労働に立ち向かう、というふうに現れるのである。ここで強調されるのは、対象化されている、ということではなくて、疎外され、外化され、譲り渡されている、ということ、すなわち、社会的労働そのものが自己の諸契機の一つとして自己に対置した膨大な対象化された力が、労働者にではなく人格化された生産諸条件すなわち資本に属している、ということである。」

 「……この転倒過程は、歴史的な必然性にすぎず、ある一定の歴史的な出発点あるいは土台から生じる生産諸力の発展にとっての必然性にすぎないのであって、生産の絶対的必然性ではけっしてなく、むしろ瞬禍的な必然性であり、また、この過程に結果であり目的であるのは、過程の土台そのものをも過程のこの形態をも止揚することである。」

 「……生きた労働が帯びる、単に個別的な労働という、あるいは、単に内的にのみ一般的な、または単に外的にのみ一般的な労働という直接的な性格が止揚されるされるとともに、つまり諸個人の活動が、直接的に一般的な、すなわち社会的な活動として措定されるとともに、生産の対象的な諸契機からこうした疎外の形態が拭い去られる。それとともに、生産の対象的諸契機は所有物として、有機的な社会的身体として措定されるのであって、諸個人はこの社会的身体の中で諸個体として、しかし社会的諸個体として再生産される。」

 このように、疎外を現実的転倒として理解し、その否定を通して、諸個人の社会的活動、有機的な社会的身体が現れるとしている。このように、疎外とは、まず疎外を感受する主体があるということ、その疎外を肯定し、力を感じ、享受する主体と、苦痛と否定を感じる主体に別れること、疎外は外化を前提としていること、これが、外化する主体に敵対的に現れること、このような論理構造で展開されている。

 例えば、原子力技術=核技術は、現代の科学技術の疎外である。地球という一つの惑星が、放射能が減じることによって生命体の生息が可能になった歴史を持っているのだということを考えるとき、核分裂を起して放射能を発生させることをわざわざ技術とするという事自体が誤りなのであり、安全な平和利用という以前の問題である。戦争という帝国主義の最も醜悪な矛盾が、核開発を進め、科学者が動員された結果生まれた技術であるという出生そのものをこそ問うべきである。しかし、大戦後も「冷戦構造」の中で核技術は広がり続けてきた。この疎外を、取得としたり、利益としたり、核武装を狙ったり等々の肯定をする人々がいるということは、今日の科学技術が権力や資本と結びついている限り、至極当然である。

 当の科学技術者においても同様である。科学技術者が正しいことを語るなどというのは稀である。そのような人々は、貴重でもある。

 しかし、この同じ疎外を、否定と感じる人々、実際に深刻な被害を受けている人々が、反対する。さらに、人間的理性において反対する人も多く存在する。ドイツにおいて、核政策について、原子力の科学技術者でもなく、政治家でもなく、社会倫理における判断として、脱原発を決めたというのは、悟性ではなく、社会の理性において判断するということにしたということである。ドイツの社会において、大戦間の歴史の教訓として、人々の悟性では間違った判断になるという教訓が底にあるのだとすれば、ファシズムについての一定の総括が根付いていると感じる。

 しかし、日本の社会は、大戦間の歴史について、ファッシズム的国民統合の中にあったということを忘れ、この第二次大戦が帝国主義的戦争であったことを肯定的に受け止めた上に、自分たちの歴史を考えようとする傾向が増えている。このような歴史観は、今日に反映され、ファッシズムを容認する傾向が増えているということを示しつつある。これは、日本資本主義の帝国主義的復活以降の教育において、戦争に対する反省を削り落としてきた結果でもある。資本にぶら下がって奴隷的依存を深めるという傾向の拡大は、資本の競争力という一点において、原発容認につながってゆく。資本の破壊作用に目をつぶり、原発の危険性に目をつぶり、資本の言いなりにあらゆる悪と不正を容認して、資本にぶら下がる奴隷根性が、蔓延している。国民の世論が、戦前の日本を美化し、強い日本帝国主義に憧れ、沈没しつつある日本資本主義を、再び強国に、という夢をふくらませる傾向にある。すなわち、日本独占資本と帝国主義的ブルジョアジーを先頭に、「富国強兵路線」を選択しようとしている傾向があり、排外主義的帝国主義的国民統合を進めている。

 民主党が大飯原発再稼働に賛成した。民主党の脱原発のスローガンは、資本の「経済の低迷、資本の流出を招く」という脅しの前にあっけなく吹き飛んでしまった。この資本の脅し、力こそが市民社会を脅迫し、屈服を迫っている力なのであると同時に、資本への強依存を拡大している当のものである。実は、このような脅しが効果を持つということは、市民社会に新たな希望がないということの別の表現でもある。すなわち、資本主義の否定、新たな社会への希望が閉塞しているという社会状況が示されているのでもある。別の希望、別の選択があるなら、脅しが効かない。資本の延命、永遠化のためにほざいているだけと、相手にしないですむ。

 社会が経済的に、資本と賃労働に分裂しているのみならず、資本にぶら下がることで奴隷的生存条件を手に入れようとする人々も大勢いるということ、この経済の奴隷(資本の社会的権力のもとに人格と生存が隷属させられている)以外に生き方を知らない人々が、一九八九年のベルリンの壁の崩壊以降否応なしに増えていること、このことにより、国家の政治が、閉塞的な固着状況に陥り、すでに生産様式が限界に達しようとしているにもかかわらず、社会が新たな地平を見出す判断の基準を失いつつある。「ワシントン・コンセンサス」を先頭に、共産主義、社会主義は失敗であると総括され、資本主義以外に、歴史的選択の余地がないと喧伝されている。失敗したのは、真の共産主義ではなかったからであり、労働者の新たな協働社会を形成することに失敗したからである。労働者の側からみるならば、偽物の前衛党の支配を許したという敗北の総括こそが必要である。我々は、スターリン主義への批判は、レーニン主義の誤りに返して批判されねばならないこと、レーニン型の前衛党なるものが、労働者党でも共産主義的前衛でもなかったことを明らかにしてきた。ロシア革命によって切り開かれた新たな地平が、ベルリンの壁の崩壊に至ったという、この歴史的敗北の総括のなから、再び、共産主義への道を照らしだすことが、我々の歴史的使命である。

 

  (3)国家の統治系統図と社会的権力の強化と、分断と競争と強依存の拡大再生産に抗する団結 

 

 四年前、多くの人々が、ブルジョア政党としての自民党に対して批判的となり、政権交代を生み出した。民主党は、資本の社会的権力と国家官僚機構によるブルジョアジーの実質的支配の壁の前にもろくも崩れた。このことは、自民党政権の時代には、官僚機構と政党が政治内容的にダブっていることによって見えなかった闇の政治構造が、浮き彫りになって、その巨大な姿を白日のもとに晒したと言える。この聳え立つ官僚機構こそが、資本主義秩序の守り神として立ちはだかっている。当面する政権が、どのような政策を出そうが、不動の統治機構として,明治以降今日までその本質を変えずに肥大化しつつ構えている。国民主権国家としての建前における国家官僚という位置は、国家法人の政治的意志、法制的秩序を担うものとして自己を規定することになる。この国家が、ブルジョア市民社会の共同利害――分裂しているままでの共同利害であって、総合的利害ではないことに注意――の公的総括として成立しているということは、この市民社会の実質的社会的権力の支配を、政治的法制的にバックアップするものとして働くことになる。したがって、国家官僚は当然にも中立ではない。相対的過剰人口を背景に脅しをかけて、賃金労働者を搾取して自己増殖を続ける資本と資本家を擁護し、労働者の反抗を弾圧することが、現秩序を維持することであるとしている官僚機構の立ち位置は、いかなる外的な制御をも持っていないがゆえに、あからさまに白日のもとに晒され、批判的検証されるという回路を持っていない。議会も、議会選出の内閣も、これを掣肘する力を持たない。議員を犯罪者に仕立て上げることなど朝飯前、内閣へ協力するかしないかは官僚側の独自判断、情報操作はお手の物という具合である。闇の権力としての強大な力が、国民の税金を握り、その使い道をも握っているという歴史的構造そのものが、明治以降の政党政治の力の無さを示している。

 市民社会は、賃労働の搾取によって富を享受する資本の側と、搾取されている賃労働の側に大きく分裂している。更に、地代、不動産所得によって富を享受する層、私的労働・商品生産者、第一次産業生活者が存在する。この分裂している社会は、世代交代をとおして、圧倒的に賃金労働生活者を拡大再生産してきた。そのことは、逆に見るならば、資本への依存をより一層深めてきたということでもあるし、相対的過剰人口を拡大してきた過程でもある。

 国家の共同利害は、個々人の利害とも、個々人の総合的利害とも区別されるものである。単に、社会が階級的に分裂しているというだけではなく、この分裂の中で、何に依存して、または、依存させられて生活させられているのかということことが考えられなければならない。分裂の上に成立している共同利害は、力関係でどちらかに引っ張られる。この引っ張る力の一方は、社会的な力であり、他方はわれわれ労働者の側の結合した力である。

 疎外の進行は、必ずしも新たな革命の条件にはならない。疎外を肯定する人々が増えるのも、分裂して対立する市民社会の経済奴隷的生活の自然な流れであるからだ。そして個々に分裂している個人は、分断されたまま、自分ではなんの解決力を持ち得ないがゆえに、矛盾を解決してくれる人物を待ち望み拍手喝采することになる。全体主義の基礎は、個々人の絶望的分裂である。また、専制的独裁の強化は、個々人の分断の諸手段の強化である。

 分断され対立に置かれている分裂した個々人の生活条件が、手の届かないところに聳え立ち、それに依存しなければならないことを強制させられている資本主義社会の仕組みは、究極的には人格をも売り渡す奴隷的隷属を生み出す。

 原発立地下の住民の多くが、子供や孫、将来の世代の安全を売り渡して、金を手に入れて、人間的魂を売り渡している。全国各地に原発立地を選択しなかった多くの人々がいるのであるから、仕方がなかった、という訳にはいかない。このような魂を売り渡す依存こそ、いまの日本に蔓延しようとしているのである。多くの日本国民が、原発立地住民をあざ笑うその顔で、同じように、資本依存、原発依存を深めつつあるのではないか。

 労働者の非正規雇用の派遣が法制化され、労働市場は一変した。労働界も、公務員も、野党も、自分のことではないと傍観していた。「就労のチャンスが増えて良いことです」という説明に、完全に屈服していた。

 この派遣法こそ、労働者の分断支配、資本の社会的権力の強化の大きな梃子となっている。「ブラック企業」という言葉が作られ、「圧迫面接」という言葉が作られ、「リストラルーム」という言葉が作られ、資本の社会的権力の黒い姿がむき出しになるつつある今日、それに反比例するように、労働組合の組織率が低下している。分断支配が成功しつつあることを示している。

 労働市場が、資本のグローバル化にともない、アジア的規模に拡大されることにより、この傾向は、低廉な労働賃金の圧力、相対的過剰人口の圧力の飛躍的強化をもたらし、二重に資本の社会的権力の強化につながっている。更には勢いに乗って、国内の労働市場の一層の劣化を、資本の国際的競争力の強化の条件として求める声さえ大きくなっている。例えば、「休みたいならやめろ」発言で有名な日本電産の社長は、更に、「グローバルな競争に勝つには、法律を拡大解釈してもらい、勤務体系を柔軟化できるように すべきだ」と発言し、「昼夜労働」を進める労働条件の改善=改悪を主張し始めた。

 資本主義の国家は、なにも資本家階級が必ずしも政権についている必要はない。直接的生産過程においても、又、再生産過程においても、資本の社会的権力において、資本の専制的支配力を保持することが可能であり、かつ、政治的法制的にこれが担保されていればあとはこの政治法制的保証を、国家官僚が遂行することさえあれば、何も直接政府を握っていなければならないということはない。逆に見るならば、資本主義社会は、資本家の政治支配で維持されているのではないということである。国家独占資本主義段階においては、政権を社会主義者の党が掌握すれば、社会主義に移行可能である、とした構造改革派の考えがいかに間違っているかがわかる。今では、このようなことを主張する人さえいない。

 資本主義システムがゆらぎ、市民社会が二重の再生産過程として、すなわち、資本にとっては流通過程として資本の拡大再生産の後半過程として、賃金労働者にとっては労働力商品の再生産過程として、停滞を深めるに連れて、議会制民主主義は、ブルジョア政党の単独政治支配を持続しえなくなる可能性を持つ。これに対応して、社会的権力の強化が一層強められることになる。直接的生産過程における資本の先制支配力こそ、市民社会において資本の安定を規定する根底的力、規定的力であるからだ。

 一九七五年に自民党の単独政権が崩壊し、連立政権の時代となり、それ以降、この社会的権力の強化の試みはいっそう強くなってきた。ギリギリまで戦い抜いた三井三池における闘争で、民間の「労働指揮権」を巡る闘争に決着をつけた資本の側が、公共部門において「労働指揮権」に決着をつけようとしたのが国鉄民営化・マル生闘争であった。これ以降、資本と労働の力関係は労働の側に不利に傾いていきた。今日の事態は、この、資本の専制支配力の強化という中身について戦うことをしなかった労働の側の誤謬の結果でもある。

 「良い合理化と悪い合理化がある」などという、中途半端な反合理化の姿勢、合理化を許して賃上げを取引とする、条件闘争の姿勢こそが、自分たちの首を絞める結果を招いている。この深い反省にたって、我々は繰り返し資本の社会的権力の強化に対する戦いを呼びかけねばならない。

 この資本の社会的権力による専制支配に対抗するのは、市民社会に属しつつ、市民社会に属さない労働者の団結した人間的権力しかない。これこそが分断と絶望的孤立の上にそびえる全体主義に真に対抗する結合した力の源であり、人間的社会への希望である。

 

  (4)資本主義の危機とこれを突き抜ける希望

 

 ベルリンの壁の崩壊は、ロシア革命の希望にあふれていた新時代が、ボルシェビキの独裁によって暗転して以降の、歴史的必然であった。しかし、ソ連の誤れるレーニン主義=スターリン主義の否定は、新たな人間的共産主義へと向かわずに、資本主義へ舞い戻った。この逆流の中に今日の世界史はある。

 マルクス主義は、単なる誤れる理論、理論による社会実験は失敗、などと総括され、捨て去られようとしている傾向にある。自由主義経済の社会主義経済に対する歴史的勝利、と叫んだアメリカ帝国主義のイデオローグが、全世界を大手を振って闊歩している。

 日本の大半のインテリゲンチャは、この流れに飲み込まれてしまっている。もはや資本主義を正面から否定する論調は薄くなり、資本主義を前提としての改革をのみ語る。今日の破綻しつつある資本主義システムを維持しつつ、ということはどういうことなのか? 泥沼化する悪の選択以外に、奴隷的依存を深めるだけにしか向かわないということは、資本の本性を知るならば、当然予測可能なことではないのか?

 このような傾向にあるのは、先にも述べたように実は、多くの人々が、ロシア革命とそれ以降のソ連の歴史が、「社会主義の理論」の社会実験の失敗の歴史と考えているからである。確かに、スターリンは「共産主義は科学である」として、プロレタリアートの実践的意識から分離して、理論家のプロレタリアートに対する独裁へと転じた。レーニンは、このスターリン主義として明確な姿を取る、転倒した独裁を基礎付けている。レーニン主義の誤りを克服する視点抜きには実は、ソ連の崩壊を正面突破できない。日本共産党を始め、新しいとされた新左翼においても、マルクス主義を、レーニン主義をとおして、「マルクス・レーニン主義」という形でしか理解してこなかった日本のマルクス主義の欠点が、今日の日本のインテリゲンチャの精神的後退と堕落を招いている根本原因なのである。

 レーニン主義がいかに偽物のマルクス主義であるかということを、改めて強調しなければならない。マルクス主義=共産主義の今日的復活が、歴史の逆流に立ち向かって成し遂げられねばならないのである。

 後進国革命の歴史的制約性のなかで、資本主義的発展か国有化計画経済路線なのかとという選択しかないとすれば、それに伴い、資本家政党によるブルジョア独裁なのか、急進的政治エリート集団の専制独裁なのか、という政治形態が対応する。これらのいわゆる「開発独裁」の中には、権威主義的なもの、全体主義的なもの、更に社会主義を標榜するもの、アジア的生産様式に基礎を持つものなど、多様ではあるが、その中で、社会主義・共産主義を標榜することで、権威を保持したいとする権力が、ここでは問題である。

 すなわち、共産主義の成立する前提条件である、資本主義の発展と労働者の団結の社会的政治的発達を欠落した歴史的条件のもとでの、旗印としての「社会主義・共産主義」という政治支配は、上からの社会変革の無理が不可避的に生じる。生産と統治の主体として労働者の自主的結合がなければならないのに、それを欠落して、政治エリートが生産過程と統治権力を独裁することから、共産主義の旗を掲げながら、共産主義の前提を不断に否定するという矛盾に陥る。その結果は不可避的に、必然的に、そのエリート独裁の否定につながる。

 これは、ロシアに限らず、アフリカ諸国、古くはインドネシアのスカルノ政権、最近ではリビアのカダフィ政権が経験してきた道である。後進国の、国有化・計画経済路線の政治エリート専制支配としての政治形態に対して、IMF路線や「ネオ・コンサバティブ」の上からの民主主義路線も又、必然的に失敗する。特に、中東、アフリカの部族社会、首長制社会に、上からの民主主義路線は、無理がありすぎる。土地や部族、宗教規範の被制約性が強い社会状態が変化しない限り、市民社会と近代国家は成立しないのであり、これを無視しての上からの、外部からの導入は誤りである。

 先進国革命の遅れが、労働者革命として出発したロシア革命を孤立させ、かつ、人口の七割が農民であり、労働者の階級形成の遅れと相まって、政治エリートの独裁へと変質して、その否定が、共産主義そのものの否定につながっている今日、これを超える道は、これまでの、偽物の共産主義をきっぱりと否定し、真の共産主義を明示していく必要がある。その意味で、先進国革命の必要性が高まり、その質において、巨大独占資本と金融資本の破壊作用にあえぐ後進国社会に対する波及力と影響をおよぼすことが必要である。

 世界資本主義がますますひとつに結ばれ、各国経済が緊密な相互作用の中にある中での、資本主義システムそのものの限界が露呈しつつある今日、この客体的条件が熟しつつ、しかし、主体的条件としての労働者の自主的結合の遅れこそを問題としなければならない。共産主義は、あくまでも下からせり上がる、生産と統治を、自らの共同による力によって実行管理する姿として登場するのであり、上からの独裁としての姿では決してありえないこと、真の共産主義か偽物の共産主義かの指標はここにある。

 世界的視野から見れば、「社会主義圏」から資本主義へ移行し、再び資本主義の矛盾に直面しこの否定を考える人々に対しても、「自らの共同による自らの労働の支配」への道こそが、過去の「社会主義」を超える核心であることを示してゆかねばならない。ポーランドの自主的労組連帯は、「社会主義圏」で唯一の労働者の自主的な結合として現れた。しかし、官僚制計画経済路線にたいして、自由市場路線を対置し、反共産主義へと走ってしまった。この自主的結合は、生産と政治を自分の掌中に収めること、生産協同組合社会へと向かうべきであった。スターリン主義を右にではなく、左に突破するべきであった。しかしこれも、先進国の労働者の運動の低迷の結果でもある。

  今日、マルクス主義=共産主義の旗印は、プロレタリアートの国際的階級形成を!である。

 階級形成論は、まさにこれを基礎づける理論である。

 

 三 解放派の理論の性格について

 

   (1)どこまで遡及するのか

 

 階級形成論を新たに論じるにあたって、我々はどこまで遡及するべきなのか、ということが問題となる。われわれの内部の理論問題を巡る失敗が、単に多くの組織員の、解放派の理論の不理解というだけに起因するものではないからである。

 マルクス主義の把握は、ヘーゲル哲学の内容的否定を媒介にすることなく、ブルジョア学問や常識で理解しようとするとき、必然的に空想的社会主義へと転落する傾向がある。特に日本のインテリゲンチャが、ヘーゲル哲学を理解していないまま、レーニンの「哲学ノート」あたりでヘーゲルとマルクスの関係を理解したつもりになってしまっている。さらには、カント的な「永遠」や「善」を前提として理想主義的にマルクスを曲げて読み込む傾向がある。ヘーゲルが、カントの哲学について「外的認識」と限界を指摘しているのは、判断する自我およびその悟性が、対象と分離されたまま固定されている構造そのものについて批判しているのである。

 「自我が単に意識の主観として現れるのみであり、或いは自我が自分を単に判断の主語として用いることができるのみであって、自我が客観として与えられるための直観が欠けているということにも欠陥がある。」「われわれが常識的に自我と呼んでいるような仕方で、自我が没概念的に単なる単純な観念(表象)と見られるとすれば、自我は抽象的な規定であって、自分自身を対象とする自己関係ではない。――自我は、この場合には単に両項の一方にすぎず、客観性を欠く一面的な主観にすぎない。」(ヘーゲル「大論理学 第三巻第三篇第二章」)

 ヘーゲルの論理学が、その転倒において合理性を持つというのは、主体自身が自己を展開しつつ自己を認識するものでなければならないとしたからである。したがって理論という時、自分自身についての存在把握を含んだ理論ということを考えねばならない。この点を見失って、単に己の自我において、理想社会や、理想の目的を判断し、次に、この目的の手段としての己を考え、その多数性への拡大を考えるというやり方は、エゴイズムそのものである。そうすると、その結合は、自我の寄せ集めとなり、単に共通な外面を持った、形式的なものとなる。それでも無理にその結合を強化しようとすると、宗教的な人格的同一性を掲げるか、特定の自我の下への服従となるかしかない。

 理論が、このような主観的な願望や理想(すなわちその判断における自我の欲望によって肯定されているがゆえに己の目的となっているという背後の性格がある)として考えられる限り、それは社会的主体の外にある「外的理論」なのである。

 そうすると、次に二つの問題が出てくる。レーニンの「労働者への外部からの理論の持ち込み」について、これを否定するも肯定するも、理論を外的なものとしか思い浮かばないような人たちは、理論性についての強調か、理論性の軽視かという事態にしか至らない。しかも、理論を先のような外的な理論として考えているのであるから、理論性の強化は、実は形式的なものにしかならない。

 ヘーゲルは、主体自身が自分自身を認識するとしている。しかも、この主体は、単なる個ではない。すなわち主観は単に規定的な自我ではなく、多数性へと展開される主観である。この多数性から生まれる最初のものは共通性である。しかし、この共通性は、外的なものにすぎない。ここでは総体性が掴まれることになる。次に反省を通して、必然性と本質へと向かうことにより、全体性がつかまれる。これが普遍性であると同時に個別性である。個別性と普遍性の統一には、外的な共通性のみならず、内的な必然性と本質が媒介されねばならない。これが、「我々としての我、我としての我々」または、「人々から人へ」の内容である。

 普遍性の第一の前提は、多数性である。次に現れるのは共通性である。しかしこれは、まだ、外面的なものである。そこに生まれるのは総体性である。この段階では、内的な関連がまだ明らかではない。

 普遍性は、単に個別性を固定的に並べて、そこから共通なものを抽出して、全体に被せるという外的なものではない。

 総体性から全体性への発展は、この普遍性が本質的である場合である。本質的ということは、自己と他者との否定的統一を媒介し、かつ、自分と自分自身の内的反照を持っているということである。別の言い方をすれば、個別性が、他を媒介することによって、自己を再把握するということ、および、それによって定立される普遍性は、不断に、生み出したこの個別の交互作用の変化によって否定され、新たに生み出されざるをえないという否定性を持っているということである。すなわち、ある段階における前提から措定されたものは、その前提に反照して、否定され、再措定されるのである。

 ヘーゲルは、「理念は本質的に過程である。というのは理念の同一性はそれが絶対的否定性であり、したがって弁証法的であるかぎりにおいてのみ概念の絶対的で自由な同一性であるからである。」(「エンチュクロペディ 二一五」)と規定する。普遍性とは静止的なもの、個別と普遍の統一という表現は、個別に普遍が単に覆いかぶさっているに過ぎないか、単なる中和にすぎない。

 われわれが「結合された目」ということを認識論の根底に置くのは、この、個別性の自己と他者の媒介的統一の不断の発展を基礎に、実践的意識の理論化としての理論形成作業が、したがって、不断の反省をとおして再措定されるという過程をもって発展する理論性を大切にするからである。

 次に普遍性の重要不可欠の要素は必然性である。

 ここで扱う必然性とは、機械的必然性ではなく、自由な活動の中の必然性である。

 偶有性と自立性は、必然性の反対を表すと思いがちである。しかし、ヘーゲルにあっては、この偶有性は、「自己自身への反照の照り返しが同時に自立的直接性であり、いろいろ違った現実性から成っているこの有が直接的に自己自身への一つの照り返しにすぎないのであるからである。」(「エンチュクロペディ 一五九」とされる。すなわち、主体の豊かな多面性の客観化なのであって、「無限な自己への否定的関係」とされる。

 これは主体の内的必然性が、外面化したものということを意味する。ヘーゲルは、過程の内的な必然性を普遍性の重要な要素としている。必然性のないものは、過程の内部には存在してないからである。

 われわれは、繰り返し、人間の歴史は、疎外をとおして、疎外の中で発展してきた、と述べてきた。

 ある特定の生産は、その社会に規定的に作用する。また、変化した社会は、生産に規定的作用する。この相互前提的相互規定的過程は、同時に、私有財産の歴史において、富を外化し、生産力を発展させ、交通を世界的に結びつけ、現実的な個人を、職業、身分、土地、部族等々から解放された個々人を生み出してきた。そしてこの過程こそ、資本主義の時代になって、生産力が資本という外在的な力、社会的な権力として登場することによって、疎外の究極的な、耐え難い、限度を超えるところまで進んできた過程でもある。

 われわれが必然性を問題とするのは、この、生産と社会の相互前提的相互規定的過程の内的必然性である。歴史的必然性に根拠を置く実践こそが、普遍的な意義を持つのである。

  真の目的は、この歴史的必然性の洞察の上にたてられねばならない。目的主義というのはこれから外れた、外的な恣意的な目的の手段に成り下がることを意味する。

 この二つの要素を持たない個別と普遍の統一としての普遍性とは何か?

  外的な死んだ普遍性、または、特定の狭い利害や、特定の自我のよって生み出される特殊にすぎないものの普遍性としての偽装、または、宗教権力、全体主義権力、ブルジョア国家、スターリン主義権力等々。

 外的普遍性は、個別を包摂し、圧迫し、また 排他的であり、また、死せる普遍性を維持するために、再措定、否定性のエネルギーを遮断することを必要とすることになる。

 普遍的なものが外的となり、抑圧的な支配として現れることに対する反発から、単なる共通性のみを大切にし、普遍的なものをとおして、個別的なものが反省的に普遍的に規定され直すという過程を拒否して、個別を保持しようとするのは単なるわがままな幼児性にすぎない。アナーキズムは総体性にすぎない結合しか産まない。真の普遍性をつくりだすことは、他者をとおして自己を反省するという過程を必要とするが、単なる自己愛、自我主義は、大人になりきれない幼児性なのだ。

  疎外された普遍性を真の新たな普遍性によって超えてゆくことこそが問題である。

  疎外された普遍性しか知らないことから、普遍的なものは全て疎外される必然にあると考える。したがって、政治には関わらない、自らの政府を樹立するという事を拒否するという考え方は、この旧来の疎外された普遍を超えることはできない。あたかも汚い大人に対する無垢な子供の反発に等しい。

 国家(ブルジョア国家)について、マルクスは共通利害の外化されたものとしている。それに続けて、これは個々人の総合的利害でもなく、個人の利害でもないとしている。分裂する特殊と特殊の共通の利害ということは、一方の陣営においては、それが普遍的でありその中に満足を得ると同時に、他方にとっては、それは特殊利害の普遍的装いによる押し付けであり、鋭くは、暴力と抑圧、虐殺としてのしかかることになる。

 ここで重要なことは、必然性を持たない普遍性とは何か?ということである。それは恣意的であるということに他ならない。

 マルクスが、個々のプロレタリアートがなにを目的としているが問題ではなく、又、すべてのプロレタリアートが、ある目的を持ったとしてもこれは重要ではなく、なにをすることが余儀なくされているのかということこそ大切であるというのは、この必然性のことを強調しているのである。

 ブルジョア民主主義は、特殊利害の他の特殊利害に対する勝利を意味する。

  プロレタリア民主主義は、この必然性において、他の個々人を普遍性に従えさせるということである。不幸にも必然性を持たない集団が多数の場合は、必然性に返して反省を必要とするであろうし、また、この必然性を十分に理解しないで反対する場合でも、事態の推移の中で、反省的に合流可能なのであるから、寛容であるべきである。反対派の粛清という事態は、己の普遍性に必然性と道義性を、時間をかければ理解してもらえるという自信がない、偏狭な、偽の普遍性によって相手を屈服させようとするからであるし、弱さなのである。

 プロレタリア階級闘争が、自己批判的前進が可能であるのは、この必然性の要素がある場合だけである。プロレタリア革命は、下向線をたどる反省をとおして成長する過程であるというのは、本質的必然的要素を持った普遍であるからだ。

  プロレタリアの団結は、上記のような普遍性に貫かれねばならない。そして、意識的にそのようなものとして創りあげてゆかねばならない。

 われわれが、戦略論を「洞察された歴史的必然性」と位置づけるのも、階級形成の中からの党建設というのも、この普遍性の根本的性格=どこまでも発展的な団結としてのプロレタリイアートの団結に根ざすからである。だからこそ、この社会的主体の解放が、人間解放の過程なのだといえるのである。

 また、余談ではあるが、ヘーゲルの精神現象学の中から、人間の関係を「主―従」の自己意識の対立という局面しか理解する事ができないエゴイストが、「他人の眼差し」と自己意識の対比において、実存主義を生み出すが、他者をとおした反省、普遍性をとおした反省として自己を再措定するという回路は、普通に社会的労働の中において、協業としての労働において自然に行われていることである。非労働者の自己意識の理論が、労働者にとっては、知識人の戯言として映るのは、このような事情がある。

  (2)主語と述語の転倒

 

 「解放bU」において展開された「主語」と「述語」の転倒という指摘は、生きた現実の個々のプロレタリアが、プロレタリアートという普遍性に規定されるときに、間違えて規定されて、これが現実のプロレタリアに当てはめられ、そして、この意識と目的を代表するという集団が独立してそびえ立ち、現実のプロレタリアを支配するという逆転、転倒を説明しているのである。

 したがって、ここには二つの問題がある。第一には、この普遍性は本物ではないことがあげられる。したがって、現実の生きたプロレアリアーは、この普遍性の中には含まれていないこと、すなわち外的な理論であることである。第二には、しかし、普遍的なものとして実体的に代表として君臨するならば、それは疎外された普遍性であり、敵対性となることである。普遍性と個別性の統一ということは、新たな個別性にたいして、新たな普遍性が生まれるということを意味する。なぜなら、相互に規定的であり、相互に前提的であるからだ。別の表現で述べれば、前提作用が同時に措定作用であり、反省をとおして、自己に帰るからである。ところが、この外的な理論は、絶対に下からは変えられない性格となっている。

 例えば、革マルの組織論では、下から上が変えられてはならないとしている。これは、特定の自我(黒田)が判断した最高のものもの、教義が絶対であること、これへの一体化以外は認めないという宗教構造だからである。スピノザ的実体に、ヘーゲルの「目的観」をひっつけて動くようにして、それにレーニンの誤れる「物資の最高の所産としての脳髄」という言葉を借りてきて被せ、「創造的物質」なるものを捏ち上げただけの、それを「神様」と言い換えればすべて当てはまるような見せかけの理論にブラさがっている小心者の小ブルインテリの集団が、「向自的プロレタリアート」だそうだが、見せ掛けの理論性にだまされているだけである。自分で、ヘーゲルもマルクスも読めないような人々が、他人の解釈したものをありがたがるのだから、その程度の人たちは、だまされるのも仕方がないのかもしれない。

 われわれのレーニン外部注入論批判は、労働者の規定そのものが誤りであり、次に、外部の理論が空想的社会主義理論であり、したがって、プロレタリアートの代表を僭称する偽物の前衛なのだという批判である。それを、先程の自我と対象、自我と観念という常識的意識で理解しようとするならば、その肯定も否定も無残な誤りとなる。マルクス主義において、認識の主体は、社会的主体であるということは、取りも直さず、労働者の存在をも対象とすると同時にそれを前提としてそこに立ち、認識活動をするということである。したがって、不断に自己を対象化しつつ、全経済政治を対象化する過程は、一層の反省を媒介に、広さと深まりを持つものとなって発展してゆくものである。「結合された目」に不断に返され、再定立される理論活動こそが生きた普遍的理論である。

 解放派が安保と三池の戦いの中から生まれてきたというのは、理論面で言えば、次のような意味を持つ。安保闘争は、理論的には、反革命階級同盟という理論を確立した。三池闘争は、合理化が、機械と人員配列の改変をとおして、資本のもとへの隷属の強化が劇的に進行するものとして、社会的権力論という理論を確立している。これに対する、労働者の団結した闘いを鋭くつきだした。生産点における労働者の「自らの共同による自らの労働に支配」に向けた闘争であった。炭労さえも、三井三池の労働組合をサンディカリズムと批判し、三池は屈服した。これらの闘争の経験が基礎となって、階級形成論が、したがって、行動委員会運動の中からの党という組織路線が確立されたのである。我々の理論は、闘争、運動と別ところから、特定の自我とその悟性が描き出したものではない。「結合された目」こそが、理論を発展させてきたのである。

 教育闘争においても、六五年早大闘争の中から、「産学協同路線反対」という「反帝教育闘争論」が書かれ、その後の東大闘争を始めとする全国大学・高校教育闘争へと広がっていったのである。当時は、日本共産党のみならず、ブント、構造改革派を含めて「より良き学園生活」路線であった。この中で、反帝教育闘争論」は、組織における合理化論の脱稿、同時に東大教養学部においてひらかれていた技術論研究学生ゼミナールにおける科学技術と資本の関係についての考察、これらが基礎になって生み出されたものである。これは六五年学生解放派の理論誌「解放bQ」に掲載されたのであるが、これはまさしく「結合された目」によって生み出されたものである。この論文は、内容的には荒削りで、表現も問題があるが、学生存在論を含みつつ、それを基礎に教育の資本主義的矛盾を明らかにするという論理構造を持っていた。だからこそ、単に理想主義的教育論を振りかざすそれまでの教育論を超えて、さらに「より良き学園生活」路線の物取り要求運動を超えて、矛盾の根底に迫りうる戦う理論的武器でありえたのである。又、矛盾の根底に迫るがゆえに、巨大な敵を生み出し、そして敗北したのである。

 

  (3)必然性と本質の共有

 

 団結した共同作業を進めるための理論活動においては、自我において、表象や対象を扱うという常識的方法を取り去る必要がある。自分たちの必然性と本質に反省して、したがって、不断に自分自身の存在を掘り下げつつ、対象を深く広く把握すること、その関係そのものの必然性を洞察すること、これが大切である。団結が普遍的に強固になるためには、この必然性と本質についての共同認識、理論的共有が媒介とならねばならない。

 単に外面に対する共通性だけではこれは総体性にすぎない。これは形式的なものである。内的な統一性としての全体性は、必然性についての共通の理解の上に立つものでなければならない。生死がかかる場合においては特にこのことが重要である。「万人が一人のために、一人が万人のために!」は、自我の寄せ集めや、特定の自我への同一化では不可能なのである。

 実践的意識を根底置いての理論的意識の定立という場合、結合された認識の発展のためには、言語の問題がある。物事を正確に表現するためには、理論的言語が不可欠であるが、常識的日常的言語として誤解されることをあらかじめ考えて慎重に表現されるべきであろう。 

 常識的言語と、理論的言語の区別は重要なのであるが、理論的言語が、常識的言語として扱われる可能性は予め推量可能であるからだ。この点から、これまでの解放派の理論が誤って理解される可能性を考慮した言語を考えるべきであろうという反省が生まれる。

 すなわち、理論的言語が、常識的日常的言語のようにうけとられて、誤った方向へと解釈され、思わぬ結果をもたらすことがないように、注意しなければならない。その焦点こそ、「レーニン外部注入論批判」である。

 

 四 レーニン主義と階級形成


  

(1)レーニンの理論の諸特徴


 

 レーニンは、現象と本質を取り違えるという誤った考え方を持っている傾向がある。これについては、あとで詳しく述べることにする。そして、ロシア革命コンプレックスの日本の左翼が、これを批判するどころか、これにすがって自説を展開するという堕落を示してさえきた。

 「哲学ノート」における、脳髄が物質だからこれで思考されたものは唯物論であるとか、(これがいわゆる「レーニン的物質」なる珍論)小論理学の目的論においても、「唯物論的な内容がある」などと、類推でものをいう。これらが、レーニン崇拝者に悪影響を及ぼしている。

 ヘーゲルの目的論は、精神(その展開において神の意志の内容を開示するというヘーゲル的主体、すなわち神の自己意識)が、神の秘めたる目的に到達して、それを推進動機として更に進むという項目なのであって、この論理的位置を理解することなく、まちがって理解しているのである。

 ちなみに革マルの黒田は、このレーニン物質とヘーゲルの目的論をくぐらせて、「創造的物質」の最先端としての己なるもをでっち上げたのである。虎の威を借る狐の理論は、神やスピノザ的実体をレーニンの低次元の誤謬をありがたがって頂いて言い換えただけにすぎない。

 レーニンは、プロレタリア独裁についても、過去の封建的又はブルジョア的専制政治としての独裁という現象をのみ追いかけて、歴史上初のプロレタリア革命としてのパリ・コミューンについては、戦術的に敗北したあれか、程度の関心しか示さない。「国家と革命」においても、マルクスの文章から自派の権力掌握のために利用するべく引用することしか頭にない。マルクスが「フランスの内乱」において、コミューンを鋭く分析した姿勢とは反対に、恐るべき無関心さを見せるのは、単に偶然ではない。本質を見抜く力が全く乏しい。 

 このように、レーニンは、現象と本質を取り違える程度の理論性しか持っていない。

従って、「何をなすべきか」における展開は、現象を述べているのではなく、本質的にそのようだと思っているのである。

 問題は二重である。そもそも、労働者の規定が、経済闘争しか出来ない、すなわち、賃金の額と労働時間を巡る闘争しか出来ない存在とされている。資本のもとへの隷属、(形式的・実質的包摂)資本の社会的権力との敵対的関係について、及びこの否定については理解していないのである。

 更にもう一つの問題は、マルクスは、理論活動の社会性(「経済学哲学草稿」を参照してください)を重視する。シュレジェン(シレジア)地方の労働者共産主義者との共感と共同作業、共産党における組織活動の中で労働者階級の内側から、その立場において理論活動を展開しているのであって、彼が知識階級の出身だから、彼の理論は階級の外側にあるという事ではない。理論の社会性、その本質が問題であるにもかかわらず、マルクス主義と、空想的社会主義を、知識階級の人間の書いた理論であるからとひとまとめにしているのである。

 これと別に、空想的社会主義の諸理論が階級の外側で論じられていたのは、そして、それが、運動の中で、宗派主義として現れたことは事実である。もしレーニンが、これらの諸理論を、自分の理論と同じと感じていたというなら、彼も又、階級の外から、この理想の国を掲げて、階級を味方に付けなければならないと思っていたのかもしれない。

 マルクス主義とは程遠いこのレーニンの低レベルの理論性は、革命の勝利によって覆い隠されてきたのであって、マルクス・レーニン主義という言葉そのものが、アジアの一部の毛派しか使われなくなっている今日、正確な見直しが必要である。

 レーニン主義に歪曲されたマルクス主義しか知らない多くの左翼がほとんどという中で、我々は、五十年前からレーニンの誤りを指摘して来た。

 滝口は「革命的プロレタリア党建設の歴史的教訓」の中で、次のように述べている。

 「共産主義的意識は、労働者において本源的に発生しそして労働者の実践において証明されつつ発達し、この闘う労働者の革命的実践において現実に働いている意識としてはじめて自己自身に確信をもっている意識である。共産主義的意識ははじめから、またどこまでも、実践的意識であるが、それは理論的対象的認識が発達すればするほどますます明確な形態でかたちづくられる。注意すべきは、この意識が理論家を担い手として、単なる理論的姿態をとっているのは、この運動の発達を示すのではなくその未発達を示し、この運動の発達とともにそれは単なる理論的姿態をとることをやめるのだということである。」

 真の共産主義理論は、労働者の実践的意識を基礎としていること、そして、切り離された理論は、空想的理論にすぎないことを明らかにしている。

 

  (2)「共産主義理論の外部規定」について

 

 レーニンは、「何をなすべきか」において、社会民主主義的意識すなわち共産主義的意識と労働者の関係、共産主義党と労働者の関係について、次のように述べている。

 「労働者は、自分たちの利害がこんにちの政治的・社会的体制全体と和解しえないように対立しているという意識、すなわち社会民主主義的意識を持っていなかったし、また持っているはずもなかった。……この意識は外部からしかもたらしえないものだった。労働者階級が、まったく自分の力だけでは組合主義的意識、すなわち、組合に団結し、雇主と闘争を行い、政府から労働者に必要なあれこれの法律の発布をかちとるなどのことが必要だという確信しか、つくりあげられないことは、すべての国の歴史の立証するところである。」

 「『科学の担い手は、プロレタリアートではなく、ブルジョア・インテリゲンツィアである。近代社会主義も、やはりこの層の個々の成員の頭脳に生まれ、彼らによってまずはじめに知能のすぐれたプロレタリアたちにつたえられ、ついでにこれらのプロレタリアが、事情のゆるすところで、プロレタリアートの階級闘争のなかにそれをもちこむ。社会主義的意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ(外部からもちこまれた)あるものであって、この階級闘争のなかから(原生的に)生まれてきたものではない』。そこで『プロレタリアートのなかに彼ら自身の地位と彼ら自身の任務とについての意識をもちこむこと』『が社会民主主義党の任務である。』」

 「労働者が社会主義のイデオロギーをつくりあげる仕事に参加するのは、「労働者としてではなく、社会主義の理論家として……参加するのである。』」

 

 我々は、この主張を「外部注入論」として批判してきた。

 改めて、ここでこの問題を掘り下げることにする。

 ここには、大きく3つの要素がある。

 第一に、労働者についての本質規定。

 第二に、共産主義的意識と労働者の関係。

 第三に、労働者の階級政党と共産主義者の組織の区別性と同一性。

 「解放 NO.6」における「外部注入論」という批判が、これまで内外に誤解を生み出すことが多かったのであるが、より正確にするために、「共産主義理論の外部規定」と規定し直すことにする。

 この「「共産主義理論の外部規定」こそが、レーニン主義の根幹であり、また、労働者に対する背反と抑圧につながる原則問題である。

 第一から検討しよう。

 レーニンは、資本主義の矛盾について、資本主義そのものについては、矛盾を掴んでいない。拡大する資本にとっての市場の相対的縮小については、資本の高度化と、金融資本化、及び帝国主義的市場争奪戦が結果として導き出されるとしている。

 特に、資本主義は、資本の高度化によって先に進むことが可能としている。そして、無制限の生産力の拡大傾向が、市場の拡大と不均衡となることから、矛盾が現れるとしている。

 しかし、資本の高度化が、利潤率の傾向的低下をもたらし、かつ、資本の巨大化と、大量生産による投下資本の短期回収が、一層の競争と、市場の過飽和によって困難になること、労働を排斥すること、それによる消費の縮小、受給貧民救済の財政規模の拡大、等々の諸結果については理解していない。マルクスは資本主義の制限は資本の本質こそその制限そのものであるとしている。

 ましてや、資本主義的生産の、生産過程における精神的肉体的破壊作用、資源の争奪戦と環境破壊による自然と大地の破壊、病める都市と沈みゆく農村の問題、科学技術の非人間的利用とその破壊作用については、全く理解していない。

 そもそも、資本の高度化とは、相対的剰余価値の追求のためにおこなわれるものであり、労働の強度と密度を資本の意志によって制御することを可能とするものである。

 したがって、絶対的剰余価値の追求が、労働者の形式的包摂であるならば、相対的剰余価値の追求は、労働者の実質的包摂であると規定するのである。この資本の意志のもとへの労働の支配の力こそ資本の社会的力であり、資本の専制的支配力なのである。自らの共同のもとに自らの労働の支配を!という要求は、単に失業の危機に対するものだけではなく、この隷属した労働を自分たちの労働にするためでもある。

 レーニンは、もっぱら搾取と市場争奪戦としての帝国主義戦争の悲惨をとらえただけである。

 賃労働と資本の矛盾は、資本のもとへの隷属、社会的権力のもとへの専制支配とその条件の上に成立する搾取、相対的過剰人口の拡大という慢性的失業の拡大として現れる。資本の高度化がまだ始まったばかりの二〇世紀初期の資本主義についての把握に限界があるのは致し方がないとしても、労働者の闘いが、搾取にたいすものと限定され、その条件である、労働時間と賃金を巡る資本との攻防しかおこなわない存在として規定しているのである。

 共産主義的意識の根本は、自らの結合による生産過程の支配、ということである。

 循環的な恐慌とその結果としての大量失業という点から見ても、生産過程を支配するという思考は生まれ得るのであって、資本と賃労働を固定的にして、それに依存するのが労働者という考えは、根本的に誤っている。

 この誤った考え方は、レーニンが、テーラー方式の導入と企業長単独責任制を第九回大会に提起することにおいて、決定的となる。

 一九一八年の「ソヴェト権力の当面の任務」において、

 「ロシア人は先進国民にくらべると働き手としては劣っている。ツァーリズムの制度のもとでは、また農奴制の遺物が生きのこっているあいだは、そうなるよりほかなかった。働くことを学ぶこと――ソヴェト権力はこの任務を全面的に人民のまえに提起しなければならない。この点での資本主義の最新の成果であるテーラー・システムは――資本主義のいっさいの進歩と同様に――ブルジョア的搾取の洗練された残忍さと、一連のきわめて豊富な科学的成果――労働のさいの機械的運動の分析や、よけいな不器用な運動の除去や、最も正しい作業方法の考案や、もっともすぐれた記帳と統制の制度の採用など――とを、そのなかにかねそなえているのである。ソヴェト共和国は、この分野での科学と技術の成果のうち重要なものはすべて、どうしてもみならってじぶんのものとしなければならない。社会主義を実現する可能性は、われわれが、ソヴェト権力とソヴェト的管理組織とを、資本主義の最新の進歩とむすびつけることに成功するかどうかによってこそ、きまるであろう。われわれは、ロシアでテーラー・システムの研究と教育、その系統的な実験と応用とをやりはじめなければならない。」と提起した。

 さらに、この点が重要なのであるが、その指揮系統について、次のように展開する。「あらゆる機械制大工業――すなわち社会主義の物質的生産的源泉であり、基礎であるもの――は、数百、数千、数万の人々の共同作業を方向づける意志の、無条件的な、もっとも厳格な統一を要求する。」「技術的にも、経済的にも、また歴史的にも、それが必要であることはあきらかであり、社会主義について考えてきたものならだれでも、いつでもこれを社会主義の条件として認めている。しかし、もっと厳格な意志の統一は、どうしたら確保できるであろうか? それは数千の意志を、一人の意志に服従させることによってである。」

 「この服従は、共同の仕事に参加する人々の自覚と規律性とが理想的である場合には、むしろ、オーケストラ指揮者のおだやかな指揮を思わせるかもしれない。もし、規律性や自覚が理想的でない場合には、この服従は、独裁の鋭い形態をとることもありうる。」

 「われわれは、春の大水のように湧き出で、すべての岸からあふれでる、あらしのような、勤労大衆の集会民主主義を、作業時間中の哲の規律と、すなわち作業時間中は一人の意志、ソヴェト指導者の意志に、異議なく服従するということと結びつけることを、またまなびとらければならない。われわれはそれをまだまなびとっていない。われわれはそれをまなびとるであろう。」

 「革命運動の歴史では、個人の独裁はきわめてしばしば革命的階級の独裁の表現者であリ、にない手であり、先導者であったということ、これについては反駁のできない歴史の経験が物語っている。個人の独裁がブルジョア民主主義と両立していたことは、疑いない」という論法で、階級としての独裁という概念を、その代表による独裁へと、さらに個人の独裁へとずらしていったのである。

 このような論法には大きな誤りが二つある。その第一は、レーニンは、テーラー・システムについてそれが労働者にとって敵対的なのであるとして批判していたことがある。しかし、その批判の内容が、強搾取という点にのみ向けられている。すでに述べたように、このシステムは、資本のもとへの実質的包摂、労働の支配の強化のシステムでもあることを理解していない。したがって、今は搾取者がいないのだから、今システムの導入は問題ないということにしている。そして、その支配力の意志が、労働者に外的に作用すること、その意志のもとへの服従であることについて、その意志が労働者階級の先進的代表であるから、民主主義と矛盾しないとしているのである。

 そもそもレーニンは、労働者統制について、生産過程を考えていなかったとされている。E・H・カーは、「ボルシェビキ革命」(第二巻)において、「レーニンが考えていた労働者統制は〈金融および商業上の決定に対する簿記による統制〉であって、〈製造業もしくは工場組織の技術過程に対する統制〉を考えていなかった。」としている。これが正しければ、共産主義の根幹のところが抜け落ちていることになる。

 そして、「各労働者が自己に与えられた仕事に対して完全な責任をもち、かつ特定の一人の指導者に充足するという管理上の秩序」としての単独責任制が生まれる。

 第九回ロシア共産党大会において単独責任制が承認されるが、それまでの一七年から一九年にかけての合議制管理形態からの移行にあたって次の過渡期的四形態を付記している。

@労働者出身の管理者に技師が助手としてつく。

A技師=専門家の管理者に労働者の助手がつく。

B専門家の管理者に労働者の助手がつく。

C合議制の運営を維持しつつ議長が全責任を負う。

 しかしレーニンの死後、スターリンによってこのような労働者統制の試みは消し去られ、企業長が生まれることになる。

 かくして、プロレタリア革命のみずみずしい精神である、労働者による自主的主体的労働は、外的な意志による労働者に対する独裁として現れることになる。

 レーニンの資本主義についての一面的理解、賃労働の本質についての把握の誤りが、階級規定を誤らせ、かつ、共産主義の根幹を枯らす方向へと導いていることがわかるであろう。

 第二の点については、すでにレーニンがカウツキーの誤りを踏襲して、共産主義理論が、知識階級によって作られた理論であるという、現象論を本質論とする誤りに陥っていることを示したが、これは、二重の問題を持っている。

 まず、共産主義理論は、労働者の実践的現実的意識を根拠にしている。マルクス主義は、共産主義理論は、共産主義を志向する実践的意識の理論化したものであると規定する。そもそも自然発生的に存在しないもの、したがって、歴史的現実的必然性のないものは、現実的にはないもの、空想的、または考案された計画にすぎない。

 レーニンは、自然成長性拝跪理論との戦いということを強調した。自然発性的なものを固定し制限することこそが問題なのであって、自然発生的なものそのものを否定することに繋がるこの主張は、誤りである。労働者の団結は、どこまでも発展的な性格を持つのであり、そのことが、また、共産主義の現実的可能性なのである。このことを見抜けずに、労働者の団結と意識は、一定のころでストップすると考えていることのほうが誤りなのである。たしかに、成長は時間がかかり、多くの失敗を含むであろうが、その成長の道しかないのである。共産主義者は、この階級形成の推進のために全力を上げるべきなのだ。

 言語が、集団の中で発達したこと、共通の認識をより正確にするためにこそ、理論化が行われること、それは同時に、理論が現実的実践的意識から宙に浮くことをも生み出すのだが、社会的主体にとっての理論は、その主体の自覚であり共通の意識の対象化である。したがって、理論は、その形成過程を同時に含み、したがって、前提に返して再措定可能なものでなければ、主体の理論ではないし、主体の発展に伴う新たな進歩もなくなるであろう。理論の前提には、結合された目が存在するのである。

 理論活動が、どの脳味噌でおこなわれたか、ということが、理論の発生の元であるという考え方は、上記の共産主義理論には当てはまらない。理論が理論家によって作られたという見せかけは、労働者の階級形成が、理論的発展が遅れているという事情によって、かつ、理論の社会的性格を理解しない外的認識方法によって、生み出されるものである。マルクスが哲学は労働者によって、労働者は哲学によってそれぞれ止揚されねばならない、と述べているが、前者の中には、この外的認識方法を社会的に克服するという課題をも含んでいるし、また、後者は、労働者の理論的成長自立の課題をも含んでいる。この両者の間に落ち込んで、共産主義理論が理論家の頭で作られたという誤りが生まれるのである。

 しかし、この程度の誤りで、内容がしっかりしていれば、勘違いという程度で、後々分かるようになるだろうですむのだが、残念ながら、このような誤り方それ自体が実は内容上の誤りを不可避的連鎖することになる。このことが、次の問題である。

 労働者に共産主義的意識やその理論化した共産主義理論が無縁であるとする考えは、すでに第一のところで明らかにしたように、労働者の規定、および資本主義の規定が誤っていることから派生する。その誤りを内容とする以上、偽物の共産主義理論となる。そして、これが外的である以上、この理論は、特定の担い手を必要とする。すると、この偽物の理論を、本物の理論として、したがって、労働者の指導部分として自己を表現するようになる。労働者は、この理論によって、正しく共産主義へと導かれるとするのであるから、労働者の遅れた部分と先進的部分という区別性は、この理論を信じているかどうかという一点によることになる。次に、この理論の担い手となった先進的部分が、指導部として、代表として、労働者大衆の前に現れることになる。外的理論は、外的前衛となって労働者大衆の外にそびえることになる。そして、権力につくのは、全ての大衆がつくのではなく、その先進的代表がつくのであり、プロレタリア独裁は、さらにその代表による個人独裁となることも当然ある、となる。

 かくして、共産党=前衛=プロレタリア党の定式化がおこなわれ、プロレタリア独裁は、レーニングループの革命家集団に過ぎないものの独裁となる。 

 「プロレタリアート独裁は、その前衛の独裁なしには、すなわちプロレタリア党の独裁なしにはありえない。すくなくともプロレタリアートの勝利の、安定した独裁は、プロレタリア党の独裁なしにはありえない。」(レーニン「共産党第10回大会」)

 生きた現実のプロレタリアートに対する、偽物の、影のプロレタリアートの独裁となる。レーニンは正しかったが、スターリンが間違った、などいう議論は最早少なくなったが、なぜレーニンが一連の誤りを、系統的犯してゆくのかという根拠にの遡っての批判は少ない。それは、レーニンのマルクス主義の理解の誤りにまで遡及すること抜きには解明されないからである。この視点を持たない人々は、個々の誤り、客観情勢の危機的局面における判断であるとか、階級形成の遅れの不可避的結果であるとか、言い訳を用意しようとするが、系統的必然的誤りの体系なのである。

 ロシア革命が、下からの革命という性質を失い、疎外された革命となるメルクマールは、企業の責任者を単独責任制とした時点にある。生産過程を労働者の共同の力のもとに支配するという共産主義の原点を、それまでの合議制から単独責任制に切り替え、労働者に対する「鋭い独裁」を突きつけことこそ、この外的理論の必然的結果なのである。労働者、兵士は、この権力が、自分たちの権力ではないと直感的に受け止めるようになり、ストライキや反乱が多発するようになり、これを反革命として弾圧粛清する過程は、一層この外的疎外を進行せしめることとなった。

 

  (3)スターリンのレーニン主義の継承と発展の構造

 

 スターリンは、「レーニン主義の基礎」において、理論問題について述べて、マルクス主義は科学であり、実践はマルクスの命題を実行に移すことである、としている。レーニン主義は、このマルクス主義を今日的に発展させた最高の理論である、とした。

その上で、レーニンを引用しつつ、「思想の権威の権力の権威への転化」を唱えるのである。

 「レーニンはこう言っている、『以前には、わが党は、正式に組織された全体ではなくて、個々グループの総和にすぎなかったし、だから、これらのグループのあいだには、思想的はたらきかけ以外に他の関係はありえなかった。いまでは、われわれは組織された党になった。そしてこのことはまさに、権力の創設、思想の権威の権力の権威への転化、党の上級機関にたいする下級機関の服従を意味する。』」

 スターリンは、レーニンの主張にそって、あからさまに外的理論の権力への転化を定式化したのである。

 スターリン主義批判は、レーニン主義批判に返されねばならないということ、レーニン主義は、「何をなすべきか」の「共産主義理論の外部規定」に返されねばならないこと、この批判をとおしてのみ、根底からの克服の道が生まれるのである。

 

  (4)労働者党と共産主義者組織の関係

 

 これまでの展開においてすでに明らかになっていることであるが、共産主義という視点から見ても、プロレタリア革命において、労働者階級の団結した、すなわち、生産の共同支配と政治的支配の必要からも、労働者の自立した政治的社会的団結が必要である。それは、労働者評議会という、政治的組織として自己の結合を表現することになる。労働者党は、階級政党として、この政治社会態を指導しなければならない。この労働者党は、階級形成の結果として、下からせり上がるように形成されねばならない。この結合の質は、自己の階級の歴史的必然性の洞察をもち、階級の政府の樹立と生産の支配の諸方策を鮮明に自覚し、共同して実践する組織性を確保していることである。

 共産主義理論に於いて結合する共産主義者の組織の任務は、この階級形成と党建設を内在的推進することにある。そして、そのために、あらゆる小ブル社会主義、空想的社会主義、宗派主義の理論的、実践的妨害をはねのけることである。なぜなら、彼らは、労働者の階級形成こそが、自分たちの根本的否定であることを知っているからこそ、激しく敵対するからであり、諸論争において、偽物の知識、見せ掛けの理論、マルクス主義の改ざんを論破することによって、階級形成の道を曇りなく照らす必要がある。労働者の階級形成の途上において、理論闘争を全面的に自分自身で行なえという事は、現実的には無理のあることであり、共産主義者が先頭に立つ必要があるからである。

 共産主義理論が、労働者の実践的意識の理論化されたものであるという、根本性格を踏まえるならば、不断に再措定する作業の必要が生まれる。また、そこから、世界革命の現段階における、各国の労働者党の国際的任務を明らかにする必要がある。従って、共産主義が、世界資本主義と世界市場、世界的交通を対象とするものである以上、国際的な結合とその立場へと高めてゆかねばならい。本質的には、共産主義組織は、国際的結合である。各国の共産主義組織は、この自覚の上に成立するべきであろう。

 共産主義者の組織を否定する人がいるが共産主義理論が存在し、共産主義者が存在し、――これ自体に反対なら何をか言わんやであるが――結合した共同作業をしないということは、共産主義が諸個人の共同の上に築かれるという原理そのものへの背反なのではないだろうか。孤立し、討論もなく、主観的にのみ共産主義を傾げるような共産主義者というのは完全なパラドックスにすぎないであろう。共産主義理論とは、再措定はされない、そのような理論作業の場もない、絶対的固定的理論なのであろうか。

 

五 階級形成論の諸前提

 

(1)なぜ階級形成論なのか


 階級形成論という言葉は、われわれにおいてのみ成立している。似て非なる理論として、階級意識論を問題として扱う傾向は、存在していた。そこで、階級規定、階級意識、革命的階級意識、真の階級意識などが扱かわれてきた。たとえば、一九五五年翻訳発売された、ルカーチの「階級意識論」(一九二三年「歴史と階級意識」の一部)などが典型である。しかし、どれもこれも、現実の労働者の意識は、虚偽の意識にまみれ、また、たとえ革命的階級意識といえども「真の階級意識」とは別物であるとして、共産党の理論に服従するべきとしている。すなわち自然発生的な意識は、どこまでいっても「真の階級意識」=理論意識には到達しないのだから、この自然発生性と戦うことが「究極の目的」への道である、すなわち、労働者と理論家の闘争と支配の理論である。

 我々は、自然発生性の中にないものは、外的なものであると考える。自然発生性との闘争ではなく、自然発生性の発展こそが問題であるという立場である。表象として存在しないものは本質的にも存在しない。本質顕現主義的な考え方は、実は、観念論にすぎない。

 労働者の解放のための理論が、理論家によって作られたという外観は、労働者の実践が未発達の場合にそのように錯覚されているだけである。または、事実、その内容が単に考えだされたものにすぎないかである。

 我々もたしかに階級意識を扱う。だがそれは、労働者階級の内部の実践と討論と理論活動として扱うのである。ここで扱うのはは、社会的実践的意識である。個々の個人の自我や心理や哲学を扱うのではない。協同の認識を前提とする、対象と自分たち自身についての意識である。すなわち、労働者の結合の質と量と活動様式の一環としての認識活動、相互討論、研究及び理論活動を扱うのである。

 したがって、階級意識形成論ではなく、階級形成論でなくてはならない。

 

(2)戦略論と組織論の媒介的統一の理論としての階級形成論

 

 戦略論も組織論も、その主体がまず問題である。誰のための、何のための理論なのかというあたりまえのことが、そもそもの出発点であるが、単なる当為であったり、理想であったり、救済策であったりする場合でも、これは労働者の解放のための理論である、などという。しかし、ここで重要なことは、誰の眼による、すなわち、いかなる前提と被制約性のもとに立ち、なにを対象として、なにを超えてゆくべきなのか、このような存在に根ざした協同の実践的意識の理論化を、歴史的必然性に即して展開するものでなければならない。

 戦略論と組織論はその意味で主体において統一されている。現実的社会的主体にとっての組織論は、その成長過程を含まなければならない。そうすると、当然にも、戦略論は、自分自身の成長の道筋をも含まなければならない。この理論的統一の媒介の理論が、階級形成論である。

 階級形成論を原理論として、組織論が成立する。また、戦略論は階級形成の段階的方針を含む。このような形で階級形成論が戦略論と組織論を媒介して統一する。

 

(3)階級形成論の射程

 

 階級形成論は、資本に包摂され、したがって、その労働力の再生産過程も、市民社会・国家に包摂されているような段階から、階級として独立する段階、さらに、賃労働と資本の矛盾の解決策としての共産主義への意識の形成までを全過程として含む。

 さらに、その各段階の結合についての空間的併存が整理される。その関連が明らかになることによって、区別と同一性が明らかになる。

 マルクスは、資本主義の歴史的段階を、長い歴史を持ってきた私有財産制社会の疎外の頂点に到達していること、及び、その疎外の頂点においてこそ、この止揚が、社会の中で個別化されてきた個々人の新たな質を持った結合によって、及び対象的富、生産力の普遍的性格と相まって、協同社会と生産が生み出される条件が成熟してきたと分析している。

 歴史は、疎外の中で、また、疎外をとおして発展してきたのであり、我々は、常にその保守的反動的側面と革命的進歩的な側面を同時に把握しなければならない。このことを、生産と社会の相互規定的相互前提的関連の中に見出さねばならない。すなわち、単に生産力が発達して、普遍的にそびえているというだけではなく、資本主義的生産によって、土地と職業と身分によって規定された存在から自由になった、しかし賃金労働しか生活の糧を持たない大衆が拡大再生産される社会の中に、無産者としての個人が個人として結合協力する前提条件を見出すのである。この二つのことを踏まえてこそ、共産主義の歴史的現実的必然性を展開する事が可能なのである。特に、後者を欠落した理論は、マルクス主義的共産主義ではない。別の言い方をすれば、社会的主体の結合の質を問題にし得ない理論は、全て空論であるということである。

 「ドイツ・イデオロギー」の「イデオロギーの現実的土台」において、生産力と歴史的諸個人の関係を次のように述べている。

「「(一)生産力の発展においてある段階に達すると、そこに出てくる生産力と交通手段は現存の諸関係のもとではただ災いの因となるだけで、なんらの生産力でももはやなく、かえって破壊力(機械装置と貨幣)となり、そしてこのことと関連してそこに、社会のあらゆる重荷を荷なわねばならないだけでいかなる利益をも享けえない一階級、社会から押し出され、他のあらゆる階級ととことんまで対立せざるをえないところへ追いこまれる一階級が呼び出される。この階級はあらゆる社会成員の過半数を構成するのであり、そして根本的革命の必要に関する意識、共産主義的意識はこの階級から出てくるのであるが、この意識は当然、他の諸階級のうちにもこの階級の位置を見ることによって形成されうる。」(「ドイツ・イデオロギー」)

 ここで、マルクスは、共産主義的意識は労働者階級の中から出てくると明確に述べている。これは、「共産主義はわれわれにとっては、作り出されるべき何らかの状態、現実が則るべきなんらかの理想ではない。われわれが共産主義とよぶべきところのものは現在の状態を廃止する現実的運動のことである。」(「同」)という文章と合わせて読むとき、鮮明になるであろう。

 さらに、この共産主義的意識は、実践的に発展するとしている。

「(四)この共産主義的意識の大量産出のためにもまた主義そのものの成就のためにも人間たちが大きく変化することが必要なのであって、このような変化はただなんらかの実践的運動、なんらかの革命のなかでのみ行われる。」(「同」)

 その歴史的前提は、土地や職業や身分から自由になった個人の歴史的登場と、大工業の発展である。

 個人という言葉が、現実的なものとなるのは、そんなに遠い昔ではない。大工業の登場の前には、「諸個人が家族であれ部族であれ土地そのもの等々であれ何らかの絆で一団となっている」(「同」)のであり、労働が賃労働となることによってはじめて、個人としての個人が登場するのである。この前提が、そもそもの原初的前提である。資本主義が、諸条件の違いによって、均質的には発展しない。そのことは、遅れた生産条件社会条件のもと、共産主義の原初的前提は存在しない。したがって、歴史的社会的前提抜きに、共産主義は登場しえない。しかし、例えば現存するアジア的共同体は、先進資本主義を基礎とする共産主義との結合によって、再編成され積極的意味を持ちうるように考えられる。先進国革命の世界的意義は、全世界の虐げられている、貧困に苦しんでいる多くの人民の先頭にたって新たな人間的社会の建設に向けて影響をおよぼすことにある。資本主義の破壊作用の犠牲は、後進資本主義諸国において倍加されているからである。

 次に問題となる前提は次の二つである。

「生産力の発展においてある段階に達すると、そこに出てくる生産力と交通手段は現存の諸関係のもとではただ災いの因となるだけで、なんらの生産力でももはやなく、かえって破壊力(機械装置と貨幣)となり、・・・・」(「同」)

資本主義の破壊作用が、巨大独占と金融資本、再生産に投入されない浮遊資本によって引き起こされること、資本の高度化が、労働を排斥し、膨大な失業者を全世界的に作り出すこと、国家財政が破綻し、資本主義システムの維持のために不可欠である貧民救済が不可能になること、これらが複合して、社会がこのままでは持続しないということが明らかになることである。

 そして、「いま一方の側にはこの生産力に対立して大多数の個人がいる。これらの人々は生産力をその手からもぎはなされており、したがってあらゆる現実的生活内容を奪われて抽象的な個人となっているのであるが、しかしまさにそのためにこそ、彼らは個人として結ばれ合うことができる立場におかれるのである。」(「同」)

 「ところでこの場合、占有されるべき対象というのは、一つのまとまった全体にまで伸びてきた生産力、そして一つの普遍的交通の枠内でのみ現存する生産力である。それゆえにこの占有はすでにこの面からしても、生産力と交通に適合した普遍的性格を持たざるをえない。」(「同」)「プロレタリアの占有の場合には、一群の生産用具が各個人のもとへ隷属させられ、そして所有は万人のもとへ隷属されねばならない。現代的普遍的交通は万人のもとへ隷属させられることによってしか諸個人のもとへ隷属させられることはできない。」(「同」)

 このように、世界市場を前提とする生産と貨幣流通の普遍性を、従える新たな普遍性が必要となると同時に、社会のなかで個別化され歴史的に登場した現実的諸個人の個人としての結合の中に成立する新たな普遍性な現実的可能性が横たわっている。

 新たな社会の普遍的性格は、この二つの前提の上に成立する。これ抜きに、共産主義は成立しない。

 次に、この普遍的結合は、実践的に形成されること、普遍的な質は、成長するものであること、したがってその過程が問題であることがわかる。

 「さらにまた占有は、それの必然的な遂行のされ方によって条件づけられている。それが遂行される道はただ団結と革命のみであるが、しかしこの場合の団結はプロレタリアートの性格からしてそれ自身また一つの普遍的団結たらざるをえないし、・・・・・その革命のなかで・・・・・プロレタリアートがその従来の社会的地位からしてまだその身に付けたままである一切のものを剥ぎ落とす、そういう性格のものたらざるをえない。」(「同」)

 競争の中に孤立化させられている労働者が、団結するのは長い時間がかかる。

 この孤立化は、日々強化されて再生産されている。資本の高度化と相対的過剰人口の形成と資本のグローバル化に伴う労働市場のグローバル化は、団結の難しさを倍加させている。しかし、資本主義にこの先の希望がなくなる度合いに伴い、不可避的に必然的に団結せざるをえなくなるのである。

<以下「下」に続く>

 

 

 

 

「下」予定

六 ルカーチ「階級意識形成論」の批判

<項目>

「物象化した意識」規定

「真の階級意識=党」

「革命的階級意識」と別の「真の階級意識」

 

七 労働者存在の二重性と階級形成

<項目>

競争に替える団結

労働組合の第2の資格

階級支配のもとにおける階級形成

階級支配の打倒に向けての階級形成

結合する敵

中央政府に対する戦い

国境を超える敵の結合

プロレタリアートの現在的世界性

階級の目的としての政治的支配と経済的従属からの解放

階級への形成と思想活動

自己意識の否定としての階級的自覚・覚醒

個々人の発達と団結の発達の内的関連

政治的団結の質、内容の獲得過程

階級的独立、自立した団結した運動 行動委員会の質

資本の侵害に対する戦い、資本の支配に対する戦い 社会的権力に対する戦い

労働時間と賃金をめぐる戦い 不可避的に資本の専制支配に対する戦いへ

労働者自己権力の階級的樹立 労働者中央政府 サンジカリズムを超えて

賃労働の消滅と社会的労働の発達

EU共和国を先頭とする国境を超えた共和国へ

国際的共同による、貧困国の援助と自立