階級形成論の深化のために(下)        斉藤明

 

 

(下)の発行にあたって

「階級形成論の深化のために」という表題通り、論文を書くたびに内容を深めてきた。

(中)論文を書き終えた段階で、疎外論と物象化論について、価値論を媒介として再把握する必要を感じた。疎外論を物象化過程論として展開するということは、その過程を推進している原因である要素を明らかにすることが必要であるからだ。すなわち価値論を媒介としてこの過程を明らかにすることとした。

さらに、レーニン主義について、なぜこのような誤りを生み出すことになったのかということを、レーニンの理論観に遡って究明する必要を強く感じた。レーニン「哲学ノート」は、哲学の基本を抜きに俗流の常識でヘーゲルを読むと当然のごとく誤りを犯すという典型的な事例であるが、その結果でもあり、また同じ原因において、マルクス主義からの離反となっているからである。

レーニン主義に限らず、マルクス主義を理解しない誤った理論に対して、その理論発生の根拠を明らかにする必要を感じた。

なぜなら、読者が、もし常識的な考えで、悟性的に理論問題を扱うことから来る誤解をしている場合、見せかけの理論の誤りに気が付かない場合があるからである。

このことは、これまでの論争が、それぞれの理論的ベースとなる哲学批判の内容の貧困さを放置して、抽象から抽象を引き出し、それをこね回して理論を作り上げるような議論となっていて、その理論の根拠に遡ってその必然性をあきらかにするということがないような単なる断定に過ぎないということに起因する誤りを示しているからである。

多くの人々は、自分の世界観、歴史観、哲学に引き寄せて、理論的文章を理解しようとする傾向がある。

特に抽象的理論については、その抽象の基となる現実について、主観的なものをあてがう傾向がある。理論的に把握するべきことに対して悟性的認識で裏打ちしようとする。そこに落とし穴がある。その認識主体にそれぞれの自我をあてがうからである。結合された主体において、結合された眼によって理論を扱うことに慣れていないからである。

社会的主体において理論を扱うということにおいて、このマルクス主義の根本を外した諸論が、カント的であったり、プラトン的であったり、外的な認識に陥ること、この批判の上に再度とらえ返して階級形成論を深めるという考えで進めてきた。

この「下」論文においては、これまで「中」という形で、ホームページ上に掲載してきた文章を、上記のような必要性から、再構成してまとめて一つの論文とした。

さらに、階級形成論としての論旨を深めるために必要な各論の掘り下げについては、別の形で各論としてのテーマを設定して、外に取り出し、「付記」という形で三つの論文とした。これについては、理論的な展開であるから、言葉の厳密さを期すために、哲学的、または経済学的な言語を用いている。したがってなかなか読みにくいと思われるが、論旨から各範疇の意味するところをつかみ取り、理解を深めていただければ幸いである。

階級形成論は、単に意識の問題や個々人の決意の問題ではない。結合の質、実践と討論をつうじての団結の広がりと深まりと高まりをせり上げてゆく過程の論理である。したがて、団結する諸個人が、結合した眼を持ち、結合した知的作業において、共通の利害とその理論的根拠を共有し、共に強固なスクラムを組み、戦いに立ち上がるということそのものが、新たな人間的結合として発展してゆくのである。

階級形成論を、認識論的に掘り下げることは、階級的自立のために必要なことである。

賃労働と資本の対立から、その両極の廃棄をとおして、資本主義的生産から共同労働的生産へと、生産様式を変革することを射程に入れた全過程、階級が階級としての存立条件そのものを廃棄するまでの過程を明らかにするものである。階級としての仕事が終わりを迎えてからの連続的移行として共産主義論へと引き継がれることになる。階級形成論にこの共産主義的要素が内包されていること、および労働者の団結の限りなく発展的な性格こそ、形成される階級が、階級であることを必要としない地平へと普遍的全面的に飛躍する根拠である。したがって、階級形成論は、共産主義論と区別されるのであるが、前者に後者の諸要素が内包されているということにおいて、連続的である。

この論文の次に立てられる課題は、革命的階級形成の内容、すなわち労働者の党の綱領の内容と、労働者政府の政治内容の骨格を明らかにすることと考えている。

例えば、株式会社制度の廃止はいかなる過程として推進されるのか。

国有化を第一段階目として、生産協同組合を整備してこれに移するのが第二段階、業種別の生産量を計算しての統合廃止の生産調整が第三段階、さらには、外国の工場、子会社の現地労働者との連帯における処理、と進むのであるが、これに関連する諸関係をいかに処理するべきかという多くの課題がある。細かなことは別として、銀行との関係、既発行株券の処理、対外関係の処理、等々の基本骨格については明示する必要があると考える。

将来についての現実的展望を明らかに示すことは、あらたな希望を広げるために必要なことである。

マルクス主義の把握についてのこれまでの解放派の蓄積を再整理し、さらに一歩深める作業を試みている。そのことによって、理論がより分かりやすく受けとることができれば幸いである。われわれのマルクス主義把握を深める視点を共有することができれば、共に進む隊列が膨らむであろう。

 

序文

これまで、階級形成論の必要性と、戦略論・組織論との理論的関係、および、階級形成論と認識論の統一について述べてきた。

 さらに、社会的実践的主体と共産主義理論の乖離と独立化の根拠となってきた、「物象化された意識」なるものについての批判的検討を通して、主体と実践と意識の統一的理解、および実践的意識の理論化されたものとしての理論と、外的認識による外的理論の空疎さについて言及してきた。

我々の階級形成論は、実践と理論の統一、別の見方をすれば主体と認識の統一という観点から、経済的階級から政治的経済的階級へ、さらに革命的政治的経済的階級へという全過程を照らすものである。

従って、経済、政治、国家、宗教全般にわたってその疎外態の解明を必然的な課題とする。

経済的社会活動における物象化は、自然発生的分業を根拠に生み出される商品からスタートして、特殊商品が貨幣に転化し、蓄蔵貨幣がうまれ、商業資本から産業資本へ、さらに信用と株式会社制度まで、労働する大衆に桎梏として現れる疎外過程であった。

そして今や、過剰資本時代となり、集積と資本の高度化が極度に進み、労働貧民、受救貧民の発生と、国家財政の危機の進行により、資本主義的生産システムそのものの危機が顕在化する時代、それは同時に、労働者内の分断敵対の可能性、排外主義的空気の醸成、偏狭なナショナリズムの台頭の時代ともいえる。

資本の敵対性が、全世界的規模で顕在化し、しかも、資本主義的生産様式が、もはや社会の健全な再生産、発展の条件としては害をなすものでしかないという認識が広まり、資本の破壊的側面が、「強欲資本主義」「環境破壊の多国籍企業」というレッテルとして広まっている。貨幣の致富欲、資本の利潤至上主義は、国際的な製品不正事件、有害薬品の蔓延、臓器売買等の人倫的腐敗を深くしており、また、世界中の貧困の元凶でもある。

資本主義システムの次の新たな生産と社会の仕組みを展望する時代に入っている。

精神世界においては、自然の脅威に対する恐れから生み出された自然宗教から、普遍的な絶対者としての神を作り出し、それにひれ伏すことにより、時々の政治的権力がこれを利用して支配を強化してきたと同時に、人間の中身をすべて神に差し出して神によって精神を支配されるという精神的疎外の過程をたどってきた。イスラム教においては、聖戦によって自ら命を絶つことが天国に行く近道とされる転倒した悲劇がいまでも喧伝されている。

そして、政治的世界においては、国家なるものが、「自律の装いのもとにおける他律」という国民統合によって、その基礎となる社会が賃金奴隷制によって深い対立、深い溝を作っていることを覆い隠し、支配階級の利害を、あたかも普遍的な利害のごとく一般化して、反抗すると「他律する」権力によって弾圧することになる。

 政治、経済、精神の世界における疎外の深まりは、その根底に、生産様式とその社会の相互規定的かつ相互前提的関係がある。生産様式がもはや社会を発展させることができず、むしろ桎梏として現れ、破壊作用が前面に出てくる時代、労働者がこれまでの世代の人々の普通の暮らしを作ることができなくなる時代となることにより、このシステム自体の変革が要請される時代となっている。それに伴い、自分たちの実践的精神的共同性を外化しなくてもよい社会への移行が必要となる時代への移行期に入っているのである。

(中)において、主にルカーチの階級意識論の根拠をなしている彼の物象化論の批判を行った。さらに、マルクスの疎外論、物象化論の概要について述べた。ここでさらに、その内容について展開するとともに、認識論についても掘り下げることにする。なぜなれば、階級形成論の内容そのものがこれまでの認識論の批判の上に成立するものであるからである。

労働者の階級への形成は、対象について正しく認識する必要があると同時に、自分自身を知ることから始まる。そして、戦いを通して、自らの結合の内容を自己対象化すること、共同の認識をひろめてかつ深める必要があること、そのためには結合された眼をもって認識し理論化する必要がある。見せかけの理論を突破し、これまでの外的認識方法を克服し、団結体が主体となった認識と理論武装への道を明らかにする必要がある。

これまでのマルクス・レーニン主義の、労働者の党への参加についての緒論の根本的な誤りの一つに、党は革命理論の党であるという規定から逆に、党に参加する労働者は、労働者としてではなく、理論家として参加するのだという規定がある。

しかし、労働者の団結の前進においては、実践的にも理論的にも成長するのであるから、労働者が同時に理論家となるのであって、労働者が労働者であることを捨てて理論家になるのではない。これは、「即自的プロレタリアートから向自的プロレタリアートへ」という風に表現されるものでもない。この表現の根底には、労働者大衆は、賃労働を所与の生活条件として肯定し、その賃金の額と労働時間しか問題にしていない、運動といっても待遇改善の組合活動止まりの存在である、という考え方がある。そして、単に突然自覚した個人が理論的に立場を変えて、革命家になるのだとしている。組合運動と社会主義運動には断絶があり、組合活動はどこまでいっても改良的であり、社会主義運動は、理論によって導かれる意識的実践なのだとし、ずぶずぶの埋没か、またはひきまわしかにぶれることになる。そして、権力を握ると、この切断は、敵対的な関係へと進む。

また、階級闘争と革命闘争の区別と同一性を見失い、階級闘争ではなく、革命闘争なのだとするような小ブル急進主義の目的主義の場合は、少し異なる。この場合は、労働者は、労働者であることを捨て、革命家として党に入るとされる。階級的であるということでは不十分で、革命的でなければならないのだとされる。階級闘争と区別さらたところの革命という目的の担い手として再規定される。そして、「実践の中からの党」という方法で、軍事的権力闘争を手段として、組織を鍛えるのだという理由から、革命情勢規定を持ち出すという転倒が起こる。宙に浮いている目的のためにあらゆるものが、自他ともに手段化され、情勢分析さえもが手段化されるという堕落に落ちる。彼らの革命なるものは、階級闘争と別のところに描かれる権力奪取であり、プロレタリア革命とは異なる。

革命闘争は、階級闘争過程の階級支配の打倒の段階のことに過ぎないのであって、階級闘争が、階級支配を前提として戦わねばならないような時期から、階級支配の動揺、崩壊局面へと段階的に移行してゆくにつれて、階級支配を打倒する能力、全人民を指導する能力、共同体を運営していく統治能力を急速に身につけてゆかねばならない時期の革命的階級形成の時期を迎えて初めて革命闘争の段階に階級闘争が高まってゆくのである。階級闘争の全面的発達の段階としての革命なのであるから、この同一性と区別性に於いて把握しなければならないのである。

したがって、この労働者の結合の質が広まり深まり、理論的共通認識としてどこまで多数性となるのかということが大切なのである。そしてまた、同時に大衆の中の意識的推進力が確固として築きあげられねばならないのである。

だからこそ階級形成論は同時に団結する諸個人の主体的認識論でもある。

階級形成論は、労働者階級のおかれている今日の困難局面の真っただ中から、賃金奴隷制の強制された依存と隷属から、その姿において資本の社会的権力と対峙し、団結して戦うところから出発し、資本主義的生産を終わらせて共同生産社会を実現し、隷属からの解放までを射程に入れる全過程を照射し叙述することである。

 これまでの展開で、階級形成論と認識論の統一という視点の根拠を明らかにしてきた。認識論においては、時間的空間的に、社会的主体における自己認識としての実践的意識とその理論化の全過程が明らかにされねばならない。外的認識とは、どこまでも認識する主体が、特定の自我でしかなく、それがどのように、直観・悟性・理論とされようとも、所詮は誰かの自我によって色付けされたもの以上とならない。そこに登場する理念や目標は、単に目指すべきもの、良きものというだけで、したがって、啓蒙思想となるだけで、社会的主体にとっては、外的な目的となる。

社会的主体にとっての目的とは、共同の利害をその普遍性と道義性に於いて突き出すということである。そして、当面の目的と同時に、根本的解決のための方策と方法をこれまでの経験と理論的分析に基づいて確立し、全面的解放のための目的へとさらにせり上げてゆくことである。この共同利害の何たるか、この実現への自らの運動の組織形態はいかなるものとして普遍的で発展的なものなのか、これを自覚してゆく過程こそ、階級形成の中での自己認識の過程なのである。理論的知性は、実践的知性の発展したものであり、かつ、結合された知性であるから、この社会的主体の内部で、その結合の内部で、全体に寄与する理論的知性として働くものである。なぜなら、この共同利害の発展こそが、その理論的知性を駆使する当人の人間的解放の根拠でもあるからである。

資本主義社会は、精神労働と肉体労働の分業を推し進める。そして、科学技術は高度化し、経済学、政治学、歴史学あらゆる学が複雑化する。複雑化する現実社会にたいして、むしろ学が追い付いていないという現状で、労働者階級が、賃労働の生活において知的活動から疎外されていること、したがって、理論的活動は一部の理論家にゆだねることになること、しかしゆくゆくは、あらゆる実践的知性が理論的知性に発展するべきものとして希望されること、このことにおいて、共産主義者は、只先行して活動しているだけなのだという自覚において理論活動をするのだということである。

直ちに全ての労働者が、「資本論」を読み、価値論を討論するというようなことを必要とするという人はいないであろう。しかし、価値論抜きに、資本主義の根本的矛盾は分析できず、物象化についての本質的規定もできない。仲間の内で、理論作業する人が多く必要であることは、皆望んでいることである。御用学者や知識人という人々が、労働の隷属を当然のように語り、資本主義擁護論を繰り返し語る中で、真実を暴き、理論的にも多くの労働者が武装することができるためには、理論活動は重要である。特に、ベルリンの壁の崩壊以降、資本主義・市場経済こそが唯一の経済システムであるかのように喧伝される時代においては、なおさらこれを打ち破る理論が必要である。そのためには、これまでの古いマルクス・レーニン主義の誤りを理論的にも克服して、革命的マルクス主義の旗を掲げ直すという基礎的な作業も必要となっている。

その際、二段の理論的展開が必要であろう。

実践的理論武装と論理的理論展開は、区別される必要がある。

論理的理論問題を叙述するということは、正確な言語、抽象的概念を駆使する必要がある。

しかし、多くの人々は、これらの諸概念について慣れていない場合が多い。

そして、その真贋について判断するということはさらに難しい。しかも、これまでの学習の蓄積において理解しようとすると、どうしても常識的な言語、表象を思い浮かべて類推するという悟性的な受け止めとなり、誤認してしまう場合が多い。

滝口氏起草の「解放」六号論文は、我々のレーニン主義批判の出発点をなすものである。レーニンの「何をなすべきか」の、外部注入論批判である。

ここでは二つの視点が提示されている。「意識は存在によって規定されている」ということ、「主語であるべきプロレタリアが、述語とされている」ということの二点である。

滝口氏は、フォイエルバッハによるヘーゲル批判を根底において、マルクスによるヘーゲル弁証法の批判をつかまなくてはならないということを強調してきた。

したがって、前者の意識の規定性ということは取りも直さず理論の現実的根拠を問題とすることとして提起している。これを、人間は勝手な妄想もできるし、間違った理論も作るではないかと、理論の相対的独自性や、存在と理論の乖離を取り上げて、「基底還元主義」という批判をして、何か判った風なことをいう傾向があった。このような俗流の誤解が生まれるにはそれなりの原因がある。

当論文は、レーニンの「何をなすべきか」批判を二重に展開するべきところを、現実的意識とその理論化という観点から批判してそれで十分であると考えてしまっている。すなわち、空想的社会主義や啓蒙思想が、恣意的に作られたものであり、理論に値しない見せかけの理論であるという、これらのことは自明なことであると勘違いしているのである。真の理論も、見せかけの理論も一緒に考えて理論一般として、外部注入論批判を読む人がいると思っていない文章となっているのである。

筆者にとって前提とされていることが、実は読者と共有されていないということ、このことについて改めて重要な事柄であると痛感する。

レーニンの誤りは二重である。

労働者の現実的な意識、その社会的被規定性から生まれる実践的意識の内容の理論化されたものとしての共産主義理論を、だれの脳髄によって書かれた理論であるかという現象把握によって理論の基を規定しようとする誤りがまず第一である。

次に、当然にも、理論を頭でこねまして作り上げるものと理解しているのであるから、空想的社会主義を革命理論として祭り上げ、労働者を手段としてそれに接続するという誤りが第二である。

次に問題となるのは、主述の転倒という記述である。

同じように、マルクスも、神と人間との関係について、主語と述語の転倒であるという表現をたしかに使っている。

これは、人間が神を措定するのであり、神が人間を措定するのでない、という意味での主述の転倒を語っているのである。

滝口氏の主述の転倒という表現は、上記の二重の批判を踏まえるならば、これもまた二重に展開されるべきであっただろう。

主語と述語の関係は、主語の何たるかを述語において規定するという判断形式である。

ヘーゲルにおいては、さらに、概念の運動として、この規定から再度反転して、措定するという「意志」「行為」が付け加わるのであるが。

プロレタリアは革命的である。このように規定するとしよう。したがって、その実践的意識の理論化は、革命理論である、とつながる。

プロレタリアは革命的ではない。このように規定すると、革命理論を外から持ってきて、プロレタリアはそれに従うべきとなる。

この二つの判断をまたがって、見せかけの革命理論に革命的であるはずのプロレタリアが従属させられるという転倒が起きているのである。

これを、存在が意識を規定する、ということがらの転倒として意識が存在を規定するということになっていると思われかねない表現となっているところに問題がある。

すなわち、現実存在としてのプロレタリアが、理論一般に従属するという形で、誤解を生みだすのである。

したがって「外部注入論批判」が、理論性の排除や、または裏返して理論性の強調という極端な誤解を生みだすことになる。

これらは、滝口氏が、自分にとっては自明な事柄としていることが、読者にとっては難解な論理であり、むしろ常識的理解に取り込むことによって誤った方向へとミスリードされししまうという結果を生むという問題なのである。これは、筆者においても十分心がけねばならないこととして留意しているところである。

このように論理的表現が、常識的理解において誤った方向に導いてしまうことに十分な配慮がなされていなかったことは、深く反省されねばならない。

理論文章と政治文章を、または、実践的知性と理論的知性との区別性を意識した叙述が求められる。

すべての労働者が、すべての実践的活動家が、理論的知性を持たなければならないということではない。的確に判断できる実践的知性があれば、戦いを発展させることができる。戦いと結合の中で、すなわち実践と討論のなかで、認識は深まり広がるであろう。そして、この積み重ねの上に実践的理性は理論的理性として発展してゆくであろうし、またそうでなくてはならない。

今日の経済、経済の仕組みを分析し、社会的隷属と政治的支配、物象への強制された依存と隷属の根拠を分析し明かにする理論的作業は、単に実践的に必要なばかりか、あらゆる見せかけの理論、支配階級の現状維持のためのイデオロギー攻撃、運動内部の空想的者菓子主義者、スターリニスト、社会民主主義者、等々との論争に打ち勝ち、理論的にも勝利してゆく必要がある。これは極めて重要である。この社会的主体は、これまでのあらゆる学者、理論家、自称革命家、自称共産主義者との論争に、自らの理論的代表を前面に出して論破して進む必要がある。

われわれは、七〇年代に入って、「戦後第二の革命期」という規定をおこなった。これは、既成の政治的社会的諸関係が動揺する時期という規定であった。我々の内部において、戦略的確定についての論争が、したがって、当然にも組織論上の論争も始まった。

革労協の内部論争は、討論の末、「革命的階級形成に全力を傾注する。」という結論とした。これは、階級形成の遅れを取り戻し、かつ、階級形成論を、段階的に見直すという性格のものであった。それは、階級形成を、階級支配のもとに於ける戦いとその階級的団結から、階級支配の転覆のための革命的団結へという二段階を見直し、階級支配の動揺期における革命的階級形成という段階を戦略的に位置づけるという内容であった。

この内部論争の結論としての「革命的階級形成」という視点は、我々の実践的苦悩の中に於いて見出されたものである。

七〇年安保闘争において、ソヴィエト運動という戦術を提起して戦った。労働者階級は、あらゆる虐げられた人民の前衛として戦うという、単に自分たちの狭い利害のみならず、全人民の戦いの質を含んで階級形成をする必要があるということ、労働者階級が、統治能力を獲得するという質的向上が、革命的団結として要求されるのだということとして、それを「六共委運動」として提起して戦った。革命への緩やかな過渡期における戦略的環は、革命的階級形成を勝ち取ることにあるとしたのである。

この過渡期における戦略戦術を、実際の戦いの中から総括して、理論的にも階級形成論の見直しとしてまとめたものである。

革命的階級形成抜きに革命はあり得ないという厳然たる事実に基づく、誤解のない戦略戦術が厳密に確定されるべきであった。

労働者の階級形成の遅れは、我々の組織的後退の結果でもあるということを自覚しつつも、これ抜きにはあらゆる変革の力は虚しいものとなること、これまでの見せかけの党にかわる真の労働者の党の建設が必須の課題であることを呼びかけるものである。

迫りくる世界同時革命の時代におけるあらたな国際労働者協会の形成の必要性を痛切に感じる。一八六四年の第一インター創設に次ぐ、継承と総括に踏まえた新たな国際労働者協会の結成を希望している。今日の階級形成は、国際的なものとなってこそその意義を高めることができると考える。

 

T革命理論の外部論と外的認識について

 

1外的認識の特徴

革命理論の外部からの持ち込み論が成立する根底には、外的認識という構造がある。

すなわち、社会的主体における認識ではなく、特定の自我が認識の主体として現れるということは、その判断内容が、その自我の特性によって決定されるということである。理論家が、人類的立場とか、プロレタリア的立場とかにおいて理論を展開するのだと主張しても、そのような抽象的立場であるということは、実は、特定の歴史的社会的規定性のもとにある立場にあるということでもある。なぜなら、その理論家個人の価値判断が良しとするものは、その特定の自我が、肯定している社会的性格を背景としているからである。したがって、その自我の、端的には好き嫌いにいる判断に過ぎないものとなる。

したがって、現社会の何を否定し、何を新たに展望するのかという内容は、その自我の持ち主の社会性によって規定されるのであるから、自分勝手に将来の理想の目的として空中に掲げる「自由の国」の内容がその自我の判断の延長でしかないのであれば、どの程度現社会を肯定し、どの程度否定しているのかということが不問のまま作られることになる。

ある特定の理論家なるものが、人類の未来についての目標をあれこれ考えて作りあげ、それをプロレタリアの歴史的使命であると主張するとする。プロレタリアの歴史的社会的な内的必然性に根拠を持たないような啓蒙理論は、この理論家の己の自我を根拠に判断して作り上げた世界観を普遍的なもののように押し付けているだけである。

例えばレーニンは、労働の資本の下への隷属については全く無知であった。資本主義的生産の拡大を発展と考えていた。アメリカのテーラーシステム(二〇世紀初頭のアメリカの工場管理、労務管理の技術)を絶賛して導入したことは有名である。

外的認識が、啓蒙主義的な性格を持ち、目的主義になり、空想的社会主義となり、我こそは革命理論の権化であると前衛主義に陥り、絶対的真理を振りかざす同一性組織を理想とし、そして労働者階級は、手段として、統治対象として位置づくことになる。

外的認識の特徴はもう一つある。

労働者の規定である。

まず目的がたてられ、次にその担い手が求められ、その担い手になる根拠が示され、あとは実践であるとされ、その実践は、この目的を考案した理論家が指導して目的に到達するのだとして、担い手はこの指導下に置かれるべきであるという構造を持つことになる。

この担い手とされる労働者階級が、なぜこの目的の担い手であるとされるのか。

ほとんどの場合、「貧困」や「非人間的存在」という表現で、みじめな存在という規定にとどまる。人間性の回復が必要な人々、哀れな人々という外的な規定である。

 

2アルチュセールの疎外論の本質主義

このような考えは、何も典型的な空想的社会主義者だけではない。

例えば、フランス共産党のマルクス・レーニン主義者であるアルチュセールの理論構造を見てみよう。

彼のマルクスの理解は、次のようなものである。

初期は、哲学的ヒューマニズムであり、それはブルジョアヒューマニズムに過ぎないものであり、イデオロギーである。後期は、これを否定して、科学的、理論的な内容へと変化した、というものである。

前者については、そのように理解している内容を端的に示している文章がある。

「労働から疎外された生産物(商品、国家、宗教)のうちに、人間はそうとは知らずに、人間の本質を実現している。人間のこうした喪失が、歴史と人間とを生みだしているけれども、実はその前提として、あらかじめ実在している明確な本質があったのだ。人間性を喪失せる客観性と化したこの人間は、歴史のおわりには、財産、宗教、国家のうちに疎外された人間固有の本質を、主体として、もはやとり戻しさえすればいいのだ、――全体的人間、真の人間となるために。」(アルチュセール『マルクスのために』)

アルチュセールは、疎外ということを、人間の本質の外化、したがって喪失であるととらえている。たしかにマルクスもこのような表現をする場合がある。しかし、疎外論を物象化論へと展開する場合、自らの活動と、その対象物との関係において、その隷属関係としてその本質をつかんでいるのであるということを明らかにしているのである。

彼はマルクスの労働の疎外を次のように理解している。

まず第一に、労働の対象化の凝固物と人間なるものとの対比において、人間の本質の外化なのだとしている。

「この観念は、当時マルクスがそれにあたえた役割、つまり、原初の基礎という役割を立派に演じていること、ただしこの観念がこの役割を演じることができるのはただ、『人間』という概念全体―われわれになじみ深い政治経済学の諸概念の必然性と内容が、やがて人間の本質からひきだされるもとになる―の委託された任務として、この役割をうけいれるという条件のもとにおいてだけであることを認識しなければなるまい。」(アルチュセール『マルクスのために』)

このように把握することのより、マルクスの理論は人間性の本質の回復というヒューマニズムにすぎないではないかとしている。

本質と外化という掴み方そのものに問題があり、したっがて、マルクスが疎外を労働し生産する現実諸個人の社会的活動が生み出すものとして提起されている内容を理解しえていない。誤った理解の上に、ヒューマニズムのイデオロギーとして否定しているのである。

アルチュセールのこのような本質の外化としての理解は、当然にも「前マルクス」を反ヒューマニズムのイデオロギーと規定し、「後マルクス」を理論的科学的として、一八四四年の「認識論的切断」があるとした。

そして、「資本論」の性格は、「問題意識の転換」によるものとしている。リカードの剰余価値理論に、問題意識の違いを持ち込んだという考えかたである。

これは何を意味するかというと、マルクスの理論的立場が、マルクス個人の自我でしかないということとして考えらえていることである。個人の頭に宿った問題意識が変わったという理解である。我々は、初期も後期も理論的には一貫していると捉えているのであるが、この点については、後ほど詳しく展開する。

これまでの多くのこの領域についての論文が、マルクスの疎外論に対して、ヘーゲルの疎外論を適用するという筋違いな論法を用いていること、その結果、人間的本質の回復とか、人間性の全面的実現とかという理念をかかげることで結論とする理想主義的な啓蒙主義に終わっている場合が多い。

たしかにヘーゲルの外化とは、欠陥のあるもの、不十分なものという意味を含む。なぜなら、能動的に生み出すヘーゲル的主体は、統体性としての概念であり、合理的なもの、真なるものとしての理念なのだから、客観的概念と主観的概念の同一性によって回復された概念や理念は、出発点しての現象の有限性、多様な欠点や誤りをも止揚して前進しようとする動的なものである。すなわち同一性と同時に非同一性をも把握するからこそ否定性が生まれるのである。

そして再び概念、理念を自由に解き放つとされるのである。現実的なものは、概念に照り返し、主観的概念において己自身を知りつつ、判断によって、それを生み出されたもの、外化されたものとして規定し、判断の主観性を推論によって必然的なものとして確証しつつ概念に客観を与える。そして推論においてその現実、現象が、概念との不同一を見出し、その不合理性を知ることになる。真なる概念はこれに覆い被さり、より統体性、より普遍性へと止揚しようと動きだす。有限的なものは止揚され、概念や理念が真なる物として能動的主体として不断に現れるのである。この円環こそ、概念、理念の働きなのである。このようにヘーゲルの概念や理念は主体を持った創造的で常に止揚を繰り返す過程なのである。

したがって、現象と内的本質、ないしは実体に同一性、不同一性ということを静止的にとらえるという種類の疎外論としてヘーゲルを理解することは間違いなのであって、ヘーゲルの疎外は過程論として成立している。すなわち疎外過程論なのである。

さらに言えば、現象と本質という静止的な関係で外化を考えるということ自体、実はヘーゲルからの後退でもあるのだ。本質主義は、内なる不動の実体があり、さらにそれは理想的なものとして考えられており、現象は、偶然的な不完全な移ろうものであるという古い哲学である。

さらに重要なことは、ヘーゲルの外化は、現象の主観的概念への照り返しに於いて、自分自身を知り、規定するのだが、その時に主観的概念と現象の不一致、不同一性という場合、概念が本質であり、現象は有限であり、したがって消滅するものであり、不完全で欠陥のあるものという構造を持っている。したがって、主観的概念が新たな客観を生み出して克服しようとするのである。こうして、不断に照り返し、規定し、外化することを繰り返すのである。これらは全て、思惟の中で、思惟の究極目的にいたる思惟の中での出来事なのである。

しかしマルクスの疎外、外化の把握は、現実的主体が、すなわち生産し社会生活する人間が、自分自身が対象化する物が、単に疎遠なものとなるということを越えて自立化し且つ対立物として現れ、さらにはそれに人間が従属させられ、究極的には敵対的なものとして現れるものとしてその内容が示されているのである。したがって、この対象化する活動としての労働の結果であり、またその逆規定された労働の疎外過程としてつかまれた、ヘーゲル批判の上に築かれたあらたな疎外規定なのであって、ヘーゲルの疎外、外化の概念とは区別されるものである。ましてや、現象と内的本質という単純な本質論のあてはめにまで後退するようでは、マルクスの疎外は理解しえないのである。ヘーゲル哲学を理解しえないがために、その転倒としてのマルクス主義を理解し得ない場合に陥る典型的な例は、古い哲学な立場、本質論へ寄りかかりながら、なにか判ったような気になる俗流化である。へーゲルもたしかに「本質は現象する」ということをたびたび述べる。それを自分の常識的枠組みに照らし合わせて、判った気になっているだけである。ここでは、ヘーゲルは、本質はただ背後にあるようなものでもなく、また、単に内なるものでもない、ということを繰り返し述べているということだけをここでは注意しておくことにする。(エンチュクロペディー「本質論 一三一、一四〇参照)

たしかにアルチュセールは、疎外を単に内的本質と現象という単純なものとはしていない。彼は、これに加えて、内的本質の対象への移出を、したがって、本質の側の空洞化空虚化を付け加えている。そして、これを取り戻すのだとしている。そうすると、当然にも、疎外が、対象化した物と対象化した主体との関係なのだということ、変革されるべきはこの関係そのものなのだということを理解できない結果となる。

たとえば、賃労働と資本の関係について、資本を賃労働の側が取り込めばよいのではない。

労働者が全員資本家になるということを語っているだけのことなのである。問題の核心は賃労働と資本の両極の廃棄、このような関係そのものを廃止するする必要があるのである。すなわち、社会的生産過程が、資本の価値増殖過程として征服されていることそのものを突き破らなければならないのである。

アルチュセールは、「物神性の仮象は決して主観的なものではないのであって、『意識』や知覚の『錯覚』なるものはそれ自体副次的なものであるがゆえに、それは徹頭徹尾客観的なものである。」と、単なる錯視論を排して、現実であるとしている。多くの錯視論よりはましであるが、しかし、疎外を「抽象的人間一般」にとっての客観的な状況、環境としてしか理解していない。

アルチュセールは、疎外論を誤って理解して、その結果、マルクスの理論的立場を見失った。それだけではない。その根底に、ヘーゲルの哲学に対する批判的態度に於いて、ヘーゲルを突き抜けるのではなく、カント的後退をしていることである。そのことによって、彼の理論全体が、労働者にとっても、理論家にとってもラジカルなものにならないのである。世の中を自我で観想するだけで終わるのである。

アルチュセールのキーワードである「認識論的切断」「問題意識の革命」「本質的切断」等々をつなぎ合わせてできている論理は、実はカント的認識論、すなわち自我が認識主体として現れる認識論に、その自我の問題意識によって、客観的対象全体に対して、見えるものが違う、見ようとするのものが異なるという考えに、すなわちウエーバーの理念型認識論に、剰余価値論=本質的理論規定を貼り付けたものにすぎない。

イデオロギーと科学の切断ということを語る事と裏腹に、この問題意識なるものの主観的な性格については不問とする。しかも、その問題意識の内容は、一向に不明でもある。

アルチュセールは、イデオロギーではなく科学的理論を、と強調することになるのであるが、正しい認識をするのは理論家であり、その作られた理論と、単なる実践の労働者大衆との外的結合である。

「マルクス主義理論と労働運動の統一は、一方では理論(認識)と関わりつつ、他方では能動的・歴史的現実、すなわちプロレタリアートおよび人民大衆と関わることになるが、マルクス主義理論と労働運動の統一を考えるためには、『歴史を作るのは大衆である』というマルクス主義の根本原理を忘れてはならない。」(アルチュセール「批判的・自己批判的ノート」)

このように、理論の組み立て方そのものが、典型的な、空想的目的主義、自我による理論認識、目的の担い手としての労働者大衆という構成である。

 

3ルカーチの「非人間的形態」=物象化

別のレーニン主義者のルカーチの階級意識論では、次のようになっている。

「『自由の王国』、つまり『人類史の前史』の終焉が意味するのは、まさに人間相互の対象化された関係すなわち物象化が、力を失い、人間はそこから解放され始めるのだ、ということである。」(階級意識論六九頁)

ここでは、人間一般が問題とされている。マルクスは、物象化は、労働の疎外として、労働の疎外過程としてとらえているのであって、抽象的な人間一般の不幸を嘆くヒューマニズムの立場ではない。

このような観点から、プロレタリアートは次のように対応させられて規定される。

「プロレタリアートは資本主義の産物であるから、かれらは必然的に自分を生み出したものの定在形態にしたがわねばならない。その定在形態とは非人間的な形態であり、物象化されたものである。」(ルカーチ「階級意識論八六頁)

非人間的であることを否定する存在であるから人間性の回復が必要である、という脈絡のみである。

ここでも同じように、賃労働と資本の敵対的関係、資本の社会的力の下への隷属、隷属を根拠とする搾取、労働者の肉体的精神的破壊、自然の豊暁性の破壊、科学技術の破壊作用などなどの労働者にとっての諸規定が、したがって、その否定の必然的な歴史的社会的内容が全く消え去り、抽象的な人間一般となってしまっているのである。

そして、あたかも人間がそのままで物象化されているかのような記述の上に、したがって、正しく物事を認識できないとして、正しい理論に従うべきであるとする。

このような物象化によって労働者の意識と究極的目的との「弁証法的矛盾」を発見したルカーチは、労働者が自己批判して共産党に指導されなさい、という解決へと向かう。

どこに弁証法があり、どこに矛盾があるのかは不明のまま、ただ単に、異質なものとして繋がれているという程度のことに過ぎない「弁証法的矛盾」を語り、真の階級意識は外から与えらえるということを語っているだけである。

このルカーチ階級意識論を下敷きにして、物象化論をレーニン主義に結び付ける傾向が一部にある。

ルカーチ「階級意識論」についての批判は、「付記」に別稿として展開しているので、ぜひ読んでもらいたい。

アルチュセールやルカーチ以外にもこれまでの多くのこの領域についての論文が、マルクスの疎外論に対して、ヘーゲルの疎外論を適用するという筋違いな論法を用いていること、さらに、へーゲルの論理を十分理解しないで、本質主義でわかったような顔をしていること、ヘーゲルに非ざるヘーゲル的な疎外論を作り上げ、その結果、人間的本質の回復とか、人間性の全面的実現とかという理念をかかげることで結論とする本質主義的で理想主義的な啓蒙主義に終わっている場合が多い。

アルチュセールやルカーチに共通して生まれる疎外論や物象化論についてのこのような考えの根本的欠点はどこにあるのか?

もうお分かりであろう。疎外を活動して理解していないということであり、かつ、当然にも過程として理解していないことである。疎外を活動と理解しているなら、本質論的理解が不適応であることはすぐわかることであり、その点からも誤りに気づいて反省的に本質主義を超えることができたであろう。

対象化した物が、敵対的であり、生みだした当の本人達が従属させられる、自立的なものとして現れるというのは、労働の結果である。しかし、さらに重要なのは、この結果した疎外に、強制的に依存させられ、この結果が原因として現れ、疎外がさらに深まるという循環、交互作用にあるということ、これである。

疎外は、単に結果、状況なのではなく、疎外された対象的活動であり、したがって疎外の過程として現れるのである。

 

4マルクスの疎外論の再把握

たしかに、経済学哲学草稿の中での「疎外された労働」の項は、その疎外の意味の掘り下げ、再把握において、人間性の疎外を明らかにし、人間性の回復を唱っている。しかし、労働の疎外についての内容と、その掘り下げた再把握、とらえ返しの内容を混同してはいけない。しかも、多くの人が、俗流であるがゆえに大好きな本質主義に還元してしまっている。そして、初期マルクスは哲学的であり、ヒューマニズムであると勝手に決め付けることになる。

初期マルクス、後期マルクスという区別を語る人が多いが、筆者は反対である。これに付随して語られる、疎外論と物象化論の切断的理解にも反対である。

連続性の根拠は次に点にある。

マルクスはすでに「経済学・哲学草稿」の段階において、国民経済学の立場が、資本と土地の所有者の立場からの理論であることを示し、「国民経済学を動かしている唯一の車輪は、所有欲であり、所有欲にかられている人たちのあいだの戦いであり、競争である。」(「経済学・哲学草稿」)とする。

これにたいして、マルクスの立場は次のような姿勢として述べられる。

「われわれは、いまや私有財産、所有欲、労働と資本と土地所有との分離、(という三者)のあいだの本質的連関を、さらにこうした一切の疎外と貨幣制度との本質的連関を概念的に把握しなければならない。」(「経済学・哲学草稿」)と、労働主体の疎外過程と価値論の統一的概念的把握を課題としているのである。

多くの人が、この重要な個所を見落としている。

なぜかというと、この文章の中に出てくる「概念的把握」という言葉の意味を理解し得ないからである。マルクスは、各所で「概念的把握」という言葉を使っている。

これは、ヘーゲルの論理学の概念論を念頭に置いているのであるが、これを、単に、概念の判断の項の「普遍・特殊・個別」を想起することで終わりとするような考えでは、理解しえないものなのである。これらは概念装置にすぎないのであって、概念の内容ではない。重要なのは、判断から推論へと移行することにより、必然性の論証をも含むものとして、端的には、主語と述語が貫通するものとして初めて概念的であるという理解がなければならない。さらに、ヘーゲルが繰り返し述べる、真理は過程であるということ、過程の諸規定、その反作用を総合してはじめてヘーゲル的概念の運動を捉え返さねばならないのである。ヘーゲルの概念は、神秘的なものである。この神秘性を否定して、その要素を掴み取ることができるかどうかが、マルクスの概念的把握という言葉を理解するために必要である。これ抜きには、下向・上向の内的な関係もつかめない。単に漂白的な抽象と、単なる具体化としてしかつかめないようでは、必然性にも真理にも到達することができない。

このことを理解し得ない人は、この重要な個所を読み取ることができない。すなわち、ヘーゲル批判を根底に置いていないひとは、マルクスを十分に読むことができないということである。

この疎外という表現の中には、疎外が活動であるということ、したがって、活動する主体が存在していること、認識主体は、この主体、労働する主体であり社会的主体としてつかまれねばならないのである。

「資本論」は、したがって、私有財産の発生からその完成形態としての資本主義までの過程を含み、それを、労働の疎外過程として概念的に明らかにする学的体系として、商品生産における価値形成過程、資本主義的生産における価値増殖過程としての本質的把握を根底において、資本の総過程を叙述したものとして理解しなければならない。

そしてその認識主体は、労働する主体なのであり、また、その認識の根本的共有を呼びかけるものなのである。

「経済学・哲学草稿」の段階における疎外論の問題の焦点は次の点にある。

この段階に於ける不十分性は、労働の疎外を、価値論との関係に於いて明かにすることに至っていないがゆえに、疎外が生まれる本質的な根拠を明示し得ていないということ、これである。

「疎外がある。」と記述するとしよう。これは、単にあるという断定をした命題に過ぎない。ヘーゲル的に言えば、「定言判断」に過ぎない。疎外が起きる根拠とその必然性は明らかにされていない。すなわち、媒辞を通して、その必然性を明らかにするという推論が欠けているのである。

注目すべきは先の「経済学・哲学草稿」の「こうした一切の疎外と貨幣制度との本質的連関を概念的に把握しなければならない。」という文章である。これは、貨幣の神秘的性格、万能の力がどこから来るのかということの分析と統一して把握する必要を述べているのであるが、概念的に把握するべきとしている。

では概念的に把握するこということはどのようなことなのか?

まず第一に、具体的現実的諸個人が、いかなる諸規定性においてその存在を全体の中に捉え返すことができるのかということである。それは、歴史の各段階において、生産と社会の相互関係に中に把握される事柄である。

第二に重要なことは、判断と推論の統一である。個別的なものを普遍的な規定に包摂するということは同時に抽象するということでもある。しかし、この抽象は、再び個別に返されうるもの、再措定されるものでなければならないということである。ただ単に、普遍性のものとに包摂するのような規定は、命題に過ぎない。内的必然性をもった推論において、その普遍性を真なるものとして、すなわち必然的であるものとして証明しなくてはならない。そのことは、抽象が死んだ空疎な抽象なのか、生きた豊富な抽象なのかの分かれ目である。

第三に、したがって、概念的な把握は、過程としてあらわれ、全体の諸関係、相互の規定性が、開示できるものとなるのでなければならない。

方法的には、次の点を注目してみよう。

「経済学批判要綱への序説」において、生産と消費の関係を述べている箇所に次のような記述がある。

「社会を一つの単一の主体として考察することは、社会を誤って―思弁的に―考察することである。一つの主体の場合は、生産と消費とが、一つの行為の諸契機としてあらわれる。ただここで重要なこととして、生産と消費を一つの主体の活動として考察するにせよ、多数の個人の活動として考察するにせよ、いずれにしてもそれらは、一つの過程の諸契機として現れるのであって、この過程の中では生産が現実的な出発点であり、そしてそれゆえまた包括的な契機でもあるということだけは、強調しておかなければならない。」

「生産的活動は実現の出発点であり、それゆえ実現の包括的な契機であり、全過程がふたたびそこにたどりついてゆく行為である。」

生産の普遍性と同時にその個別性が契機となって過程が展開するのだとしている。

どういうことかというと、生産、分配、交換、消費は、総体の諸分肢であり、諸区別である。しかし、生産は、他の諸契機をも包括している、全部を含んでいるということを述べている。横に並ぶ一契機に過ぎないようでいて、実は、自分を含めた全部の契機を包み込むものなのだとしている。

「したがって、一定の生産は、一定の消費、分配、交換を規定し、またこれらのさまざまな諸契相互機間の一定の関係を規定する。」

「もちろん、生産もまた、その一面的な形態では、それはそれとして他の契機によって規定されている。」

概念的把握とは、このような諸規定の規定的普遍性と相互規定的関係において把握されることであり、したっがて、過程の出発と結果を明らかにしてその内的必然性を示すことである。

なお概念的把握についての認識論的な掘り下げについては、「付記」の「U概念的把握とはなにか」を読んでもらいたい。

では概念的に把握された疎外論、その物象化論としての展開とはいかなるものなのか。

 

5疎外論を物象化過程論へ

マルクスが、あらゆる疎外を貨幣制度との関連において概念的に把握するべきであるとした。

疎外論が、本質主義の延長にあるものでもなく、また、物象論が錯認識という、意識の転倒を表すものでもないはすでに明らかにしてきた。

人間の社会的活動において生みだされる事物に人間が隷属するという現実的な事柄であり、人間の歴史は、その疎外を通して発展してきたのであり、そして、それは物象化過程として、貨幣の歴史とともに進んできたのである。

貨幣の歴史とは、とりもなおさず私有財産の歴史でもある。そして、生産様式の歴史は、この貨幣の転変に規定されている。

貨幣は、交換価値の独立によって生みだされた。この出生の在り方が、それ以降の歴史を性格づけている。

人間社会の歴史が、自然発生的分業のもとに生産し社会生活を営むことの不可避的過程として、交換という行為から交換価値を社会的生み出すということ、それは単に初期の物々交換において、商品に内包されていて、交換の瞬間にだけ顔を出し、交換が終わる瞬間に消えてゆくようなものではなく、生産の発展と社会的欲求の拡大によって、商品が交換のために作られるようになることによって、交換価値が、物として、手に取ることのできる現物として形造られて社会に君臨するようになることから、この交換価値が社会の諸契機を規定する当のものとしてあらわれるのだということを、本質的かつ総合的に把握するべきであるということを示している。

貨幣の発生は、社会が、交換の尺度として、次には交換の媒介として作り出し、流通を円滑にする便利なものとして出発した。しかし、それが、交換価値を代表するものであるという根本的性格である以上、貨幣を蓄蔵するということが、富の蓄えになるということに気付くのは時間の問題である。

かくして、媒介的な役割を担うという性格から、それ自体が主人公としてあらわれ、それ自体を目的とする欲望が拡大する。

貨幣は、物象化の過程の始まりとなるのである。

労働の価値が、貨幣として集積され、形をもって蓄積され、人々がそれに従属させられる。労働の有用労働としての側面は、壺や衣類として生活の中に使用価値として蓄積されてゆく。    他方、労働の一般的抽象的労働としての、交換価値を生み出す側面は、貨幣という形で蓄積されてゆく。労働の対象物が、貨幣となることによって、それが自立し、それに強制的に依存させられ、従属するという疎外が発生する。それは、物としてあらわれる。商品の持つ物神性とは、個々の椅子や上着の使用価値に物神性があるということではないということは自明である。商品の商品との関係における交換価値が、社会的性格を持つこと、人間相互の関係が、直接的人格的関係ではなく、商品を媒介とする関係に作り替えられるということ、この二つの側面から捉えられるべきである。

物象化は過程として、この交換価値の独立、地上への物としての登場から、その増殖の過程としてあらわれる。

物象化過程を概括してみよう。

採取と農耕と手仕事によって成立する群れや共同体が、その中で、譲渡、分割、相互贈与などの形で分業を越えて社会生活を送る段階から、生産の拡大と並行して進む人口の増大、欲求の拡大につれて、共同体間に剰余物の交換が発生する。

必要なものの物々交換から始まる交換は、市場の成立をとおして、交換の為の商品が作られるようになる。

交換の発達は、交換の時に現れる交換価値の尺度となる特別な商品を生みだし、次にはそれが交換の媒介をなすものとして交換価値の化身として貨幣となり、さらに、直接的な媒介という役目のみならず、価値を貯めておくことができるという性質が重要視され、蓄蔵貨幣となる。労働の成果としての価値を、形をもってため込むことができるとなると、富の独占、集中、私有、法的保護へと向かう。

商品の物神性とは、椅子や壺に人間がひれ伏すということを述べているのではないことは自明である。商品と商品の関係において、交換価値が現れるということ、そして、それは個々の商品所有者の意図を越えて、社会的な基準として現れ、人々はこれに従わざるを得ないということである。

商品の等価交換は、相互に媒介的であるから、個々の商品は、媒介された結果としての交換価値において交換される。直接その商品を作り、市場に持ってきた人が費やした労働時間が、交換価値として認められ訳ではない。その商品がその社会において再生産されるに必要と認められる交換価値がその社会において認められる。新たな生産技術が見つかると当然にも交換価値は変化する。遅れた製法の商品は、個々人の思惑を超えて下落するであろう。社会的規定性に個々人は有無を言わさず従わされるのである。

したがって、商品の物神性が、貨幣の物象的性格の根拠にあるのであって、交換価値が社会的に疎外された物として現れることによって、それに対する依存と従属が生まれるのである。

貨幣は、蓄蔵貨幣となり、商人資本となり、やがて産業資本となることによって物象化は新段階に入る。価値が単に大規模に集積されるだけではなく、価値増殖の世界が現れるからである。社会的生産過程が、丸ごと資本の価値増殖過程とされ、剰余価値の生産が規定的な目的として生産が行われるようになる。

労働者の対象化した物が、搾取された剰余価値が、資本として再び自らを支配する力としてより強力な力として敵対的にあらわれるということである。

資本のもとへの隷属の強化は、搾取の前提である。

直接は、賃労働の契約において、労働の指揮監督権を資本の側に認めるということからはじまる。また、資本は解雇権をもつ。

労働の編成は資本の指揮監督権のもとにある。

労働の結合されたありかたは、それ自体が資本の力として、個々の労働者に強制的な圧迫となる。

物象化とは、この労働者の資本主義的生産における価値形成的労働が、不断に資本の拡大再生産として、技術的基礎の改変をテコとする労働の人員配列の改変としてあらわれ、より強固な従属に込みこまれてゆくということである。

そして今日では、資本所有と資本機能が分離すること、そして、株式会社制度が発展して、

事業資本と持ち株金融資本が分離し、国際的な巨大ファンドがさらにその上に君臨するという多重の物象的支配構造が生み出されているのが現段階である。

さらに、賃金労働者でありながら、資本の指揮監督機能を担う資本側の労働者が職制として生みだされ、あたかも刑務官のごとく働く層が生まれる。労働組織は、資本の指揮監督の系列でもあるから、層をなして、多重にこの指揮監督権が行使される。この力は、上から下へと、本社、子会社、下請け、孫請けの発注系列を貫き、本工、または正社員と非正規、外国人労働者を貫く。これは今や近代身分制として定着している。一九五〇年代の産業合理化過程において、技術革新と生産性向上が謳われた折に、「ラインアンドスタッフ」という労働体系が生み出され、組合に所属しない職制という労働職種が生み出されて以来、

労働指揮権を資本の側が完全に取り上げる攻撃が、鉄鋼、製紙から三井三池炭鉱の闘争屁と発展し、さらに官公労において、国鉄マル生闘争へとつながった。三池の敗北と国鉄の敗北は、日本の資本家階級が、労働に対す資本に支配権の確立を意味すると同時に、近代的身分制の形成にスタートでもあった。

賃金奴隷制の支配の敵は、いまやこの多重の敵である。

古代の手仕事、農耕、狩猟採取から面々と積み重ねられて来た労働の成果の一部が蓄積された価値として集積され、それが形を変えながら自己増殖し、全人類の頭上に巨大な力として怪物のように現れ、人々がこれにひれ伏している異様な世界は、長い長い物象化過程の今日的姿なのである。

 

6物象化過程論の理論的位置

本質主義的な、したがって人間主義的な疎外論から導き出されるのは、抽象的な人間性の回復である。そこから作り出される理論は当然にも空想的社会主義である。

他方、疎外論ではなく物象化論だとした傾向は、人間関係が物象化されているのだという見方から、錯認識を問題とし、正しい、科学的理論による指導性を語ることになる。これは当然にも、レーニン主義とつながる。

ブルジョアイデオロギーに汚染されている、とか、錯認識であるとか、いずれにしても騙されて現状を肯定しているのが労働者大衆である、という認識は、当然にも、啓蒙主義となる。イデオロギー装置論や誤った物象化論は、真実を見ない。労働者大衆は、騙されているわけではない。所与の前提として、生活の前提として、今日の経済システムに強制された依存と隷属の下に置かれているのである。それを補完する、またを正当化する、または永遠化するための虚偽の説明は山ほどあるのは確かであるが、騙されて生活しているわけではない。

マルクス主義の物象化過程論は、労働者のおかれている強制された依存と隷属を概念的に明らかにする理論であり、過程の現在としては、賃労働と資本の敵対的関係の捉え返された理論なのである。

そしてそれはさらに、その止揚を問題とする場合には、共産主義論へと引き継がれるべき内容を持っている。新たな生産様式において、交換価値の形成の為の労働の廃棄と一つの物としての、交換価値の化身としての貨幣の廃棄という課題へとつながるからである。

階級形成論において物象化過程論を扱ってきたのは、上記のごとく、資本の社会的力への隷属をより概念的に明かにし、その突破の方向が、新たな生産様式として、あらたな共同労働として、賃金奴隷制の打破でなければならいということを理論的に裏打ちするためのものである。

単に資本が国家にとって代わって、資本の私的性格が社会的になり、市場原理にとって変わって国家的計画経済となることが社会主義の入口ではないということは、レーニン主義、スターリン主義の誤りで歴史的に明らかである。

しかし、資本の価値増殖過程そのものが、労働者の戦いによっていかに突破されてゆくのかという問題について正面から答えてゆく理論はいまだ不十分である。

労働者の階級形成が、その質において、この実際的解決能力を持っているのだということ、これが階級形成論と物象化過程論の肝心な理論的つながりなのである。

「マルクスの疎外論と物象化論の相互関係について」という論文を「付記」に収めてある。

是非、精読されることを希望する。

 

U階級形成論

 

1階級形成論の理論的位置

階級形成論は、組織論の根拠を示すととともに、戦略論と組織論を媒介する性格を持っている。

階級闘争の発展としての革命、革命の中からの新たな生産と社会の形成、私有財産の歴史の終焉、すなわち、貨幣の登場から始まり、資本へと変貌し、さらにまた資本をも支配する貨幣として君臨してきた集積された富としての私有財産の歴史の終焉と、共同労働を基礎とする共産主義社会の形成という総過程を歴史の洞察された必然性として理解し、それを意識的に推進するものとしての共産主義理論と共産主義者の運動は、現在直下においては、階級闘争の中に於いて、階級形成を推進することから始まると同時に、理論活動を積極的に行うことにある。

このことを、別の側面から見ると、労働者大衆の自立した団結からの、結合の質の実践的理論的成長こそが革命的なのであり、共産主義的なのであるということでもある。

階級闘争と革命闘争を切断して、革命は革命理論とその担い手である革命家の集団が行うものと特別なものにしてしまい、次に、共産主義は理想の社会を目指す理論の設計図に基づくものと切断し、それを、後者が前者を手段として利用して段階的に進むのだという考えかたは、階級闘争と革命闘争と共産主義運動についての区別と同一性を理解しない誤りである。このような誤りを犯す原因は、発展する主体、どこまでも発展的である労働者の団結の普遍的性格を知らないことにもよるが、共産主義理論とは歴史的必然性をその理論を必要とする社会的主体において叙述するものであるという基本的性格を知らないからである。

階級闘争の全面的の発達したものが革命闘争なのであって、階級闘争は階級支配を前提として、もっぱら改良的民主的運動に限定されるべきであるという、資本主義を永遠化する考え方があるが、階級支配の動揺期においては、不断に根本的解決へ向けての要求、目的が生み出されるのであり、この中で、隷属と搾取の制度そのものに対する怒りとそれを突破しようとする激情が結び合われてゆくのである。階級闘争は改良的民主的と制限し、ある日突然に労働者の運動の外から、革命闘争が現れるとしたら、それはクーデター型の権力であり、その内容は労働者に敵対的な何者かであり、反ブルジョアであるかもしれないが、反共産主義であり、反プロレタリア的なものでしかないであろう。

世界資本主義の諸関連の下に置かれている労働者、世界史的存在としてのプロレタリアートの共同利害の発展としての共産主義としてその内容が展開されるのであって、特定の個人の自我を根拠とする思惟の中から作られるようなものではない。

逆に述べるならば、労働者の共同利害からせりあがってくる内容の中に、共産主義に広がる内容がないのであれば、共産主義は現実性も必然性ない空論であるということである。

したがって、階級闘争と革命闘争と共産主義運動は、労働者の共同利害の結合した戦いと理論として同一性を持っていると同時に、その発展の段階的質的区別性があるである。

この区別性と同一性をつかむことができない人々は、階級形成の必要性も、労働者党の意義も、さらに共産主義者の必要性も理解できない。

我々の当面する目的は、次のようなものである。

労働者の資本の下への隷属と政治的支配からの解放である。当然にも、国際的規模での解放である。資本主義的生産をやめて、新たな共同労働の社会の建設である。抑圧的権力のない社会の建設の建設のために、特殊利害を排した、全人民の普遍的利害を推進する統治権力を作り出すことである。

先進諸国は、開発途上国、貧困国の労働者と連帯し、経済的自立と教育、医療の発展を援助しなければならない。

共産主義者は、この過程のなかから、資本主義的生産とその下での疎外された生活と慣習からの人間性の回復と私有財産の力の排除を推し進め、人間の豊かな社会性の育成と破壊に瀕する自然の豊堯性の回復のための指針を常に提起し、人間性の全面的発展を推進しなければならない。

貨幣がその価値を増殖するためにあらゆる自然も人間も手段にしてしまう転倒した社会を、人間が主人公となる社会へと作り直すことは、同時に、人間によって作られた神に呪縛されている疎外された精神を理性的精神として回復する過程でもある。

推進力となる大量の共産主義者の形成のために、積極的な理論活動を展開することが必要である。

賃労働と資本の対立にもとづく階級闘争の発展としての労働者解放の革命の大目的は労働者の経済的解放である。自らの共同による労働の支配を根拠とする新たな生産様式の誕生と人間の全面的発達のための社会の建設を目指すことを、階級支配の転覆になかで展望として明示する必要がある。単なる否定、単なる破壊転覆には誰も賛同しないし、普遍的な道義的力を持ちえないことは、誰でもわかることである。すなわち、階級支配の打倒以前に、その統治能力を高め開示することなしに、全社会を味方に付けてあらたな社会へ向けて前進することことはできない。ましてや、第一次世界革命の手ひどい挫折に記憶が残っている人々に希望を与えることは困難な加太としてあることは皆承知であるからでもある。

各人の労働が、自分および社会全体を向上させるための、直接的な社会的労働となること、したっがて、生産過程を支配する力が同時に全社会を統治する政治的力とならなければならない。農民をはじめ一次産業に携わる人々、町のパン屋さんをはじめとする小売業の人々、教育医療福祉関連で働く人々等々が、新たな生産様式と流通、生活様式の激変に対応することができるように指導すること統治能力が備わっていなければならない。

株式会社制度を廃止し、不動産所得を禁止して、大企業を国有化してから労働者生産隊へ委譲すること、一切の金融利子の廃止と、金融手数料の新設、労働者評議会と地域選出代表者会議の連絡協議会の設立、医療、教育、福祉の無償化、ベーシックインカム等々の諸方策についての検討と新社会建設計画の展望を明らかにするたに必要となるであろう。

 

2階級形成論と戦略論の統一

戦略論と階級形成論の関連について進んでみよう。

資本主義的生産が、全世界を覆いつくし、賃労働が一般的な労働の在り方となることによって、労働者の歴史的な定在は、賃労働と資本の国際的な敵対的関係としてあらわれ、もはや国境ごとに階級情勢が分析されるものではない。

世界資本主義が不均等発展し、帝国主義的発展の諸国が対立し、また従属的国家間関係を形成し、帝国主義的戦争が起こるという時代は終焉している。さらに、「東西冷戦」は、一九九八年「ベルリンの壁の崩壊」以降終焉している。

今日は、多国籍企業と金融の国際化の時代である。このことは、経済危機の国際的連動性と、各国階級闘争の直接的波及性、連動性が高まっていることを示している。これは、旧「社会主義圏諸国」を含む。たとえばEU諸国は、経済も階級闘争も国境を越えて連動している。

革命の同時性は、単に本質的なものとして、語られるのではなく、現実的諸関連において明らかにされる事柄である。

今日の多国籍企業の海外進出は、現地の遅れた生産形態を一挙に数段も段階を飛び越えた高度なものとして登場する。たとえば、広大な中国では固定電話はいまだ普及していない地域が多いのであるが、今や携帯電話が普及する。電線を走らせるより、アンテナを立てるほうが簡単だからであり、端末の便利さが世界標準のレベルで普及する。後発が、最先端をそれ以前の段階の否定を必要としないで取り入れることができるという現象である。

そして、もっとも先端の生産形態は、それまでの経てきた各段階を横に併存する形で関連付けて一つの経済循環を作り出し、また、各国との貿易や資本進出、さらに金融に於いて結びつき、国際的な相互依存を深めている。

国際分業は同時に国際協業でもある。資本主義的生産に於いて、あらゆる資源が利潤の源であり自然破壊が略奪的に進む。森林資源も海洋資源も地下資源も破壊的事態を迎えている。資本主義的生産は、この問題を解決できない。貨幣の致富欲は、個々の人間の理性を越えているからである。この致富欲の前に人間の理性は虚しいものとしてこだまする。それにもかかわらず、この疎外された協業は、次の社会の国際的協力、協業の基礎となるであろう。

たとえ一国の労働者革命とて、世界の資本にとって、有産階級にとって、他国の出来事という訳にはいかない、直接的に連動する脅威となるであろう。資本家階級は、自己の存立の危機を背景に、国境を越えて団結して押しつぶしに来るであろう。この密集する敵を前に、労働者の戦いは国境を越えて波及するものとなるであろう。労働者はこの密集する敵を作り出すことによって、その革命の国際的性格を自ら示すのである。

我々は、労働者革命を世界革命であり、同時革命であると規定してきた。ロシア革命からはじまった第一次世界革命は、先進国革命に至ることなく、その後進国革命としての限界と共産主義運動の未熟さがあいまって、挫折した。次の第二次世界革命は、むしろ先進国革命から始まって、したがって同時革命であり、先進国革命が、これまでの後進国革命の幻想を打ち破り、開発独裁の形態やアジア的専制支配の形態や、官僚支配国家資本主義などの歪曲を正し、あらたな共産主義運動を生み出すであろう。

とりあえず後進国の一国から始まったプロレタリア革命としてのロシア革命は、その後進性のゆえに、先進国革命と一つとなって進むことを条件づけられていたのであるが、ドイツ革命の敗北以降、そのひずみが拡大すると同時に党官僚の支配のもとに都市労働者に対しては国家資本主義的傾向を強め、農村の農民に対しては東洋的専制権力の復活を思わせる絶対的権力として現れ、共産党独裁の全体主義へと向かった。「一国社会主義」路線の下に、自国の民族的利益の下に他国の労働者運動を利用する対外路線になることによって、世界革命を裏切ることとなる。

我々は、一九六〇年代に、永続革命の第二段階として、先進国同時革命に時代と段階規定して、戦略を確定していた。そのことによって、後進国革命の限界をただし、スターリン主義を、その成立する根拠ごと克服することを含んでの永続革命論であった。

しかし、戦後第二の革命期は、浅いものとして終焉し、ベトナム革命、カンボジア革命、イラン革命など止まりで終わった。

そして、この革命期は、世界市場の影響から抜け出ているわけではない「社会主義圏」、旧ソ連圏にも波及していたのであり。その影響は、経済の停滞と産業構造の劣化として現れ、経済の停滞へと向かった。一九八九年のベルリン壁の崩壊は、この戦後第二の革命期の結果でもあった。表面的には「人権の自由」の波が、「西側の自由」を求めて波となったと理解されているが、重厚長大型の産業構造の停滞によって、国際的なオイルショックからの抜け出しできず、国民経済の疲弊が根底に横たわっていたのである。

しかし今や「豊かな資本主義と貧しい社会主義」という幻想は、「旧社会主義東欧諸国」においては、確実に敗れ去っている。医療、教育、スポーツジムはかってすべて無料であったことを懐かしむ声が聞かれたりする。

先進国同時革命は、かっての「社会主義圏」の人々に新たな希望をあたえるものとなるであろう。

EUの革命は、一つの欧州革命としてのみ可能であり、また、それを目指さなくてはならない。

中国においても、かって文化大革命の折に、「上海コミューン」が顔を出したことがある。これは直ちに中国共産党毛沢東によって、党を否定するものであるとして否定された。

196715日、上海の労働者造反派は上海市党委員会の権力を奪取し、二月五日には、上海の労働者と農民の組織は、旧来の上海市党委員会と上海市人民政府を解体して新しく「上海人民公社」(上海コミューン)が設立されたことを宣言した。しかし、二月一二日、毛沢東は、「やはり妥当なやり方をした方がよい」と否定した。二月二四日に「上海革命委員会」と改ためることになり消え去った。次の世界革命の中での、この上海コミューンの歴史的復活は、共産党独裁を打ち破るものとなるであろう。

国際的な労働者の階級形成は、生産と社会の在り方が異なるのであるから個々ばらばらにしか進行しないであろう。しかし、各国の労働組合運動の長い歴史は、階級形成の基礎として、有効な端緒となるものである。

労働組合と労働者党と革命評議会と共産主義者についての、階級形成論と組織論の統一については、後程詳しく展開することにする。ここでは、各国の労働組合が、端緒として、どこまでも発展的な労働者の団結の、根拠ある端緒として現存するのだということにとどめる。

労働者の闘争が、国境を越えて波及するようになると、要求が国際的な性格を帯びてくるということ、したがって資本家階級の団結が進むであろうこと、これらは、労働者の側に、国際的な現実的結合を不可避的な要件として課すことになる。単に結果的波及ということではなく、意識的な連携連帯が必要となる。資本が国境を越えて展開する時代に向き合う

新たな国際組織インターナショナルが必要となるであろう。

そこでは世界革命・同時革命・永続革命!が旗印となり、「自らの共同による自らの労働の支配を!」「全世界にコミューンを!」というスローガンが掲げられらるであろう。

 

3これまでの国際的な階級闘争の経験の総括

先進国革命が、これまでの後進国革命の限界を越えて進むであろうということは、次のような根拠に基づく。

なぜなら今日の世界資本主義において、新たな社会関係を築き上げるに十分な世界的生産力が発展しており、蓄積された富は、有効に使われるならば十分な文化度を享受できる程度のまで肥大化しているのであり、そして、労働はコンピューター技術をはじめとする科学技術の発展にもとづく高度化された生産過程によって、社会に必要な労働時間は短縮されてゆく傾向にあり、人々が生活するに必要な労働時間が短くなると同時に、社会に必要な剰余労働も少なくなるということを意味する。次の社会体制では、労働者の労働が直接社会的労働となること、および、個々の労働者が、自分の、家族を含めた生活を再生産するために必要な労働の対価を手に入れるための労働と同時に、社会のための社会を支えるための労働をおこなう必要がある。この条件は、既に十分に発展している。

先進国革命は、これらの条件の上に、労働者が、社会的生産過程をその共同の力で支配することによって、新たな社会を切り開くことが現実的に可能であることを指し示すことができるからである。

労働者が自分自身を代表するにいたらなかった時代、他の代表者を選んで、それに従うしかなかった時代、自らの結合によって築かれた労働者党が不在で、みせかけの前衛が権力を握り全体主義的独裁政治を「社会主義、共産主義」と欺瞞していた時代を根底的に突破するこことは、新たな真の共産主義運動の発展の根本課題であると同時に、第二次世界革命の不可欠の条件でもある。

自らの共同による自らの労働の支配ということができなければ、資本主義の根本矛盾を解決できないからである。賃労働と資本の両極の廃棄ということは取りも直さず、共同労働社会としてしかありえない。これまでの後進国革命においては、生産様式が、資本主義的価値増殖過程であることについては根本的な変化がなく、資本過程が国家となっただけである。労働者は、賃労働者としてこの過程に隷属したままである。資本も生産設備も生産された製品もすべて労働者が所有すること、処分権を握ってこそ、その生産された製品は、その労働者たちが作って社会に届ける社会的必要物となるのであり、一人一人の労働者の労働が、直接社会的労働となるのである。

資本を廃棄することなく賃労働は無くならない。そして、賃労働の廃棄なくして資本の価値増殖は無くならない。資本が、単に国家に場所を変えるということでは、時間拘束された奴隷労働は変わらない。

ロシアマルクス主義が、エンゲルスの「空想から科学へ」、「ゴータ綱領批判」の誤った唯物論規定を踏襲し、資本主義に対するこれまでの革命運動が、労働の隷属からの全面解放への道にたどり着けていないということ、レーニン主義の、単に組織論の批判にとどまらない重要な根本的な総括である。

スターリン主義の問題は、社会的には解放されていて、政治的にのみ人権抑圧があったわけではない。またそのようなことは、現実にはあり得ない。社会的に隷属させられているからこそ、政治支配が成立しているのである。

スターリンは、主要矛盾を「生産関係と所有関係の矛盾」と規定した。

スターリンは、レーニンを、最高のマルクス主義者とあがめている。そのレーニンは、マルク主義とはほど遠いエンゲルスの誤った理論を、マルクス主義として理解している。

エンゲルスは『空想から科学へ』の中で、「資本主義の基本矛盾」と定式化したのが「社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾」 という規定である。

その現象形態として「個々の工場における社会的組織 と総生産における社会的無政府性との矛盾」をあげ、「生産の規制を 目的とする結合体」として現れたトラストについて「自由競争は独占に転化し、資本主義社会 の無計画的な生産は、せまりくる社会主義社会の計画的生産のまえに降伏する」「もちろん、さしあたりはまだ資本家の利益のため」であるけれどもと展開した。

この無計画性という言葉は無政府性という表現に取りかえられてさらに展開する。「根本矛盾」の現象形態として「個々の工場における生産の組織化と社会全体における生産の無政府状態との対立」をあげ、「生産の無政府状態 」こそが資本主義的生産の根本問題として取り上げている。

このような考え方をベースにして、『反デューリング論』においては「資本制生産様式における生産力と生産関係との矛盾とは、生産の社会的性格と領有の私的性格との矛盾である」と規定する。

この考え方は、生産については、すなわち賃金労働制については、すなわち、労働に対する搾取と支配については何も問題は無く、ただ、資本のありかたが問題であるということである。

レーニンの 「さしせまる破局,それとどうたたかうか」 (一九一七年)は「国家独占資本主義が,社会主義 のためのもっとも完全な物質的準備であり,社会主義の入口であり,それと社会主義と名づけられる一段のあいだにはどんな中間的段階もないような歴史の階段の一段である」と、国家独占資本主義を、資本主義の変化として誤認して、さらにそれを連続的に社会主義国家に取り換えればぬ無政府性を克服して、社会主義へと直接に移行できるという考えである。

エンゲルスの誤りは、社会的生産過程が同時に資本主義的生産過程として作り替えられて、価値増殖過程して成立しているということを、社会的生産過程と資本主義生産過程とをあたかも二つの過程があるかのように理論立ていることにある。前者は社会化されているが、後者は無無政府的である、として、トラストや国家統制に焦点を合わせ行くことになる。

すなわち、価値増借過程としての分析がすっぽりと抜け落ちているのである。

レーニンの誤りは、このエンゲルスの規定に従い、国家統制によって、無政府性が克服されるなら、それはもはや恐慌と失業と貧困を克服できるのではないか、したがって、資本の私的所有を国家所有に切り変えることによって、直接社会主義へと移行可能であるとしたところにある。

賃労働と資本の矛盾は、労働に対する支配と搾取、資本のもとへの労働者の隷属については全くの不問である。

私的資本にとって代わって、国家が資本の位置を占めるという形の国家資本主義に過ぎないものが、社会主義的生産様式として考えられているのである。

レーニン組織論が、労働者の解放の為の党組織論ではなく、いわば「開発独裁型」の党の組織論であることが、戦略論からの組織論へ反作用において明らかになるのである。

組織論と戦略論は相互に前提的であり、また規定的である。

したがて、レーニンの組織論には、階級形成論は不要であり、また、むしろ、あってはならないものとして否定される。労働者の独立とこのレーニンの路線は対立関係にあるからだ。

 

4分断と競争を許さない階級的団結

資本の側の剰余価値の形成の仕方は、労働時間のうちから不払い労働として価値を取り上げるということである以上、力関係となる構造なのである。労働時間の長さと賃金の額は、交渉によって決まる。長い年月をかけて、労働組合が作られてきた。しかし、この結果である諸制度、法体系を、ふたたび労働者を競争にたたき込むことによって資本の側が押し戻そうとしている。残業時間についての規制を変更し、派遣労働の範囲を広げ、解雇権を広く適用し、組合つぶしを黙認し、労働の側は押されっぱなしである。

戦後の労働組合の敗北の歴史は、第一に、三井三池の合理化攻撃への敗北から始まる。作業現場に大型の機械を導入することを口実に、それまでの労働慣行に含まれていた部分的な労働指揮権を完全に奪い取ることが資本の狙いであった。総資本の攻撃と、権力の攻撃はもとより、炭労からも「サンジカリズム」と非難され、三井三池労組は一敗地に塗れた。

民間の力関係はこれで日経連側に傾いた。

第二の敗北は、国労に敗北である。「マル生」という生産性向上運動によって、労働組合が持っていた既得権をことごとく奪い去られた。これも部分的な労働指揮権に完全なはく奪である。こうして、民間、官公労を貫く連続的敗北は、第三の敗北へと続いた。一九八六年の労働者派遣法の成立によって、労働者の分断支配への道へが出来上がった。

これ以降、労働組合の組織率は下降し、現在では一七%となっている。

公務員の事業部門を中心として、「業務請負」形式の労働者供給事業がすすめられている時期に、公務員労働者はこの成り行きに無関心であった。これを見た中曽根内閣は、1986年労働者派遣法を通し、労働者が企業内本工労働者組合にとどまり、公務員も正規雇用公務員の特権的利害に固執して、派遣労働について、それが労働者の分断支配の方策であるという側面を見逃したのである。まさに資本側につけこまれた失策であった。派遣労働法は撤廃されねばならない。

この3度にわたる敗北は、多くの教訓を残している。

産業別労働組合の必要性、現役予備役を貫く団結の重要性、したっがて、外国人労働者、派遣労働者、パート・アルバイト労働者、正規雇用労働者を貫く労働組合の必要性が浮かんでくる。

三六協定さえ知らない労働者が多い現状で、新入社員研修という名の恫喝、「組合に入るということは会社と敵対的になるという構えなのか」と脅しをかけて屈服を強いるような企業が多い。権力に従順に従うことが処世術であると教育課程で仕込まれて育った若者は、同調圧力に弱く、権利を主張することに慣れていない。若者の組合離れを挽回する方途が必要である。

5階級形成過程について

階級形成論の出発は、階級という規定以前的な現存から始まる。

階級として形成される、または階級となるということは、その前があるということである。

賃労働と資本は、労働力商品の売り手と、生産手段を持った資本の側との契約からスタートする。この際、労働者は、一人の個人として、特定の条件のもとに、一定の時間的な拘束の下での労働を売り渡すことを契約する。複数の、または集団の労働力をもって、資本と契約するということはあり得ない。資本の解雇権は個々人に対すものとして成立している。集団的労働力が必要な場合は、下請けという、別の賃労働と資本関係にある企業に業務発注することになる。その場合、労働指揮権は、この下請け企業側にある。元受けが、直接労働指揮権を持っているのではない。

すなわち、資本の契約、指揮、解雇は個々人に対するものである。労働者は、この雇用において、この労働指揮権のもとに、労働力を売る。たとえ、資本の側が、ある集団を編成し、労働者を協業においても、その結合関係は、個々の労働者のものではなく、資本の作り出すものである。そこにまた、資本の意志と管理を上下関係として構造的に組み込む。

資本は可能な限り長時間、強い強度で労働させることがこの拘束においての目標となる。必要労働時間以上に働かせることによって、絶対的相対的剰余価値を形成することが目的であるから、労働時間の延長とともに、さらに向かう方向は、強度を上げることになる。

この構造が持っている特徴は、力関係であるという点である。

可能な限り長時間働かせたいという資本の側と、時間を短縮したいという労働者の側との力関係によって、そして、どちらの側がこれを法制的に縛りとするかという力関係として。

フランス革命の中から、資本の側は、一七八九年にギルドの廃止・営業の自由を決めたアラルド法が生まれ、連続して、一七九一年、「同一の身分および職業の労働者及び職人の集合に関する法令」(ル=シャプリ法)という団結禁止法が作られる。創成期の資本の側は、何より労働者の団結を恐れていた。これは一八二四年まで続く。イギリスにおいては、一七九九年から一八二四年まで、労働者の団結禁止法が施行された。

イギリスにおいては、一八世紀に、産業革命以降、熟練労働者が排斥されることに対抗して、クローズドユニオンが結成され、組合員以外の雇用契約を禁じた。非組合員、渡り労働者から自分たちの特権を守ろうとするエゴイスティックな動機で作らていた。これは、労働条件についての力関係を有利にした。労働組合の力をそぎ落とそうとした「サッチャー改革」によって、一九九二年に禁止された。日本には、クローズドショップ制は存在しない。似たような、労働供給組合があるが、これは労働供給であって、クローズドショップ制ではない。

労働組合による労働供給事業は、供給先が雇用及び労働指揮権を持つ。しかし、この組合は、事業主とは認定されていないので、保険等の適用ができない。一九九九年の派遣法に改定により、労組の労働供給を派遣事業体に行い、その下で雇用関係を作り、そして労働派遣するという「供給・派遣」方式が作られた。これは、労組が同時に雇用会社となるという、二面性をもつということであり、派遣労働という間接雇用方式に屈服した形である。これを、派遣会社を作るのは株式会社という方法を利用した協同組合であると意味付与するのは無理がある。

この労働組合による労働供給も、事業主として、保険適用が行えるように法整備することが運動の課題となっている。

そもそも、派遣法は、派遣会社における雇用関係が、労使関係として成立していないこと、派遣先において団体交渉権がないことをあげても、この間接雇用が、労働者の既得権を奪い去った劣悪なものである。派遣法を、間接雇用反対という面からも廃止するべきである。

資本の欲望は、当初は、絶対的剰余価値追求であったから、労働時間の延長と低賃金での酷使を追求する。これに対抗するものとして、労働者の結合した組織が生まれる。そして、法制的にも労働組合の権利が保障されることになる。

相対的剰余価値の追求は、結果として労働の不断の排斥と低賃金化をもたらす。資本が拡大する時期はこの排斥と新たな吸収が同時的に発生するが、資本の拡大再生産が止まると、排斥と低賃金労働者群の拡大となって低所得層労働者が蓄積される。競争が激しくなり、環境は一層劣悪になる。

企業内組合は資本の解雇権に逆らえなくなり、むしろ資本と一体になって首切り合理化に歩調を合わせ弱体化する。放り出された労働者は、正規雇用の口を見出せず、派遣会社に雇用を求め、労働指揮権を持つ資本の下に派遣される。雇用関係のない労働者に対する労働指揮権は、不可避的に過酷なものとなる。派遣労働者の産業別及び地域の労働組合が必要である。部分的にしか進んでいないのが現状である。

首のつながった正社員は、少ない人数でより多くの作業量を業務命令で与えられ、長時間労働による疲労で病気になるか過労死に追い込まれる。作業は競争となり、他人より作業が遅いとそれは怠慢であると、残業手当も出さないという具合である。

労働者の団結の組織とは名ばかりの組合も多い。資本との癒着は、企業内組合の場合多く見られる。組合幹部を篭絡することは簡単である。

ユニオンショップを根拠としても、組合を抜けることを理由に解雇することはできないのであるから、別の戦う組合に加盟することで、御用組合の縛りを越えて新たな団結を築くことが道である。既成の労働組合を別の組合で、または内部からの変革グループの組織化によって変えてゆかねばならない。

労働者の力を発揮するには、産業別組合、地域結合型組合が求められる。正規非正規を問わず、賃金労働者の団結した組織として組合を再生することが急務である。

ILO(国際労働機関)の労働組合規定

ILO(国際労働機関)は、一九四四年のフィラデルフィア宣言で「労働は商品ではない」と明記した。

ILO憲章の付属文書「国際労働機関の目的に関する宣言」( フィラデルフィア宣言)の第1節において「総会は,この機関の基礎となっている根本原則,特につぎのことを再確認する」とし、その第1項目に「労働は商品 ではない」という文章を載せている。「再確認」というのは一九一九年のベルサイユ平和条約第13編の第427条に掲げられた国際労働憲章を再度確認するとしている。

 ベルサイユ条約第427条の第1原則の文章は、「労働は単に商品または取引の目的物とみなされてはなら ない」(labor should not be regarded merely as a commodity or article of commerce)というものである。

ここには、違いがある。ベルサイユ条約においては、「単に」という文言が付けられている。

すなわち、商品であるが、単に商品ではない、商品であるが、非商品である、となっている。

工場法や労働法が、苛烈を極めた資本の強制労働に対して、労働者の生活の保障が体制の安定に必要であるというところから生まれてきた。労働力は、再生産される必要があるという単純な事が、社会的に制度化される必要が生まれた。個々の資本家は、可能な限り搾取することに猛進するのであるが、労働力は人間の日々の生活においてしか再生産されないのであるから、しかも、長期的には、現在の労働力に変わる新しい労働力が生まれなくてはならないのであるから、資本の側も、個々の欲望を押さえて、全体的な長期的かつ体制安定への普遍的利害へと動くことになる。

「労働力は商品である」ということと、「労働力は人間の精神的肉体的諸能力である。」ということは、資本主義の賃労働の二つの規定である。

資本主義的生産が価値増殖過程であると同時に社会的生産過程でもある。後者を、前者が覆い尽くしているということ、そして、前者が後者を発展的に拡大してきたということ、それはより深刻な疎外を生みだすことによってのみ進んできたということ、賃労働が、価値形成の一般的抽象的労働であると同時に、具体的有用労働であること、この二重性は、労働者にとっては、一般的価値としての貨幣と労働力の交換、貨幣による諸商品の消費による労働力の再生産の生活として、生産と社会とのかかわりとなる。

「労働は商品ではない」という規定は、「労働力は商品である」が、物としての商品とは異なり、人間の諸力であるという重要な性格があるということ、「労働者は商品ではない」ということが込められている。

賃労働と資本の契約関係としては、一定時間の労働力を賃金と交換するという契約に過ぎない。

たしかに、労働力を商品として売買している。

しかし、生産過程においては、労働者は、資本の労働指揮権と監視によって、人格的にも資本の下に隷属しているのである。

しかも、その隷属の根拠は、労働者が生産手段をもっていないということに、生産手段に合体されて、または、営業や開発等の労働も資本の価値増殖のためにのみ生産的である労働であるということから、それは、すでに契約以前的に労働の側が劣勢に立たされているからである。

資本主義的生産過程が発達すればするほど、その外では、個々の労働者はますます全く無力なものとされている。ILO宣言は、搾取を容認し、生産過程における労働指揮権、監督権を容認しての労働者の保護!に過ぎない。

それにしても、このILOの派遣労働についての勧告さえも無視する日本の政府は、労働者を甘く見ているからであり、労働者は力負けしているからである。

われわれは、このILOの宣言について、次のように規定し直さねばならない。

「賃労働は搾取である」「賃労働は、資本の下への隷属である」と。

7分断を越えた労働組合へ

労働者は団結することが力であり、そのことによって、個々ばらばらに分断支配され、個々ばらばらに解雇されることを阻止することが可能となる。

労働者の団結の歴史は、同時に、資本の側からの団結の切り崩し、または取り込みの攻撃との攻防の歴史でもある。

今日、日本の労働組合の組織率が十七%と低迷している。

多くの若者は偏差値教育といじめ社会のなかで、競争と自己保身に取り込まれ、すべてを競争とその結果として忍従するという世界観に陥っている。学校の中でも、個々人の容姿や人格にランキングをつけ、一人一人の個性を個性として尊重するという倫理性を失い、身近な実社会にヘイラルヒーを暗黙の裡に形成することが普通になる。勝ち組、負け組という処世観がはびこり、あらゆる不正に対しても、勝てば官軍方式で、倫理的反応をしなくなる。事なかれ主義の集団圧力に弱い、自主性や主体性のない大人が出来上がる。出世競争にあけくれ、他人を蹴落とし、嘘にまみれてのみ生き残れるような社会が出来上がる。この倫理性を失うことは、貨幣を神として頭上に頂いた人間の罰として、重くのしかかっているのである。

労働組合が、このような若者にとって、意味あるものとなっていないのが現状である。組合にかかわるということは、会社に立て付くということだ、出世を放棄するのだな、などと脅され囲い込まれる。教育課程において、今日の労働の性格、労働法、労働組合の必要性など、一切教えないし、ましてや、資本主義が搾取によって成立しているという根本的なことも教えない。むしろ、ベルリンの壁の崩壊によって社会主義が滅び、自由主義社会が勝利した、と教えるのであるから、資本主義は善であると刷り込まれる。いかに迎合するかしか選択肢はないかのように教えこまれて就職戦争に駆り出される。社会に出るということはすなわち賃銀奴隷になるということ、他の選択肢は、ヒキモリ、これでは子どもたちの目の前にあるのは絶望的な社会である。

だが、このような時代であればこそ、批判精神も発達する。アメリカの学生の半数は資本主義に批判的であり、社会主義に対して頭から否定的でもない。もっとも、サンダースの民主的社会主義論のように社会主義の内容が問われるのだが、それは今は問わないとして。フランスの若者は、資本家政府に対して抗議デモを継続的に続けている。日本でも、高校生、大学生の活動が活発になっている。

批判精神が高まる時代は、すなわち思想闘争の重要性が高くなっている時代である。

労働組合運動の前進にとって、今問われているのは、新たな労働者の党の推進力である。

資本主義を前提として搾取の結果でしかないいわゆる「格差」を是正するという修正主義的発想や、経済成長至上主義のままで、「社会的公正」を掲げるリベラル派は、資本の下への隷属を容認し、「セーフティーネット」のみ気にするという、力の入らない救済者でしかない。日本共産党も「反米反独占」から福祉国家論へと転換して、改良の党になっている。

資本主義の黄昏の時代においては資本主義的生産そのものを転覆する党のみが、労働者の団結の発展的性格を推し進めることができる。改良、修正の党派は、必ずある段階において、制限の党として現れる。労働組合は、改良的民主的運動である、とか、社会主義は政党のあつかう領域であるとか、サンジカ反対とか、さまざまな理由をつけて桎梏として現れる。

我々は、六〇年安保闘争、三池闘争を以来、反合理化闘争を戦ってきた。これは、現場においては直接に「職制」との抗争を伴う、資本の指揮権、監督権に対する真っ向からの闘争であった。これに対して、「はみ出し反対」「サンジカ反対」と敵対してきたのが革マルである。

国鉄闘争は、革マルの裏切りと敵対を全労働者の前に明確な形でさらけ出した。

我々の組織が、一部の裏切りによって分裂して、組織的再生に苦労することになり、低迷している現実がある。この失敗を総括して、再生することは、これまでの労働者の戦いの経験を階級全体の意義のある蓄積として突き出す作業でもあると考える。

 

Vマルクス労働組合論の再評価

1マルクスの諸規定

マルクスの労働組合についての考えをまず見てみよう。

マルクスは組合の役割に関して次のように述べる。

「大産業がたがいに一面識もない多数の人間を一箇所によせあつめる。競争が、彼らの利害関係をまちまちにする。しかし賃金の維持が、主人たちに対抗して彼らがもつこの共通利害が、反抗という同一の考えで、彼らを結合させる、――これが団結である。だから、団結は、つねに一つの二重目的、すなわちなかま同士の競争を中止させ、もって資本家にたいする全般的闘争をなしうるようにするという目的を持つ。たとえ最初の闘争目的が賃金の維持にすぎなかったにしても、つぎに資本家のほうが抑圧という同一の考えで結合するにつれて、最初は孤立していた諸団体が集団を形成する。そして、つねに結合している資本に直面して、組合の維持のほうが彼らにとって賃金の維持よりも重要になる。……この闘争――正真正銘の内乱――においてこそ、きたるべき戦闘に必要ないっさいの要素が結合し発展する。ひとたびこの程度に達するやいなや、組合は政治的性格をおびるようになる」(「哲学の貧困」)。

マルクスは、階級的団結を保障し発展させるものとして労働組合=「労働者たちと企業家たちとの闘争において労働者たちの城砦の用をなす恒久的団結」(同)の意義を強調している。

ここでは、競争を中止するということと、資本家に対する全般的闘争ということが団結の二重の目的として上がられている。さらに、敵の結合に対してお互いに結合して横の広がりをもつように発展する。資本の側が常に結合していることに対する自分たちの組織の維持がそれ自体重要となる。階級対階級の対峙関係が生まれると政治的性格を持つようになる。

ここで重要なことは、経済的闘争、組合破壊に対する闘争の中から、諸要素が発展するとしていることである。政治闘争の規定は、階級対階級の闘争として規定される。

マルクスは「政治運動」概念を次のように説明している。

「労働者階級の政治運動は、もちろん労働者階級のための政治権力の奪取を最終目的としてもっており、そのためにはもちろん、ある程度まで発達した、労働者階級の事前の組織が必要で、そしてその組織は彼らの経済闘争のなかからおのずと旨い育ってきます。しかし他方,労働者階級が階級として支配階級に対抗し、そとからの圧力によってこれに強制を加えようとする運動は、すべて政治運動です。たとえば、個々の工場なり個々の組合でストライキ等によって、個々の資本家から労働時間の制限をかちとろうとする試みは、純粋に経済的な運動です。これにたいし、時間労働法等の法律をかちとるための運動は政治運動です。そしてこのようにして、いたるところで労働者の個々ばらばらな経済的な運動のなかからひとつの政治運動、すなわち、彼らの要求を一般的な形で、つまり、一般的で,社会的に強制力をもつ形で貫徹するための階級の運動が生まれてくるのです。」(「マルクスのボルテ宛一八七一年十一月二三日付書簡」)

経済的闘争から政治的闘争への発展は、同時に、労働組合の団結が、結合し、共通のリガを打ち立てて行動するという団結の質と組織の発展と一つのものとなっているのである。

マルクスは、第一インターの結成にあたって、「労働組合 その過去・現在・未来」という論文を発表している。

この論文について、レーニン主義者は、組合と政党の混乱がある、とか、組合運動と社会主義運動の混同があるとか、多種の批判がある。

たしかに、レーニン主義者から見れば、理解できない内容となっている。そして、自分達の理論的な過ちに気が付かないまま、これはマルクスが間違っていると決めつける。

この論文は、労働者の団結の質についての、その発展について展開しているものである。

しかも、情勢の変化の中で、安定期的な時期における組合の在り方、激動期における組合の在り方、革命に向けての組合の在り方はそれぞれ変化するものとなるであろうということ、さらに、労働者の階級形成にとって、どのような質が要請されるのかという課題についても示唆的である。

ただ問題は、組合と労働者の党と革命評議会=ソヴィエトとの相互関係についての整理が必要であること、これである。

その過去。

「最初、労働組合は,この競争をなくすか、すくなくとも制限して、せめて単なる奴隷よりはましな状態に労働者を引き上げるような契約条件を闘いとろうという労働者の自然発生的な試みから生まれた。だから、労働組合の当面の目的は、日常の必要をみたすこと、資本のたえまない侵害を防止する手段となることに限られていた。一言でいえば、賃金と労働時間の問題に限られていた。労働組合のこのような活動は、正当であるばかりか必要でもある。現在の生産制度がつづくかぎりこの活動なしにすますことはできない。反対に、この活動はあらゆる国に労働組合を結成し、それを結合することによって普遍化されなければならない。他方では、労働組合はみずからそれと自覚せずに、労働者階級の組織化の中心となってきた。それはちょうど中世の都市やコミューンが中間階級(ブルジョアジー)の組織化の中心となったのと同じである。

労働組合は、資本と労働のあいだのゲリラ戦にとって必要であるとすれば、賃労働と資 本支配との制度そのものを廃止するための組織された道具としては、さらにいっそう重

 要である。」

その現在。

「労働組合は、資本にたいする局地的な,当面の闘争にあまりにも没頭しきっていて賃金奴隷制そのものに反対して行動する自分の力をまだ十分に理解していない。このため、労働組合は,一般的な社会運動や政治運動からあまりにも遠ざかっていた。だが最近になって、労働組合は自分の偉大な歴史的使命にいくらか目覚めつつあるようにみえる。それは、たとえば、ギリスの労働組合が近年の政治運動に参加していること、合衆国の労働組合が自分の役割についていっそうひろい見解をいだいていること、さらに最近シェフィールドでひらかれた巨大な労働組合代表者会議が次のような決議をおこなったことからみて、明らかである。

『本会議は,すべての国の労働者を一つの共通の兄弟のきずなで結びつけようとする国際協会の努力を十分に評価し、全労働者の進歩と福祉にとって協会が必要欠くべからざるものであることを確信して,本会議に代表を送った各組合に,国際協会への加盟を心から勧告する。』」

その未来。

「いまや労働組合は、その当初の目的以外に、労働者階級の完全な解放という広大な目的のために、労働者階級の組織化の中心として意識的に行動することを学ばなければならない。労働組合は、この方向をめざすあらゆる社会運動と政治運動を支援しなければならない。みずから全労働者階級の戦士,代表者をもって自認し、そうしたものとして行動している労働組合は,非組合員を組合に参加させることを怠ることはできない。

労働組合は,異常に不利な環境のために無力化されている農業労働者のような、賃金の 最も低い業種の労働者の利益を細心にはからなければならない。労働組合の努力は狭い、

利己的なものではけっしてなく、ふみにじられた幾百万の大衆の解放を目標とするもの だということを、一般の世人に納得させなければならない。」

マルクスは、労働者の資本の下への隷属と搾取に対抗する労働者の団結として、組合を位置付ける。そして、この資本主義的生産様式の結果のみならず、その原因に遡っての戦いが不可避的であるということを明らかにしている。原因に遡らない限り永遠にこの対立と抗争は終わらない性格のものだからである。

したがて、団結の質は、不断に政治的性格を帯び、また、この対立の本質の洞察により、より根本的解決を目指す新たな団結がその中から生まれる。さらに、この変革の普遍的な歴史的な意味を洞察することにより、さらに理論的結合を強固にした団結が生まれてくる。

これは、団結の中の個々人は、結合によって発展する。団結は新たな結合を生みだす前提であると同時に措定する根拠でもある。より全体的な普遍的な共通利害を理解し、組織的に強固で、より洞察力と判断力をもつ組織は、この団結を基礎として発展する。そして、それがこの団結の中で、断固たる推進力となる。労働者の党の形成である。

労働組合は、その労働組合としての結合の質を、当面する戦いの目的として掲げ、それに規定されている。すなわち、資本主義の発展期においては階級支配を前提としての、賃労働と資本の関係を前提としての諸要求を掲げて戦う。しかし、それは、取りあえず、この関係が大きくは崩れないという情勢における直接的判断であるからであり、生産と社会の諸関係が動揺する時期においては、直接的判断も変化するであろうことは明らかである。

このことは、単に目の前の、直接的な事態に対する運動ということが組合の運動であるということではない。労働者の利害は、賃金と労働時間をめぐる戦いのみならず、賃金奴隷制そのものに反対し、賃労働と資本の支配の廃止をも目的としているとマルクスは述べているのである。

そして、労働者階級の完全な解放という広大な目的のために、労働者階級の組織化の中心にならねばならない、としている。これは、捉え返せば、労働者評議会の中心勢力として登場しなければならないということである。

労働組合は、その設立の意義と目標を掲げて組織として自分自身を規定している。労働者の戦いは、資本の支配の結果のみならず原因へと、制度そのものへと遡る戦いである。「自らの共同による自らの労働の支配を!」というスローガンは、直接的は日々の闘争のスローガンであると同時に、賃労と資本の関係そのものを越えて行くスローガンでもあるのだ。

賃金奴隷制の廃止は、即ち革命のスローガンであるから、労働者の組合の目的ではなく、それは社会主義政党の目的であるから、組合にそのような要素を入れるべきではないという考えは、労働者の解放のための理論ではない。

労働者の現実的共同利害に、賃金奴隷の廃止を入れないという考えは、資本の側の論理である。労働組合は、労働者の現実的共同利害である賃金奴隷制廃止を掲げるべきではなく、もしそれを考えるなら、個々人が政党に入り、そこで革命理論の担い手として活動するべきであるというならば、労働者の団結は、改良的民主的運動に制限し、ただ、前衛党の物理力として、または、単なる自分たちの働きかける対象として、個々人を自分の理論の信奉者として引き抜く畑としてのみ位置付けるということである。

しかし、資本主義的生産とその社会が抱える根本的矛盾の解決への戦いは、多くの犠牲者を出しながら経験してきた階級闘争の総括と意識的な理論的思想的な活動とを同時に深めて、労働者の階級形成の戦いとして推進される。

労働者運動の中から、意識的自覚的の部分が労働者階級の全体的な共同の利害を、戦略戦術として理論武装し、労動者階級を統治能力のある政治的階級へと高める役割を担う推進力として組織するものが、労働者の党である。

本質的にも実践的にも労働者階級の断固たる部分である。

労働組合は、この党を生みだしつつ、この党によって、組合の規定性を越えて団結を前進させることにより、革命評議会の中心となることができる。この評議会を母体として、労働者政府が樹立されねばならない。対外的に政府として国際関係を築く為にも、法制的に株式会社制度を廃止し、土地を共有化するためにも、そして、すべての踏みにじられてきた、虐げられてきた人民の代表として登場しなければならない。

マルクスは、労働者階級が、政治的な階級として成長する必要があるということにとどまらず、革命的階級として成長することが必要であるということを強調している。すなわち、組合以外の労働者に対する態度、農業労働者に対する態度、あらゆる踏みにじられた人々に対する態度、これが階級の団結の質として問われているのだと強調しているのである。

この、労働者の解放が全人民の解放であるということを現実に統治能力として携えて押し上げてゆくのでなければ、事業は成功しないばかりか、この事業の普遍的質をそぎ落とすことにもなるからである。

したがって、単に政治的階級へと成長するのみならず、革命的階級へとその質を高めつつ前進しなければならないのである。

階級形成論は、この経済的運動から始まる団結から政治的全体性を獲得する政治的階級

へ、さらに革命的階級へと高まる論理である。

だからこそ、マルクスの「転覆の党」から「革命の党」への成長ということばが、この階級形成論において輝いて、我々に示唆的となるのである。

共産主義者は、この全過程を、この全組織的発展過程を断固として推進する部分である。

共産主義は、「自らの共同による自らの労働の支配を!」というスローガンの先にのみ開ける生産と社会の新たな世界なのだから。

 

W階級形成論と組織論の統一

1行動委員会の中からの党

われわれは、党の建設について、「行動員会と分派闘争の名からの党」という路線を取ってきた。

60年代における総評・社会党の、組合と政党の関係は産別労働組合と地評が、議会主義政党の選挙運動母体となる形をしており、労働組合の活動家が党および青年同盟に所属して組合運動を執行部として進めると同時に地域選挙運動を進めるという形をしていた。

われわれの階級形成と党建設の方針は、この現状を繰り返し変革しつつ、自立した新たな戦う団結を形成しつつ党建設を進めるにという観点からみるならば、行動員会において組合を作り替え、その力を青年同盟、および党へと突き出す形で極めて有効な組織であった。

七〇年安保闘争を前に、この分派闘争を公然たる分派闘争へと推し進めるべく、革命的労働者協会(社会党。社青同解放派)を結成した。公然とすることにより、あらたな労働者の党建設の必要性とその推進的中軸として大衆に明かにして進むことが、展望を示すことでもあるという判断であった。

社会党の「革労協パージ」が、中国派を含めた左派狩りとして展開され、われわれの一部は公然と外へ、そして残りは再び全国的に隠然とという二重戦術となった。

総評が連合へと転換し、社会党が民主党と変わり、それまでのいわば「戦闘的社会民主主義」が崩壊する中で、我々は、独自の新たな組織戦術を採らねばならなくなった。

そして、組織内部からの崩壊が時を同じくして進み、大きく後退した。

そして今、あらたに戦う労働者諸君に、階級形成の重要性と、労働者の党の建設を訴えるにあたって、再度、「行動委員会の中から党」、「労働組合の階級的革命的つくりかえの中からの党の建設」という組織戦術の重要性を訴えたい。また、これ以外の道はない。

行動委員会は、学習会や研究会のかたちから、労働者会議という形まで多様な形態をとる。

自立した活動家集団として、組合の中に、または組合のないところにおいて自主的に作られる組織である。その基本性格は、資本のもとへの隷属に抗し、「自らの共同による自らの労働の支配を!」というスローガンを共有し、資本のあらゆる不正と抑圧と侵害に対抗する人間的結合である。

これまでの労働者の学習会や理論研究会は、いわゆる「労働運動と社会主義の結合」

という考え方をベースにして、個々人の立場を変えるという性格になっている。資本の搾取と支配についての学習という、当面する戦いの理論的武装の為の学習もあるが、それは、労働運動のための学習という性格に規定されている。

われわれは、団結の質の発展こそが大切であるという考えである。大切なのは相互討論であり、相互の確認内容の広がりと深まりである。したがて、理論的一致が必要であり、したがって学習や理論研究が必要となる。団結それ自体の覚醒と発展が推進される討論と、学習なのである。すなわち、自分たち自身の共通の確認の内容の理論化が必要なのであって、個々人が見せかけの理論に屈服して、何者かになったような気がするという種類の理論研究なのではないということである。団結体が理論の武器を持つということである。

党が階級形成の推進力となるためには、党そのものが、戦いの全過程を照らしだす理論的一致を不断に深めることが大切である。当然にも党においても、理論研究は大切である。

2統治能力を持つ党へ

党は、階級の党として、労働者政府の樹立を目的とする。そのことは、当然にも、統治能力の内容的質を明確な形で持つということでもある。労働者政府は、生産態であると同時に統治態でもあるという独特の性格をもつものとなる。

「自らの共同による自らの労働の支配」という共同生産を目指す労働者評議会=ソヴィエトの政治支配であるからである。

これまでの政府は、労働者を資本のもとに隷属させ、社会的に支配して、市民社会の外に置きながら、私有財産秩序の上に立つ市民社会に含み込むことによって、議会制民主主義と内閣制を作り出している。国家権力は、市民社会の公的総括としてそびえたつ。

労働者政府は、資本家階級の政府を倒すだけではなく、国家権力をも倒さなくてはならないし、既存の諸組織を掣肘しなくてはならない。

革命的階級形成の段階においては、この統治能力の質的獲得が重要なこととなる。したがって、党は先行的にその質を獲得しなければならない。

統治能力の獲得ということは、同時に次のような団結の質として問われる。

労働組合論のところで浮かび上がった、労働者階級はあらゆる虐げられている人民の代表として戦わなくてはならないという任務である。あらゆる差別、迫害にたいして戦い、解決能力を開示することは、統治能力の重要な一つの側面である。この質がなければ、新たな社会の推進力たり得ないものとして、全人民の支持を得ることはないであろう。

宗教的疎外は、その発生の根拠に遡る解決抜きには解消しないものである。あらたな生産と社会が、この疎外を克服する道を持ちえないならば、それは真に新たな歴史の幕開けではないということを意味することになる。

2真の共産主義的前衛組織の建設へ

階級形成の推進のためには、党の建設が必要であるということは、取りも直さず、党の建設には共産主義的前衛の力が必要であるということでもある。

レーニン主義がスターリン主義の元凶であるということは、相当浸透してきている。しかし、マルクス・レーニン主義者は、マルクス主義をも一緒に捨て去るという誤りを犯している。レーニン主義に対する根本的批判の欠如の結果でもあるが、何より、自分の頭で考えることを放棄して、他人の頭を介して何かをつかもうとするような、知的依存に陥っているインテリゲンチャが多すぎることも根本問題である。日本の理論戦線の程度の低さは、哲学の批判を媒介とする新たな史的唯物論、あらたな弁証法的唯物論としてのマルククス主義を十分理解しえていないところに原因がある。

積極的人間主義であり理性的人間主義であるマルクス主義の復権こそ、マルスス主義共産主義者の使命である。

思想闘争、理論戦線における戦いは、共産主義者を必要としている。共産主義者の独立した組織の形成は、その結合の内容が理論的にも厳密な一致が必要であることから、困難な事柄である。

理論的な事柄について、ここで実践的理論と理性的理論とに分けて考えてみるならば、共産主義的組織は、前者のみならず、後者についての一致が必要となる。少なくとも、根本的な原則についての理論的一致が必要となる。党は、実践的理論の一致と、後者への努力ということで十分であり、また、共産主義者の不断の形成は、党を中心から強固な物にしてゆくであろう。

共産主義者の、結合の中から生まれるものであり、また、結合なしには生まれないものである。理性的理論活動は、実践的理論活動を根拠とてのみ発展するのであるから、結合した眼、結合した思惟においてのみ発展するし、また理論の主観性を打破できるのである。

前衛党という組織形態は、共産主義理論を薄めて大衆的な党としたり、厳密な一致を求めて、小数の厳格な党にしたり、不断にぶれを生み出すのは、労働者党と共産主義者の組織体の区別と同一性を十分理解していないことから起きる。

たしかにレーニンも労働者をどしどし党に入れるべきである、という方針を掲げる時期がある。しかし、この場合、労働者は理論家として入党するということになっている。実践的には一滴の社会民主主義的要素もないとし、革命の理論と結びついて初めて革命的となるとしているのであるから、実は薄めた拡大となる。そうすると、薄まった党にしないためには、組織の中央部を不動の、下からは変えることのできないものとして規定することが必要となる。したがって、党の内部に独裁が生まれることになる。実践的理論と理性的理論に切断があるレーニン主義は、不可避的に前衛と党を一つの物としたがると同時に、この誤りから、また不可避的に組織内部での独裁が発生するのである。

レーニン主義批判の延長に、前衛の否定ということが安易に導かれる場合があるが、これは、前衛が真理なるものを掲げて、または革命理論を掲げて自己絶対化する傾向に対する批判として生まれる。しかし、端に相対化するだけで解決しようとする誤りである。そして、共産主義的指導の放棄であり、あらゆる理論の力の放棄へと向かうだけである。

レーニン主義の根本に迫る総括抜きに安易にレーニン主義を批判すると、自分自身を損なっていくことになる典型である。

労働者の党は、大胆に多数の党として築きあげられねばならない。共産主義者の組織体は厳密な理論的一致によって推進されねばならない。

階級的団結と共産主義者の結合の区別と同一性を踏まえた組織論こそ、前衛党ではなく、前衛と党の分離であり、かつ内在性の理論なのである。

我々は、一九六〇年の「安保と三池」の中から、「革命的マルクス主義の旗を奪還せよ!」(「解放NO.6」)というスローガンを掲げて登場した。

いままた、再び、「革命的マルクス主義の旗を奪還せよ!」と呼びかけるものである。

 

                                                             

付記

本論を補完するために、次の三論文を付け加えました。難解な文章を含みますが、本文の内容を理解していただいて、更にその掘り下げという位置付けで読んでいただける幸いです。

Tルカーチ「階級意識論」批判 

U概念的把握とはなにか 

Vマルクスの疎外論と物象化論の相互関係について

 

Tルカーチ「階級意識論」批判

 

1レーニン主義組織論の理論的補強の失敗作

ルカーチの『階級意識論』は、一九二三年ハンガリーの革命政権の崩壊以降、その反省をも含めて執筆されている。ハンガリーの急進サンディカ運動の限界を、労働者の階級形成・党建設の不十分性という方向へ向かうのではなく、労働者の運動に対する、共産党の指導の必要性という方向へと克服せんとしている。

スターリンは、「レーニン主義の基礎」において、レーニン主義こそ現代のマルクス主義であり、マルクス主義は科学であると断言した。すなわち、共産党は、科学に導かれている党である、何人も疑いを入れる余地のない正しい指導部である、と。

理論問題として、経済学、社会学、歴史学を論ずることと、戦略・戦術内容を論ずることを混同するばかりか、レーニンの主張をすべて科学であると規定することによって、共産党が科学に導かれているとしている。明らかな権威づけであり、レーニンの神格化である。科学であるとすることにより、自分たちの主張を、絶対に否定されるべきではないものへと高めたのである。

ルカーチは共産党について、「経済的な全状態の正しい理解、つまりプロレタリアートの正しい階級意識―と、その組織形態である共産党」(『階級意識論』八四頁)と規定する。この「正しい階級意識」は、史的唯物論によるとする。スターリンとの違いは、レーニンの内容は科学なのだから従え、という乱暴なものではなく、労働者の正しい意識を代表するのだとしているところにある。

さらに、レーニンが、当時のロシアの革命的インテリゲンチャの先進性を強調する論調の延長に、社会民主主義的意識(共産主義的意識のこと)は、インテリゲンチャの中から出てきたものであり、労働者の中から出てきたのではないと、理論家の指導、革命理論の党の指導に従えとしたことに対して、労働者がなぜ党の指導を受けるべきなのか?という問いに対して答えようとしている姿勢がある。

すなわち、スターリンもレーニンも、一方的に党の正しさや無謬性を主張し、労働者には、一滴の革命性がないのだ、とする高圧的支配的姿勢に対して、労働者が、なぜ共産党の指導を必要とするのか、受け入れるべきなのか、ということを示そうとしているのである。ハンガリーの敗北の総括から、前衛的指導部の必要性を痛感する思いと、スターリン、レーニンの理論の粗暴さを、マルクス主義に返して補完する狙いがあったのであろう。

(上)において、レーニン主義、およびそれを根拠とするスターリン主義の組織論の根底に、レーニンの社会民主主義論の外部規定、および、スターリンによるマルクス・レーニン主義なる独特の理論を作り上げて教条化する過程があることを明らかにしてきた。そしてこのような教条的理論を背景に、共産党が革命理論の担い手として、労働者大衆の上に君臨する構造となっていることを示した。さらに、労働者に対しては、「自然発生性との対決」という名の、専制的支配権力として登場することになることを示した。

このような理論にとっては、実は階級形成という理論課題は成立しない。労働者委員会、労働者評議会を評価するが、その政治的ヘゲモニーを簒奪すること、そして、支配に転じることしか興味がない。労働者の結合が、生産態であると同時に統治態であるという独特の性格を持つべきであるというマルクス主義の基底的原則の否定の上に、党の統治権力がそびえる構造である。

このレーニン、スターリンの外的な理論とその担い手という理論構造に対して、労働者の階級意識に着目して、真の階級意識という考えを示したのがハンガリー生まれのルカーチであった。それまでの教条主義的なマルクス主義理解に対して、「階級意識の客観的理論は、階級意識の客観的可能性の理論」という考え方を示した。しばしば日本でも注目を浴びた。

それは、労働者の目の前の直接的な要求を「心理的意識」として、「物象化された意識」ととらえ、これに対して、物象化を超えた人間的世界を求める意識を「真の階級意識」とし、その間を、「客観的可能性」という言葉でつないだものである。日本でも、ソ連におけるスターリン批判以降、教条主義批判という観点から、ルカーチの初期論文が注目されるようになった。

ルカーチの物象化論は、外化に注目する物象化論と、人間性の回復の面に重点を置く疎外論に分離されて理解された。しかし、このルカーチ物象化論そのものが、実は、物象化が、人間の物象化とされ、かつ、疎外論が人間なるものの本質の回復というものであるがゆえに、実は一つのものである。物象化の理解そのものが、マルクス主義からの離反であったことが問題である。

結論から言うならば、レーニンの「社会民主主義論の外部規定」を、「物象化された意識」という標語によって焼き直しただけの補完物以上でも以下でもないものとなっている。

我々の階級形成論は、階級意識形成論ではない。我々の階級形成論においては、実践と認識の統一という性格を持つ。階級形成論が認識論を含むということは、階級主体の発展を明らかにする理論であるから当然のことなのである。階級意識論というテーマの立て方そのものが、労働者階級にたいして、外的なかかわり、外的な規定を行う立場を表明しているのである。

『階級意識論』は、物象化を論拠に、労働者の階級意識の曇りを説明しようとしている。

しかし、このルカーチの物象化論の誤りをそのまま踏襲する人が多い。自分の頭でものを考えることができない剽窃学者や、レーニン主義に無批判な偽物のマルクス主義者が、物象化論を歪めてきた。

マルクスは、物象化を歴史的社会的な事象としている。その本質を、「服属」と「依存」としている。また、単に人間主義的な抽象的疎外を語っているのでもない。そうした理解からは、人間としての自覚に目覚めよという啓蒙主義と主意主義的な主観主義が生まれるだけである。

マルクスは物象化を歴史的社会的発展過程の中で、人間の営みとして分析しているのである。その根底には、生産諸関係と社会的過程との、相互前提的・相互規定的関係を基礎とする歴史把握があるからである。この中で、常に社会的主体において叙述するという理論性格を持っている。

一部の誤解した解釈のような客観主義的な認識論として展開しているのでもない。あたかも、現象と本質、虚像と実像のごとく、物と人間の関係として論ずる物象化論は、「ルカーチ物象化論」としては正しくても、マルクス主義の物象化論ではない。

マルクスが『資本論』の中で、物象化の本質を「服属」と「依存」と規定するその理論的姿勢は、社会的主体を理論の主体とするマルクスの根本姿勢から出てくるものである。客観主義者でしかない多くの学者にはこのことがつかめない。従って、ルカーチの誤れる物象化論をそのままマルクス主義の理論のように口移しにすることが多い。これまでの日本のマルクス主義における疎外論、物象化論の混迷に終止符を打ちたい。

社会的主体を理論の基礎の据えることのない宙に浮いた理論は、マルクス主義を歪曲し続けてきたのであって、その批判ではなく、その廃棄こそがマルクス主義の今後の発展に必要なことだと思う。

我々の階級形成論を、多くの人が階級意識形成論なのだろうと誤解する向きがあるが、それは、理論家の立場から、労働者を高めるまたは啓蒙するという視点において、別の表現をするならば、個々の個人の意識の向上という観点から階級形成を考えるからである。我々の階級形成論は、結合の質の発展を中心テーマとしてる。人間は、結合の中でこそ個々人の発展もあるのであり、結合された目を持つのである。共産主義運動において、理論的意識は実践的意識の理論化されたもの以上でも以下でもないのであって、現実的に再措定されない理論は真理ではない。死んだ宙に浮かぶ真理なるものにしがみつき、それに他人を高めるという態度は日々生命力をうしない、空しいものとなってゆくであろう。

その意味で、すでにはるか古い、もう手に取って読む機会もないと思われるルカーチの「階級意識論」を俎上に挙げて批判し、階級形成論と階級意識論との決定的な違い、誤れる疎外論の欠点について明らかにすることは、今日的にも意味のある事と考える。

2ルカーチ『階級意識論』の特徴

『階級意識論』は、一九二三年に出された「歴史と階級意識」の中に含まれる一論文である。一九一九年にハンガリーの革命政権ができるが、ルーマニア軍の反革命干渉によって崩壊させられる。ルカーチは政権の文部大臣であったが、ウイーンに亡命することになる。この過程で執筆されたものである。

後になって、ルカーチは、情勢の変化、危機の深まりと関係なく、ただ、虚偽の意識を真の意識にかえれば、労働者は革命的になる、という主観主義に陥っていた、と自己批判している。

労働者が、なぜ前衛党の指導を必要とするのか? なぜ従わなければならないのか?なぜ前衛党が必要なのか? 本人の革命の挫折の経験の中から、これらの問いにマルクス主義として回答を出す試みではあった。

この論文の構成は、ブルジョアジー、小ブルジョアジー、プロレタリアートの階級意識の分析と、プロレタリアートの階級意識の弁証法的分裂の分析としている。

この論文の中心になる論点は、「物象化された意識」、「究極の目的と当面する目的の分裂」「前衛等の指導の必要性=労働者階級の自己批判の必要性」の三点にある。

ルカーチは、「真実の意識」と「虚偽の意識」に階級意識を分ける。後者を物象化された意識とする。そして、前者は、階級の究極の目的についての意識であるとする。

ここから出発して、階級意識の全過程を、「弁証法的」という表現で叙述している。結論から言うと、これは弁証法でもなんでもなく、考え出された、考案されたユートピアの実現に向けて、労働者を手段として利用する方便を、労働者の側の「自己批判」の強要と、党への服従の必要性を強調することで信じ込ませようとする主張に過ぎない。すなわち、一方的に普遍が立ち、それに向けて従属的に高められる実在があるという構造であって、弁証法的でもなんでもない。矛盾も否定も措定も反省も再措定もこの二つの意識の間にはないのである。不動の固定された空疎な普遍、ただひたすら不十分性を自己批判すべきという存在があるだけである。

その論拠としての物象化を、そして、その究極的目的としての物象化批判を、根拠付けとして展開している。

3ルカーチ物象化論

 以下、引用は、『階級意識論』未来社 平井俊彦訳 一九五五年発行 による。

 マルクスの「歴史的批判とは、経済的・社会的な生活の物象化した対象的なもの全体を、人間の間の関係の中へ解消させるといことである。」「社会的構成体とその歴史的運動がもつ、人間とは無縁な物象性をこのように止揚すると、その物象性はその根拠につまり人間と人間の関係に、還元されるからである。」(一八頁)

 ここでは、二つの誤りを指摘するにとどめる。

 「人間とは無縁な」という理解は誤りである。人間の営みの中に物象化は存在しているのである。さらに、物象化は、人間と人間の関係に解消されたり還元されるのではない。共同的社会の意識的協働によって、商品交換を必要とする自然発生的分業の結果としての物象化が解消されるのであって、原因と結果についての理解がない。マルクスは、商品交換が物と物との関係のように幻影すること、商品、および商品の延長にある貨幣、さらにその延長にある資本について、人間の社会的関係が疎外したものであることを明らかにしたのであって、物象化世界と人間の世界を二つに分けて論じているのではない。人間の営みの中にある呪物的な側面をあきらかにしたのであって、疎外の中で、疎外のもとに人間の歴史は発展してきたというのがマルクスの歴史のとらえ方なのである。

「『自由の王国』、つまり『人類の前史』の終焉が意味するのは、まさに、人間相互の対象化された関係すなわち物象化が力を失い、人間はそこから解放されはじめるのだという、ということである。」(六九頁)

ルカーチの考える「究極的目的」はここに述べてある。人間なるものの物象化からの解放である。

マルクスは、労働者の究極的目的について、「賃金、価格および利潤」のなかで、「労働者階級の究極の解放、すなわち賃金労働の究極的廃止」と述べている。ルカーチの究極は、その解決するべきことが物象化という怪物のようなものとされていること、目指すものが人間なるもののユートピアでしかないこと、小ブル社会主義の残念なところである。

ルカーチの労働者観は、次のようになっている。

「プロレタリアートは資本主義の産物であるから、かれらは必然的に自分を生み出したもののとる定在形態に従わなければならない。この定在形態とは非人間的姿であり、物象化されたものである。」(八六頁)

個々の労働者そのものが物象化されているとしている。

さらに「物象化された意識というものは、粗雑な経験主義と抽象的な空想主義という両極の中に、一様にそして同じくのぞみなく閉じ込められている。」と、意識の物象化を語る。

ここまでくると、ルカーチの物象化というのは、本来のマルクスの物象化論を超えて、あたかも何か魔法使いが、人間を石でできた動くものに変えたような意味合いとなってくる。

労働者は、物象諸関係に支配され、強制的に依存させられ、そして、それをあたかも不可避的な永遠の形態のように理念的にも現実的生活においても強要されているのであって、そこに立っている労働者そのものが物象化されているのではない。むしろ、資本のもとで労働する物象的諸関係が、敵対的な姿で、現実的に立ち向かうべきものとして眼前にあるのである。

ソヴィエトについて「労働者委員会は資本主義的神秘化を政治的経済的に克服するものだからである。」(別訳「労働者評議会 は、資本主義的物象化を政治的・経済的に克服するものだからである」)(九六頁)と規定する。

ルカーチ的な意味付与に過ぎないのだが、この段階において、「直接的利害と究極目的との弁証法的分裂を融和するにあずかるという使命をば、支配をめぐる闘争の中で果たすのである。」(九六頁)とする。そして、「もっとも革命的な労働者の意識状態そのものとプロレタリアートの真の階級意識との間には距離がある」(九六頁)としている。そして最後の行は「真理のみがプロレタリアートの勝利をもたらすことができ、したがって自己批判がかれらの最も重大な要素でなければならないからである。」(九七頁)で終わる。

真理の側からのプロレタリアートの永続的自己批判の要請が最終行となっている。

「階級意識の客観的理論は、階級意識の客観的可能性の理論」という定式が、ルカーチの階級意識の根本規定である。

一見正しいようにも見えるが、この可能性とは、何と何を繋げているものなのか?

「物象化された意識」と「自由の王国」とを繋げている。「自由の王国」から見れば、賃金労働者の存在は結果的につながっている。しかし、賃金労働者の戦いが、「自由の王国」へは、可能性としてのみ繋がっているとしている。その媒介、媒辞は物象化とその止揚となっている。

先に見たように、労働者評議会の意義付けにおいて、それは「物象化を政治的経済的に克服する」ものとして、真の階級意識の側から外的に都合良く評価されることになる。

すなわち、この可能性は、外的な規定とその統一の可能性に過ぎない。

この可能性の考え方の最大の欠点は、必然性の理路が欠けていることにある。

内的必然性において明らかにされるべきことが、外的可能性と被されている理論となっている。そして、その外的可能性を判断するのは、ルカーチに頭ということでしかない。

究極的目的とか、真の階級意識とかは、常に現実の労働者の意識の外側にぶら下げられて、それは、別の真の階級意識の権化が握っているということになっている。しかも、抽象的な人間主義のユートピアとして。

「プロレタリアートの正しい階級意識―と、その組織形態である共産党」(八四頁)が、その究極的目的を握っていることになっている。

物象化論から始まった『階級意識論』は、いろいろと回り道をしていたようではあるが、結論は、無知な労働者はひたすら自己批判を繰り返し、レーニン主義、スターリン主義の党の指導に従え、という単純なものとなっている。

4ルカーチの小ブル社会主義的性格

ルカーチの理論的姿勢の根本的誤りは、批判の根拠が人間主義に過ぎないからである。抽象的人間の自由や幸福を発条にして社会批判をするので、あらゆることが歪んでゆくのである。それは当然にも、客観主義となる。物象化は、その社会の中で現実的に活動する人間にとっては、経済的社会的生活の一部なのである。ところがルカーチは、物と物との関係が人間の生活の外にかさぶたのようにできた外的なもののようにとらえている。人間の自然発生的分業のもとでの社会的活動が生み出すものであると同時に、それに規定されるという措定と被規定性の中で生活する社会的主体が欠落しているのである。この客観主義の裏返しは、主観的な素晴らしいものと光り輝く人間なるものをそれに対して対置するのである。そもそもある特定の歴史的社会的段階の人間の営みが物象化を生み出していることに対して、人間の関係を対置すること自体では自家撞着であるが、この時の「人間」は、ルカーチの大好きな「素晴らしい人間」なのだから、彼は何かを解決的に述べたような気になっているのである。すなわちユートピア論であることがわかる。

このような主体認識は、当然にもその視点から物象化を非人間的なものと断罪する姿勢を持ち、そのことを労働者にも当てはめ、そのようなものとして物理力として革命に動員しようとするのである。

自由の王国という観念的目標へのその手段または実現主体は、なにも労働者という特殊性を必要としない。それは人間なるものを目指す理想主義者の集団でよいのであって、プロレタリアートの社会的歴史的存在とは関係ない構造である。ルカーチは、労働者は、非人間的な物象化された存在と規定することで、これに繋げたのである。

すなわち、観念的目標がまずあって、次にプロレタリアートにその目標を外から与え、これこそお前たちの目指すべきものとする構造そのものが小ブル社会主義の特徴である。この目的、目標、計画は、特定の自我において考案されたものに過ぎない。

その自我への動員、その自我の多数性への拡大に過ぎない。

啓蒙主義のルソー主義者やカント主義者は、理想や当為を啓蒙することが社会主義、共産主義だと思い込むが、マルクス主義は、歴史的社会的主体の存在にとっての必然性において、共産主義を明示するのであって、その全過程の内容そのものが、人間の解放過程となるのだということである。共産主義は、現在と切断された理想なのではない。

自由の王国を、歴史的必然性抜きに、単に究極的目標とするというようなことを述べるのは、小ブル社会主義の指標である。日本のマルクス主義者も多かれ少なかれこのようなものである。

このような主張であるから、物象化に対する批判が、抽象的な人間主義になるのは必然である。

物象化が発生している原因の、プロレタリア的解決という視点がそもそもないのであるから、簡単に、人間と人間の関係を対置するのである。そもそも、物象化に人間と人間の関係が対立しているのではないから、空論なのである。

たしかに、ルカーチは、物象化を、人間の社会的関係の疎外として掴んでいる。これは正しい。しかし、その物象化に対する姿勢は、「人間と人間の関係に還元する」こととしている。これは単なる人間主義に過ぎない。疎外のもとでの社会的主体の営みがつかめていないからである。疎外に対する人間の対置という構造は、その延長に空想的社会主義を生み出す。

疎外のもとでの歴史の発展とその逆転という歴史のダイナミズムを見失うことになる。その結果、物象化の否定の内容が、社会的主体が、自由な共同労働を生み出して賃労働と資本の両極を廃棄するというプロレタリア的止揚につながらない。ただ、プロレタリアが、人間主義、空想的計画に手段として動員されるだけである。

では、マルクス主義を語りながら、なぜこのような誤った理解に嵌まっているのだろうか。

 

U 概念的把握とはなにか

1ヘーゲル批判をヘーゲル的主体批判として

マルクスは、承知のごとくヘーゲルについて、批判をしているが、同時に評価をしている。

「ヘーゲルの『精神現象学』とその最終成果とにおいて――運動し産出する原理としての否定性の弁証法において――偉大なるものは、なんといっても、ヘーゲルが人間の自己産出をひとつの過程としてとらえ、対象化を対象剥離として、外化として、およびこの外化の止揚としてとらえているということ、こうして彼が労働の本質をとらえ、対象的な人間を、現実的であるゆえに真なる人間を、人間自身の労働の成果として概念的に把握しているということである。」(『経済学・哲学草稿』岩波文庫版、一九九頁)

ヘーゲルの主体は、あらかじめすべてを含んでおり、それを各段階において次々とその限界を反省しながら再措定を繰り返し、より普遍的に展開し、絶対精神、絶対知まで上りつめつつ、自己還帰する全きものであるが、それは、神が主体、理念と言い換えられて、自然および人間の姿を通して自らを表出する全過程として展開する方法を取っている。

キリスト教の三位一体が、宗教的基礎となって成立している哲学であるから、父なる神が子を人間として地上に送るという受肉の考えは、人間に絶対的なものを追求可能とする考えに転化し、ドイツ観念論をして、人間の精神世界において、無限の一般性、絶対知を照らし出すことができるものとして、それまでの哲学の限界を超えるとした。

へーゲルは、神学の三位一体の理論に対し、子なる神とするところを、神そのものの受肉であり啓示として理解するべきであると批判し、この受肉の過程をとおして、再び神を叙述するという方法を求めたのである。

このようにして、ヘーゲルは、単なる汎神論でもなく、神秘的彼岸化でもなく実体を主体として、人間の精神として神に通じる道を見出したのである。

現象から反照し、実体を能動的実体と受動的実体に分離し、原因と結果の関係に作り上げ、照り返すという交互作用を無限に繰り返す中から、単に照り返し、照り返される関係を越えて、規定し措定するという己自身を知り、また自分から生みだすという意志的なものとして概念を導出し、これを主体として展開し、さらにこの概念が客観を手に入れることによって理念へと高め、人間の精神を潜り抜けてそれを越え、絶対精神へと超出する全過程がヘーゲルの論理学の概要なのである。実体は、本質論のところから概念論への移行にあたり、自己自身において措定する主体へと変化させられている。概念の国が自由の国であるというのは、自己に立脚した意志において措定する、すなわち創造するということを自由と規定して概念が主体であるとするのである。

措定する主体は、自分自身を客観化し、それを自分に反照し、さらにより普遍的に客観化することにより外化されたものの不十分性を克服し、すでに内に秘めている絶対への目的をその都度明らかにしつつ、己を豊かに膨らませ展開してゆくのである。ヘーゲル的主体は、所与の自然や生命などの前提を、主体の分裂した客観的概念と主観的概念の根源的分裂の客観的概念としてとらえることにより、自らが生成したものとして再把握するという方法で取り込み、さらにこの否定において、次なる生成へと向かう。否定判断と必然判断と目的論を重ねることにより、推論へと移行するという論理展開は、主観的概念が、さらなる全面的発展・生成への衝動につき動かされてより普遍的な客観を見出し、かつ作り出すというヘーゲル的主体の躍動である。かくして、あらゆる森羅万象、生命、人間は、理念そのもの、客観と主観が全面的合致した世界として把握され、それこそが、出発点の主体に含まれていた本質の全展開なのだと己を再把握することによって、出発点に帰る。

この過程は、思弁哲学なのであるから思惟過程の叙述として、精神労働として、対象化し、判断し、推論し、客観化しながら進む。

ヘーゲルの神秘的主体にたいして、マルクスは、歴史的社会的主体を理論の主体としたのであるが、マルクスがヘーゲルの人間観を肯定的に捉えている根拠はどこにあるのか、ということが問題となる。しかも、それを、「自己産出過程」としてとらえられているという点に注意が必要である。なぜ過程なのかということに注意する必要がある。

資本論において、マルククスは、ヘーゲル弁証法の合理的側面を肯定的に評価しているのであるが、上記のこととの関連において一つのこととして把捉されねばならないと考える。

資本論の第一巻の商品論・貨幣論において、価値が貨幣として独立して表出する過程の中に方法的視点を見出す見解が多数あるが、疎外過程、物象化過程が、人々の社会的活動の過程なのだということを捨象しての抽象化過程、個別・特殊・普遍という概念の三契機の当て嵌めがおこなわれる場合が多い。このことは逆に考察するならば、ヘーゲル弁証法を、死んだ抽象にしてしまっているということを表していることになる。(この点については、後ほど展開することにする。)

マルクスが、ヘーゲル哲学の中から人間の自己産出過程としてとらえたもの、弁証法の合理的側面としてつかんだもの、このことを整理する必要がある。詳しくはさらに別にこのことをテーマにした論考が必要であるが、ここでは、認識論の要点を照らし出すに必要な諸点に絞ることにする。

ヘーゲルの弁証法のスタートは、スピノザの哲学が、実体の単なる延長と思惟としてしか言い替えされない汎神論的理論、すなわち、森羅万象も人間も自己意識も、実体=神の表れであると、単に裏打ちするものに過ぎない理論であるということ、この面白くともなんともない空疎さに対する批判を背景とする。さらに、カントの哲学が、認識主体として、自我を最後まで処理できないこと、さらに、目的的原理を反省的判断から規定的判断にまで進んではみたものの、規定的判断力が、単に抽象的普遍性の中に特殊を包摂するだけにとどまってしまったこと、―ヘーゲルは、規定的判断力においては、具体的普遍=特殊性と外面性を備えたものの活動性と衝動をこそ明らかにするべきであるとして、判断から推論へと移行させるのであるが―従って、外的認識と、超越的空論の抱き合わせにしか到達できなかったことを批判している。さらには、フィフィテの自己意識が、単にそれ自体の自己反省にまでしか到達していないことへの批判と克服を掲げている。主観と客観の同一性を語るのみで、単なる同一性哲学に過ぎないという批判を下した。

このような批判的地平において、ヘーゲルは、実体を二つに分けて、「能動的実体」と「受動的実体」の二つの実体から始める。このことは、ヘーゲル弁証法のアルファーでありオメガである。

主観的概念と客観的概念、理論的理念と実践的理念、原因と結果、前提と措定、これらの相互関係を、動的主体として展開する理論的装置なのである。ここから反照規定と措定作用と前提作用の交互作用が過程として現れる。弁証法は、本質論から概念論へと移行することによって、実体の照り返しから主体の措定作用をもった過程へと発展することになる。マルクスのヘーゲル弁証法の転倒は、神秘的主体の転倒と同時に、この弁証法的過程そのものの転倒を統一したものである。この後者の、過程そのものの転倒という視点を欠落すると、フォイエルバッハを超えることができないという結果になる。

どういうことかというと、ヘーゲルの神秘的主体に対して、人間、感性的人間一般を対置してそこで終わってしまうことになるからである。フォイエルバッハは、弁証法の過程については、ほとんど無関心のまま終わっている。

この、二重の転倒によってこそ、現実を有限なもの、虚しいものとして抽象の中に消し去るヘーゲルの弁証法に対して、あくまでも現実を捨象しない抽象として、現実的諸個人の社会的主体を真の主体とする対象化とそれによる被規定性の交互作用とその過程を概念的に把握する弁証法があらわれるのである。

では概念的把握とはなにか?ということに入ろう。

2思弁哲学の概念について

マルクスは、「概念的把握」という言葉を多用している。この内容をどのように把握するのかということは重要である。

多くの人は、概念的というと「普遍・特殊・個別」という言葉や、「下向・上向」という言葉を思い浮かべるだろう。しかし、これらは、論理的な思考のためのツールに過ぎない。別の表現をすれば、判断や推論の形式にすぎない。

この「概念的把握」という言葉の内容を理解するには、ヘーゲルに戻って考える必要がある。

ここで再度、読者が混乱しないようにするために、概念および理念について、次の点を強調したい。

「エンチュクロペディー 緒論 九」において、「思弁的な意味での概念と普通に概念と呼ばれているももとは区別されねばならない。無限者は概念によっては把握されえないという主張が立てられ、何前回となく繰り返され、ついには先入観となってしまっているが、そこで言われている概念とは普通の意味つまり一面的な意味での概念である。」

このように、普通の意味での概念と思弁的な意味での概念の特別な位置づけを注意している。「第三部概念論 一六四」では、例を示しながら、この違いを述べている。「概念と呼ばれ、さらには規定された明確な概念と呼ばれているもの、例えば人間、家、動物などという諸概念も、単純な規定であり抽象的な諸表象であって―概念から普遍性という契機だけを取り、特殊性と個別性とを除き、そのようにして、それら自身において展開せられるものではなく、したがってまさに概念を抽象してしまっているものなのである。」

「概念論 C理念 二一三」において、「概念を単に一定の概念と考えてはならないと同じように、理念そのものをも何かあるべきものについての理念と考えてはならない。」

ヘーゲルは、実体の発展として概念を規定している。「概念とは、向自的にある実体的力

として、自由なるものである。そして統体性である。」(「概念論 一六〇」)ここで「自由」とは、自己自身に立脚し、意志的であるという意味である。

理念については次のように概括している。概括という意味は、理念は、「大論理」では

直接的理念から絶対的理念までの総過程を述べているのであるが、ここではわかりやすく、どのようなものなのかという説明である。わかりやすいので引用する。

C 理念 二一四」「理念はさまざまに把握せられる。まずそれは理性として把握されうる(これが理性の本来的哲学的意味である)。さらに主観―客観として、観念的なものと実在的なものとの統一、有限者と無限者の統一、魂と肉体の統一として、また、それの現実性をそれ自身において持っているような可能性として、それの本性がただ現存的なものとしてのみ概念把握されうるものとして、等々である。」

かくして、概念は展開であり、理念は概念が客観性との統一であり、何よりも過程である、このように規定されるのである。

概念的把握という場合、このことを批判的に主体化しなくてはならないのである。

ヘーゲルは、前提作用、措定作用、反省作用を動的なものとして位置付けている。それは、概念や理念といった、実体や主体は、現象の反照によって己を知りつつ且つ能動的に客観を作り出す創造的な神の言い替えであると同時に、神の受肉としての人間の姿をもその神秘的過程に取り入れているからである。「天地創造」は「根源的分割」であり、キリストは「神の受肉」として、「具体的普遍としての個別」となる。

ヘーゲルは、人間を魂と肉体の合体したものと理解しているから、魂=精神が客観を作り出すことになるので、精神労働だけが意味のあるものとなる。しかも、措定したものは、単に次のより普遍的で高次の事柄への契機に過ぎないものとして虚しいものとされるので、過程は実は空無な過ぎ去った過去として消滅し、「絶対的理念」に到達する。

へ―ゲルの概念は、客観を食い尽くして己を神に仕立て上げてゆく自己内行と自己外行のダイナミックな弁証法の過程の最後に絶対的理念を生み出して終わる。

この概念は、実体の二契機である能動的実体と受動的実体の、原因と結果、措定と前提の交互作用によって完成されて生み出されるとしている。

概念が自らを展開して自然を作り出し、次に自然が生命を生み出すことによって、意識と意志を持った主体が生まれ、実体は主体となって己自身を開示してゆく。それは神の啓示でもあるとされている。

ヘーゲルの概念を、思考、思惟の論理的ツールとしての側面と、神秘的な実体およびその主体として展開する概念という側面についてしっかりと区別し理解しないと、混乱がおこる。

なぜこのようなことが起きるのか?

それには、ヘーゲル哲学の抱える根本的問題、根本的欠陥があるからである。

ヘーゲル哲学が、人間の認識論の様な展開をしながら、実は、実体の自己展開を本質、概念、理念と繰り広げてゆく過程と重ねていることから読者の混乱した理解が生まれすのであるが、なぜそのようになるのかということについて簡単に触れてみよう。

ヘーゲルの思弁哲学は、思惟において「神の思惟としての思惟」へと超出する全過程を叙述するものであるとしている。すなわち、人間の感性、悟性から始まる精神の高揚において、神の思惟に至るという考えである。この思惟する主体は、ヘーゲルは、「自我」とする。この自我は、カント的な自我ではなく、すなわちあの人の自我、この人の自我という特定の自我ではなく、「私」の自我なのである。ヘーゲルの「私」は、あらゆる私の共通の私、その現実的個別性を捨象した抽象的な「私」なのであり、それは普遍者とされる。思弁哲学は、この普遍者=自我=私による思惟の、神の思惟へと天がける過程なのである。したがって、純粋有から始まるというのは、神こそ真実の有であるという結論から導き出されている端緒なのであり、実体が純粋有から能動的実体と受動的実体に分かれて、交互作用をはじめ、概念として全自然を生みだし、概念と客観の統一としての理念として生命を生み出し、植物には植物の理念が、動物には動物の理念が、人間には精神が宿り、これらが、神の目的にそって、自由に展開する全過程が、哲学として叙述される。

この思惟する自我が普遍者であること、あらゆる有限なものは、真ならざるものとして止揚されるべきものとして扱われる。ところが、この思惟は、人間の思惟でもある。人間の思惟を超出することによって神の思惟に合流するのであるから、人間の過程を通過する。そうすると、実体からさらに主体として展開する普遍者の思惟過程でもあり、かつ人間の感性的悟性的な諸性格にまみれた思惟過程でもあるという二重性を持つことになる。もちろ、後者についていも、普遍者の立場で、直接的理性から理論的理性、絶対的理性までの過程を、下位の諸段階を内包して止揚して高めてゆくのであるが、それは、究極的目的=神の目的への結論的到達点を前提して叙述されるのであるから、人間の過程も、ただ普遍者にとっての、自己のより普遍的に高揚するための下位の過程として現れるに過ぎない。

このことから、ヘーゲル思弁哲学は、普遍者としての自我が思惟する過程であることと、感性的な生々しい人間の精神をくぐる過程を持つことの混乱が起こる。

人間は、個々の現実的な諸関係に規定され社会的な現実的な個々人しかいないわけで、抽象的な人間なるものは、作られた抽象に過ぎない。そうすると、特定の自我が主体として当てがわれてこの人間の過程を理解しようとする読者が現れる。

ヘーゲルは繰り返し、常識で理解しようとする傾向について警鐘を鳴らしている。認識の主体に自分の自我を持ち出すなと謡える。しかし、問題は、ヘーゲルの哲学の思惟する主体が、あらかじめ普遍者とされて、叙述する当人のへーゲル個人は消え去り、そこには人間がいないという抽象的思惟であること、それにもかかわらず、人間の成長過程をくぐらざるを得ない論理構造となっていることにある。

3人間の思惟過程と思弁哲学の思惟過程の混同

ヘーゲルの論理学を、あたかも人間の認識の論理化した物としてとらえ返そうとするような読み方は、このヘーゲル自身の矛盾から当然にも起こるものであり、読者が混乱に陥ることは不思議ではない。

判断、推論、目的等々は、実体の展開とされ、あたかも人間の認識行為のごとく語らえながら、神秘的主体の自己展開なのであるから、悟性的理解は受け付けないのである。これをカント的に読む、または常識的な悟性で読むと激しい混乱が起こるのであるし、誤ったつまみ食いとなる。

その典型的な例がレーニンの「哲学ノート」である。

もっとも、マルクスがフォイエルバッハのヘーゲル批判をさらに深めてヘーゲルの転倒を意識した過程をレーニンが把握していないので、彼のマルクス主義理解の内容がそもそも一面的なのであるが、ヘーゲルを常識的な悟性で判断しようとして失敗しているのである。

レーニンの「哲学ノート」を肯定的に理解する人々は、同じ過ちをする。

それは、「反映論」を「実践的反映論」と言い換えてみても、「レーニン的物質」などと唯物論的装いのマントに利用しようとしても、観念論が知性の中から生み出されることを批判できないこととして結果することにも表れる。

これらのレーニン主義者が陥る決定的な問題は、ヘーゲルの第三巻第二篇第三章目的観についてのレーニンの誤った理解のところを引きずるところにある。

この点については、先にも触れたのであるが、ここでもう少し詳しく見てみよう。

レーニンの「哲学ノート」はヘーゲル大論理学」を学習したとされる文章である。

この内容に入る前に、へーゲルの世界観を概括してみよう。

ヘーゲルの実体は、プラトンの本質と現象の二元論的な構造ではなく、実体が宇宙、全空間を埋めつくしていると考えられ、そして、本質が真の世界で、現象はその影に過ぎないとするプラトン考えと異なり、アリストテレスの魂と同じように、生かすもの、生み出すものという性質をこの実体に与えた。プラトンは、生命誕生の前に魂が存在するとし、魂が肉体に入り込むのだとした。低い魂は動物に。感情と欲望にとらわれている魂、理性的な魂はそれぞれにその程度に応じて入り込む。人間は、高い崇高な魂にあこがれるのだとした。そして、個々の人間は、入り込んだ魂のすでにある内容を、「想起」する、すなわち思い出してゆく過程が精神の成長過程なのだとした。

ヘーゲルは、この「想起」を実体に適用し、既に含まれていた内容を、実体自らが現象を契機にその照り返しによって知り、

逆に現象を、自ら作り出した客観であると照り返すのである。

単に内なる本質ではなく、己自身を知ると同時に、また生み出すものとしての創造的実体とした。

これは、アリストテレスの魂について考え方を取り入れたものでもある。

アリストテレスの魂説は、プラトンが、魂の先行した世界があるという、生命以前的な本質の世界を考えるのと異なり、現実に存在する生命の中に宿っているものとした。植物には植物の魂が、動物には動物の魂が、人間には人間の魂が宿っており、植物も動物も人間も、その死は、魂が死ぬときであるとした。プラトンは、死を肉体と魂の分離としていた。

しかし、アリストテレスの人間の魂は、感情や欲望の動物的魂を含みつつ、理性の魂を含むものとしてとらえられて、この理性も欲求や表象によって生まれるものとして質料と形相は分離できないものとしている。

しかし、アリストテレスは、感覚や知覚に基づく受動知性と、感覚にも論理的推論にも基づかずに成立す能動知性という区別があるということへと向かう。後者は、感覚や理性による論証を越えて、直接の知であるとされる。これは神の知であるとされる。

このようにして、この理性の魂の能動的知性という要素は永遠であるとされた。

例えば「直角を挟む二辺のそれぞれ二乗の和は、直角の対辺である斜辺の二乗に等しい」というピタゴラスの定理は、どの人間が考えても同じ真理であり、永遠に変わらないものである。理性は、これと同じように、身体的質料とかかわりなく、それ自体で成立し、不変のものとして、理性の魂として存在するとした。理性は、理性的認識であり、人間の再認識活動である。定理は、知的認識の共有に過ぎないのであって、定理の普遍性と、理性の独立性とを重ねること自体、まやかしの理論である。この理性的魂の永遠性という考えの延長に、純粋形相、それ自体に於いて現実態である神を見いだすのである。

アリストテレスは、魂は現実に存在する植物、動物、人間に内在するもので、これと分離して独自には存在し得ないと述べると同時に、身体的質料に規定されない理性知をそれ自体で成立する魂として、独立化させているのである。

アリストテレスは、理性も欲求を基礎としているとして、人間の身体的質と分離できないとしていた。明かな矛盾である。

しかし、理性を分離して、永遠の魂を分離することにならざるをえないのは、「不動の動者」としての神を、質料を持たない純粋形相として現実態であるとする規定を持つ神との接点を叙述する必要から、経験的現実から始める叙述と神からの現実へ向けての叙述が分裂せざるをえないのである。

人間が、その理性的知性において対象化した知的対象物としての知識が、人類の蓄積する知として、学として後世に伝えられることによって、人々の営みに於いて永遠になるのであり、理性的知や定理が魂という形相となって永遠になるのではない。カントの先験的カテゴリーが、アリストテレスの実体の要素としての概念の延長であることも、神の存在との関係に於いて叙述されているのである。

ヘーゲルは、プラトンの二元論的世界観、アリストテレスの、現実からの叙述と神からの叙述の引き裂かれを克服するべく、また、当然にもスピノザ的実体、シェリングの自己意識もとりこみつつ、人間は肉体と魂の統一と考え、生命は、主体が客観を手に入れて、自らを生きるものとして生み出し、さらに意識ある、感情と欲望をもつものとして発展させ、さらに、自己意識をもつものとして精神の発展過程をつくりだした。すなわち、実体を主体として展開し、概念の運動と理念の過程が、全空間を埋めているのだとして、プラトンの二元論を実体一元論に、プラトンの魂の「想起」を概念の判断に、さらにアリストテレスの質料と形相の相互の働きかけを、規定作用と前提作用として取り入れ、理性の魂を理念過程として、それぞれの要素をヘーゲルは統一して、実体の総過程を作り出したのである。これは、プラトンとアリストテレスのヘーゲル的統一なのであると同時に、プラトンの二元論、アリストテレスの自己分裂についてのヘーゲル的克服でもある。

この当時はまだ進化論が進んでいない時期なので、アリストテレスの魂説をヘーゲルが脱却できずに「エーテル説」のまま哲学するという時代的制約がある。

このドイツ哲学の最先端とされたヘーゲル哲学の世界観を知ることは重要であり、へ―ゲル批判の根底に置かれねばならない。ヘーゲル哲学の神秘的性格、その保守的性格が、神の存在、魂の存在を前提とする哲学であるということを忘れて、あたかも人間の理論知性の論理学のごとく読み違えるような人々が、自分の悟性的な常識的な思考方法でつまみ食いをするような理解は、何も生まない。

4レーニン「哲学ノート」の誤謬

レーニンの「哲学ノート」の根本的な誤りは、ヘーゲルの「大論理」の根底に、実体から意志的な主体へ、さらに理性ある主体へと、ヘーゲル特有の神秘的主体が横たわっているということを理解しえていないというところにある。ヘーゲルの主体の運動として概念があり、理念があるという視点を抜きに、なにか認識の方法として使えるところはないかというつまみ食いをしようとする姿勢で読むところにある。端的には目的論のところで足をすくわれることになる。

ヘーゲルの目的論は、主体が能動的に創造するものであるという点に、スピノザ的実体批判をおいているのであって、あらゆる現象を神の現れであるという説明は、常に聖なる灯が付きっぱなしであるということなら、ついていないということに等しいではないかという批判に対して、次々と聖なる灯をつけてまわる能動的意志的主体を提示したのである。したがって、目的論は、ヘーゲルの主体が、あらかじめ目的をもって世界を創造してゆくのだということを、統体性として完全な設計図をあらかじめ持って天地創造より進めてきたのだということを述べるために展開している箇所なのである。これを、人間の対象的活動における実践と目的の関係に取り込もうとして、目的を立てる主体がいかなるものであるのかという根本的な問いを見失うのである。そして、「主観的なものが客観的なものなる」のは素晴らしいと、まず目的から始めることになる。このような理解は、人間が他の動物と違って、目標行動をとりうるということ、だから道具を作る能力があるのだということ、すなわち常識的理解に、ヘーゲルを取り込んだだけである。

へーゲルは、「エンチュクロペディー 第二版への序言」において、「哲学の歴史は、哲学の対象である絶対的なものに関する思想の発見の歴史である、たとえばソクラテスが目的という規定を発見したのであって、この規定がプラトンと、特にアリストテレスによって明確なものに練りあげられたのである。」と、アリストテレスの目的論を肯定的に述べている。

アリストテレスの目的論とは、自然、植物、動物、人間、全宇宙を支配する四原因の一つとして、目的因を位置づけるというものである。

自然の事象の原因となるものには四種類あるとし(1)形相因(何であるか)(2)質料因(何からできているのか)(3)始動因(変化を起こさせるもの)(4)目的因(何のためか)と規定した。この目的因は、所与の前提であり、それは、究極の目的としての神の目的とつながるものである。

したがって、人間の自我が、目標を立てる目的を立てるという形で使われる目的なのではなく、神が設定した目的にすべてのものが従っているのだという目的なのであって、だからこそヘーゲルが「概念と推論の統一が目的なのである」という説明となるのであって、これを俗流化して、人間の目的と手段と実践の関係などと取り込むのは間違っているのである。

このことは、レーニン「哲学ノート」を崇めるような人たちによく見出される欠陥である。

たとえば許萬元の「へーゲルにおける現実性と概念的把握の論理」の中で、認識論の前提として、「実践的主体」においての認識ということ、実践的を強調するのであるが、この実践的は、突然登場するものであり、何の前提をも持っていない種類のものとなっている。

どういうことを述べているのかというと、この実践は、いかなる衝動、いかなる激情に支えられているのか、いかなる苦痛、いかなる否定を含んでいるのかということが不明なのであるばかりか、そのことを意識もしていない種類のいきなりの無色透明な「実践的」なのだ。

すなわち、誰と誰の実践なのかが不明な実践的主体が突然登場する。

次に目的が掲げられる。そしてその次にその担い手が求められる。そこに初めてプロレタリアートが登場する。このような論理構造となっている。

無色透明な実践主体が、どこから持ち出してきたのか不明な目的を掲げ、これを担わすものを探し、そこにプロレタリアートを持ち出す。理由はと言えば、お決まりの非人間されているから。

非人間化されているというなら、貧農でも、古代奴隷でも、アフリカからの奴隷でもよいのであろう。プロレタリア革命が、人間の人間的解放のあらゆる要素を内包しているという根本的性格も、共産主義への不可避的過程なのだということも何もない。当然である。

このことが理解されているなら、こんな空疎な論理構造を組み立てないであろう。

共同利害の中から目的を作り出すのだということを知らない目的主義者は、主観的目的から、すなわち空想的理想的社会像から始めることになる。

ヘーゲルの神秘的主体の活動としての概念や理念を、悟性的に、常識的に取り込み、人間の悟性的思考のあてはめようとするような俗流化こそ、レーニンの「哲学ノート」の罪である。レーニン追随の非自立的思考の延長には、誤ったへーゲル理解と、玉突き的におこるマルクス主義の誤読と、その結果としての、本質主義、目的主義、啓蒙主義、前衛主義が一つの体系として生まれてくるのである。

ヘーゲルにとって、目的は概念の統体性に基礎づけられているのものであり、それは、神の全知全能の内容の能動的客観化の意志的行為とされているのである。主観的概念が常に客観的概念に覆い被さって、否定的に創造する意思と衝動を持つとされるのであるから、その意志と衝動を自己の目的として、あたかも自由に創造活動をするものとして描くことは、スピノザの実体が単に延長とされて、単に内なる神聖な灯としてともし続けられることが、神の創造性、能動性、人格性を消し去ったもの、汎神論はむしろ無神論ではないかという人々の不満にこたえて、人格性のある、能動的で、聖なる灯がポッとつく瞬間を演じて見せたのであり、また、それこそがヘーゲルが拍手された所以でもある。

したがって、目的論は神の目的論なのであって、あらかじめ全体があり、それは、主観的概念の統体性なのであり、それを意志的に展開するものとして神秘的主体の自己展開なのである。これはアリストテレスの実体の持つ四原因の一つとしての「目的因」を、ヘーゲル的に再構成したもので、単に実体に含まれる要素としてではなく、主体が、意志的に、したがって、自由に目的に向かうのだとしたのである。このことを理解しないで、人間の世界に引き寄せて、目的をたてて実践するという常識を当てはめて俗流化することは、へーゲルとは関係ないことなのである。

まず目的があげられ、次にその手段が語られ、目的の担い手が求められるという目的主義は、まず誰が何のために目的を考え出すのかという、目的の主体と、目的が必要な協働関係が、出発点において明らかにされるべき事柄が、実は最後に現れるという転倒なのである。したがって、当然にも、協働関係としての目的という性格は欠落することになる。他者は、掲げられた目的の単なる従属物となるからである。

レーニン主義者によってプロレタリアートが「自由の王国」なるものの実現の担い手とされる場合、その根拠は、非人間的存在であるからという説明がほとんどである。

では、貧農が非人間的存在であるなら同じく同質の担い手となることになるが、なぜプロレタリアートなのかということは、人口の大多数であるということ以外不明である。

そして、この「自由の王国の実現」という表現を取った究極的目的は前衛が理論家として持っているものであり、個々の労働者が持っているのではなく、さらに労働者の結合した組織体であるソヴェート=評議会が持っているものではないとされる。当然にも、その実現の担い手とされるものは、この目的を唯一握りしめている人達の手段として位置付けられることになる。

現実の労働者は意識が疎外されている、または、物象化されているので、真実を見出すことができない、という理由から、前衛党に入るときは労働者としてではなく理論家として入るのだとされる。

このようにヘーゲルの論理に俗流の常識的理解で、自分自身の自我を押し込んで理解するという誤りは、次のような点にも表れる。

「観念的なものが実在的なものに変わるという思想は深い。歴史にとっては非常に重要である。」「これは俗流唯物論に反する。」(「哲学ノート」)

「注目すべきことは、ヘーゲルが概念と客観との合致としての『理念』、つまり真理としての『理念』へ、人間の実践的な、合目的な活動をつうじて近づいてゆく、という点にある。」(「哲学ノート」)

ヘーゲルの理念は、神秘的主体としての概念が自分に客観を与えることによって理念となるのであり、意志ある主体として、精神を生み出してゆくものなのである。これに、人間の自我を挿入して、理念を単に真実の理想と解釈替えをしてそれを目的として実践するのだという言い換えは、子供のような誤りである。この延長に、空想的社会主義の構造を持った目的主義と労働者の手段化の体系が出来上がるのである。

このような理解力の低い、何もかも自分の常識の枠の中に押し込めて理解する態度は、「プロレタリアートの独裁」というマルクスの言葉の理解を、過去の、富の上に築かれる私有財産社会の上に成立した独裁政治に重ねて、恐怖政治という要素だけをつかんでしまうという誤りを犯すことに通じる。

我こそが真理であり、絶対的な全体であり、唯一無二の指導者なのだとして登場するこの俗流理論家にすぎないレーニンに睥睨するレーニン主義者たちは、ヘーゲルを俗流に理解して歩調を合わせてきたのであり、我々のレーニン主義批判を理解しえないまま今日に至る。そのことは、同時に、マルクス主義をも理解しえていないということを示すものなのである。

あらかじめ掲げられる目的とは何か?

たとえそれが、理論的に導き出されたものであるとか、真理に基づくものであるとかという説明がついているとしても、あらかじめ設定されているとすれば、当然にも誰が、または誰たちが作り上げたものなのかということが問われる。

我得荒れにとっての現実的な目的とは、他人との共同の目的である。個人が個人の目標を立てるというのは、主観的な事柄である。すなわち、目的をいう言葉自体の前提として、他人の存在が横たわっているのである。目的が、真に共有されるためには、その目的が立てられている根拠に遡っての一致、すなわち判断の材料と、判断の内容と、その必然性が共有されなければならに。

少なくとも、その判断過程が信頼されねばならないであろう。ところが、まず目的が掲げられ、次にその担い手があげられ、その担い手による実践という回路は、もはや目的という語に値しない。目的主義とは、目的という言葉に値しない、我欲への他人の手段化以上でも以下でもない。そして、単に他人のみならず、自分をも手段として考え、あらゆるものを手段化し、自他共に欺き、奈落の底へと落ちてゆくのである。

このように、常識的な推測と理解で悟性的な取り込みを行うような誤りを犯さずに、へーゲルの概念について、その神秘的性格を批判することを前提としつつ、概念の肯定的側面を把握することが大切なのである。

5概念の規定

概念的把握という場合、そもそもヘーゲルの概念を、その神秘的側面を剥がし取って、どのように思惟規定として取り出すのか、ヘーゲルの概念の批判的継承とは何か、マルクスの概念的把握とはいかなる内容なのか、このことを追求することにする。

ヘーゲルは、概念について、端的な規定として、「哲学史 第三部第三節E結語」において、「哲学の現在の立場は、理念がその必然性に於いて認識される事、言い換えれば理念の分離の両側面である自然と精神の各々が理念の総体を表すものとして、単に自体において同一なばかりでなく自己自身から唯一の同一性をうみだすものとされ、さらにそれに依ってこの同一性が必然的なものとして認識される事がそれである。」そして、その中の「D シェリング」においては、その同一性哲学を批判して、「シェリングは主観的なものと客観的なものの同一たる絶対者の理念を以て始めたが、・・・・」と「シェリング哲学に於ける欠陥は、主観的なものと客観的なものとの無差別点、換言すれば理性の概念が絶対的に前提され、これが真なりと証明される事なしに終わる点にある。」さらに「同一性の客観的となったもの及び同一性の知とが芸術に外ならず、ここでは同一不二の直感の中に於いて自我はそれ自身を意識し又無意識となる。かくて客観的となった知的直観は取りも直さず客観的な感性的直観である。―然し概念の客観性はこれと別であり、それは洞察された必然性である。」と批判している。

この「概念は洞察された必然である。」という端的でかつすべてを含む規定を追ってゆこう。

概念的把握ということを、へーゲルの、己を知りつつ規定し、かつ、自らを客観化する円環の、規定する過程と自己を客観化するにあたっての必然性をたどる過程の両者を、思惟過程として取り上げて見ることにする。

ヘーゲルの概念の思惟様式としての理解のためには、概念の三契機として個別―特殊―普遍の理解と同時に、判断と推論の内容の理解が必要である。

出発点となり、かつ帰結点でもある現実的なもの、ヘーゲルにとっては現象は、この三契機が統一された一つのものとされる。

「エンチュクロペディ」の論理学の中で、「概念の定在は概念の諸契機の区別である。つまり、概念の普遍的本姓が特殊性をとおして自己に外的現実性を与え、このことによって、また、否定的な自己―内―反照として、自己を個別者たらしめる。―これを逆に言うと、現実的なものは一個別者であり、これが特殊性をとおして自己を普遍性へと高め、自己を自己と同一たらしめるのである。―現実的なものはひとつのものであるが、しかしまた同時にそれは概念的諸契機の相互分離でもある。そして推論とはこの概念諸契機を媒介する円環であって、この円環をとおして現実的なものは一つのものとして自らを措定するのである。」(「エンチュクロペディ 論理学 一八一)

このように、ヘーゲルにおいては、現実は主観的概念が措定して生み出すものとなるであるが、それを思惟規定としてとらえ返すならば、判断に於いて成立した概念的諸規定から、逆に必然性において、述語が主語と貫通する必要があるということである。

判断と概念の統一としての推論とは、判断において成立した概念の諸契機の連関が、必然的なものなのか、主観的なものではないのかということを吟味し、その必然性を証明する思惟作業である。このことをくぐることによってはじめて現実的なものは個別者として、一つののものとしてあり、その中に概念の三契機が思惟規定として含まれる。

例えば、具体的な物の、とらえ返しの規定として一つの例を挙げてみよう。

このリンゴは果実である。

まず最初に、直接目の前のものが、自分にとって意味あるものとして存在する根拠となる規定である。

食べるために手に入れているものである。

さらに、植物という視点からは、分類的には次のようになる。

りんごは被子植物である。

さらに、リンゴは広葉樹という植物である。

このようなりんごついての諸規定があるとする。

目の前の、この一個の赤いリンゴは、果実であり、この実をつける木としてのりんごというものは、被子植物であり、広葉樹であり、植物であり、自然である。

そうすると、このりんごは、他の果実をその共通の内容を持ったものとして、横に並べることのできるものとなる。ナシや桃も果実であるということが考えられる。被子植物という観点からは、ヒマワリや稲も被子植物ということで、横に並ぶ。

一個のリンゴに、思惟規定としては、このような諸規定がいわば詰め込まれている。

もう一つこのりんごに別の規定をしてみよう。

このりんごは果物である。

果物とはなにか。人間や霊長類が好んで食する実である。

果物には、果実以外にもイチゴも含まれる。

イチゴは、果物ではない。被子植物ではあるが果物ではない。食べるところは、花托という種の台のところである。

このりんごは果物であるという規定は、リンゴの内容による規定ではなく、人間が好むものという、リンゴとは無縁な、外的な要素に於いて規定されているということがわかる。

人間の感性的な嗜好によって、外側から共通するものを括った外的規定である。

では果実という場合、クルミも果実である。しかし、クルミの緑の果肉は食べない。果実は実は必ずしも果物ではない。

では果実とはなにか?

受粉によって、子房の部分が栄養を蓄えて膨れたものである。

これはリンゴのそれ自体に由来する内容の規定となる。

このように、りんごが果実である、という規定は、内的な統一性がある。

これと違って、リンゴと果物の関係は、人間の官能的要素を媒介した外的なつながり、または枠付けにすぎないのである。この場合は、りんごそのもの規定は、りんごそれ自体の内容からは導き出されない。人間の食べるもの区分けとしての果物という言葉の中に放り込まれただけの規定となる。従って、リンゴそのもの内的必然性として概念規定となりえない。人間の側からの単なる分類規定なのである。

ここにきわめて重要な視点がある。

ヘーゲルは、能動的実体と受動的実体の交互作用に於いて、能動的な神を作り出そうとした。スピノザの静止的な実体やシェリングの客観と主観の単なる同一性の確認ではなく、万物を創り、怒り、罰を与え、祝福を与えるような人格性を持った神を描きたかたのであるが、そのためには、己を知りつつ己を展開する過程を持った実体、すなわち意志的な主体を作り出さねばならなかった。

ヘーゲルの判断を見てみよう。

現象の主観的概念への照り返しは、判断として自分自身を規定することである。その瞬間、同時に現象は、実は主観的概念の被造物であるのだ、とレッテルを貼り付け返すのである。この時に、ポッと聖なる灯がともる。

さらに、主観的概念は、自らが統体性であるから、この現実の現象を、有限な不十分なものとして不同一性を感じ取り、よりよいものにしようと覆いかぶさるのである。すなわち同一性のみならず不同一性を見出し、否定し、止揚せんとするのである。否定性の弁証法とは、このような内行と外行の過程なのである。

規定するとは、ヘーゲルに於いては判断である。そして、客観に照り返すこと、措定する根拠は推論である。

ヘーゲルは推論に於いて、主語と述語は貫通していなければならないとしている。

これはどういうことかというと、主観的概念が、客観を持つということ、そこには、主観的概念と客観の統一の必然性がなければならないということなのである。すなわち、判断の内容が証明的であり、必然的であるということでなければ、主観的概念が自分自身の展開として客観へ意志的に措定することができないということである。判断自体は、出発点においては主観的ある。間違いもある。

例えば、「象は爬虫類である」と間違って判断するならば、爬虫類から象を造りだすこができないからである。「象は哺乳類である」という規定から、「象は子供を産む」という規定を媒辞として哺乳類の中を探っていけば象は見つかる。

推論とは、主観的概念と客観との同一性と不同一性を同時に明かにすること、現実の個別性に主観的概念の普遍性が、必然性としてその内容となることである。

この観点からするならば、「このリンゴは果実である」という規定は主語と述語が貫通している。しかし、「このリンゴは果物である」という規定は、主語と述語は外的に引付けられているだけである。媒介しているのは人間の舌であり、好みであり、官能であり、自我である。これは規定ではなく、命題に過ぎないのである。

概念的という場合に、この判断だけはなく、このような推論が重要であることがわかるであろう。

判断と推論を、思惟規定としてとらえ返すことにより、内容的必然性において、具体的なものから抽象へ、抽象的なものから具体的なものへというマルクスの下向上向の内容には、この判断と推論の両者が含まれてこそ、成立しているものであることがわかる。

抽象は、抽象する実際上の行為があって抽象が起こるのである以上、具体的なものは、その抽象と現実的に併存しているのである。また抽象から具体的なものに戻れない抽象は、抽象される必然性からはずれたものであり、外的なものであり、命題にすぎないのである。

この主語と述語の貫通ということこそは、認識論の基礎的内容である

以上のことを踏まえて、認識における抽象とはなにかという問題に入る。

6抽象とは社会的抽象である

抽象は社会的関係から生み出されるものであり、またそれを通して、人間の理性が発達を遂げてきたからでもある。

人間の認識活動の特徴はどこにあるのか?ということを明らかにするために、動物との違いはなにか?と設問することにしよう。

動物の認識活動の特徴は、現在直下に於ける認識活動だということである。過去の経験の記憶を総動員しつつ、自分が認知した対象、及び自分おかれている状況を認識する。そして、判断し行動する。

人類との付き合いの長い犬などは、人間の表情まで判断するし、高度の判断能力を持つ。

単に視覚情報を記憶と照らし合わせながら認知するだけではなく、判断する能力を持っている。

人間の子供も、初めは食べるものと自分を保護してくれる親にあたるものについての認識から出発するであろう。直接的な生命活動である。

やがて、急速に脳の活動が活発化し、認識活動が広がる。

動物とどこから違いが発生するのか?

視覚的認識と聴覚的認識は動物も発達している。論理的思考を行う脳の領域が発達しているのは、人間のみである。一部の猿の中に、部分的な発達が見られうが、言語を理解するが発声はできていない。

ホモサピエンスの脳の機能のブローカ野は、運動性言語中枢と呼ばれて、言語を理解し言語を構成するとされる。

人間の記憶や意志が、言語されることによって共通の認識内容の共有が可能となる。その前提には、人間が群れとして行動し生活しているということが横たわっている。集団の狩りや生活に必要な言語が発達するということは、共通の抽象的概念が生まれるということでもある。

抽象的カテゴリーは、実際の必要に応じて生まれるものであること、またこの蓄積こそ、知性を発展させる源泉であること、新たな知性は、また新たなカテゴリーを必要とすること、この交互作用に於いて、社会が知性を発展させているのである。

精神的疎外としての宗教は、認識能力の発展の結果生まれたものである。動物と人間の違いは、道具を使うだけではなく道具を作ることが一つあげられる。

これは、人間が、時間についての連続性を理解することから生まれる。過去を再認識することと同時に、将来を想像することができる。このことから、目標行動が生まれる。目標に向かって準備するという意識があってこそ道具を作るという行為が生まれる。現在にのみ生きている動物は、道具を使うことはできるが、それを将来に使うことに向けて作るということはできない。ゴリラも木の枝を折って寝床をつくる。しかし、毎回作るだけで、明日に備えて、恒常的な住居を作ることはない。その瞬間、その瞬間に生きているだけである。

この時間を含む思考は、原因と結果についてのつながった考えかたを形作ることになる。人知を超える力、自然の脅威、避けることのできない死などについて、見えない力、見えない原因を考えるようになる。

死者を埋葬するという行為は、死に対する恐れと同時に再生の願いを含むであろう。さらには、群れ相互の戦闘に於ける死を、英雄としてたたえることだけでなく、再生の願いを込めることが、戦闘力を高めるために必要であっただろう。

自然に対する信仰は、はぐくむ豊暁の神として、罰する神として、超越的な力を想像するだけではなく、共通する認識として崇め、集団的な儀式祭礼によって一般化される。個々人の単なる想像は、単なる空想に過ぎない。共同体の共通の認識に高められて、社会生活の中に定着することによって宗教は単なる信仰であることを越えて権力となる。

人間の認識能力は、原人からホモサピエンスが生まれるまでに発達したことがわかっている。脳機能も視覚的聴覚的認知能力に加えて、思考力、論理化する能力が発展してきた。それは、道具を使うこと、言語を使うこと、さらには文字を作ることによってさらに発展した。

群れ、または集団の生産と生活の中で、共通の意思決定の必要は、言語を発達させる。それは語彙を広げるだけはなく、抽象をも進める。森に入る前に、なにを取るかを打合せする場合に、リンゴ、ナシ、桃、などなどということを毎回繰り返すことは不便で、実を取るのだとまとめることが起きるだろう。

狩りで追いかけている獲物が、右に左に、上に下にと、手や指で表現するよりも音声で伝えたほうが便利で皆が獲物に集中することができるであろう。

毎朝、「今日は晴れるか、曇るか、雨かどうか」と問うことを繰り返すより、「今日の天気は」と抽象することが便利であろう。そして、この天気という抽象は、単なる漂白した抽象ではなく、「今日は良い天気ですね」という具合に、実際の現実的事象にあてはめても使われる。それは、人という抽象も、今朝見た人というように、実際に当てはめて使われるのと同じである。

共通認識に使われる抽象的言語は、社会が必要の中で作るのである。動くものは動物とし、植わっているものは植物とし、自分たちを人間とすることに時間がかからないであろう。

言語を通して認識内容を対象化する能力、そしてそれを共有化する能力こそ人間の特異性である。

人間の認識の他の動物との違いは、この言語の能力に基づく、再認識活動にある。

過去の再認識が可能であり、また、未来に対する推測も行うことが出来る。すなわち認識活動は、現在直下のみならず、過去と未来に延長することができる。時間認識と連続性の理解である。

狩猟が中心の石器時代においても、人間は冬になれば寒くなり、食料が乏しくなることを予測して、食糧を備蓄する。

リスは確かにドングリや胡桃を木の洞に集めるが、本能的におこなっているだけで、先の事態を考慮して行っているわけではない。

猿は道具を使うことができる。しかし作ることはしない。棒を蔓で腰に巻いて持ち歩くサルなど見たことがない。

人間が道具を作るのは、使ったことのある道具の再認識による。そして、道具が将来に使用するときへの準備となることを理解している。目標行動である。

この再認識活動こそ、知性であると同時に実は精神的疎外の原因でもある。

再認識活動により、意識自身の対象化が可能となることにより、人知を超える事態についての空想や推測を思い描くことができるようになる。原因と結果についての認識が生まれると、超越的な意思、意図を原因として思い描いて納得するようになるであろう。そこに神や悪魔という仮想の力を固定させることが始まるであろう。

超越的な力を共通の幻想として共有するならば、これに膝まづくことによって、自分たちを守ろうとするであろう。

そして、この超越的な力を媒介する者が、その力を最大限利用するであろう。

さらに、このシステムは、共同体を維持するために必要不可欠なものとなってゆくであろう。

人間の再認識活動こそ、一方では精神的疎外の根拠であり、また他方では知性の根拠でもある。

いわゆる「反映論」の限界は、直接的認識活動と再認識活動の同一性と区別性を前提として、その内容的論理を展開するべきところを、観念論批判として物質的唯物論を対置したところに誤りがある。たしかにマルクスは「観念的なものは、頭のなかで置き換えられ、翻訳された物質的なものにほかならない」(『資本論』第二版後記)と述べ、レーニンもこれを引用している。「意識は一般に物質を反映する」、「社会的意識は社会的存在を反映する」という規定は、二重の問題を持つ。

その一つは、認識とは認識行為であり、主体的な活動であるということが消え失せていることである。なぜ耳や目や触覚が発達してきたのかという根源的なことが抜け落ちている。

動物が食べ物を探すこと、敵を察知ること、危険を感じることは生存にかかわることとして発達してきのであり、さらに、これが本能として、動物的な認識力として、判断を含むものとして蓄積されてきてさえするのである。

動物と人間の違いは、再認識作用にある。そして、言語を通して、他人と認識を共有することが必要となり、また言語を通して、再認識活動が発達したのである。したがって、表象をのみ取り扱うなら、正しいのであるが、それは何の意味も持たない事柄である。

「あれは犬である。」という認識は、犬というものが意識の外に厳然とあり、頭の中で、犬という言葉で認識することだと説明したところで、それがどうした、と言うことに過ぎない。観念論と科学的唯物論との違いは、目で見たもの現象把握や単なる表象から、次にそれを思惟するか、論理化するかというところから始まるのであって、その先がなければ何も論じたことにならないのである。ちなみにヘーゲルは、追考、及び再認識作用を、直接的感覚、本能的知覚と区別することにより、知性を導き出し、動物との違いを示している。

自然の摂理を科学的に分析して、そこに因果関係を見出し、法則性をつかみ取り、理論化する場合も、それは現実的な事柄を対象化して認識したものであるから、外的自然の反映であると、法則性や定理にまで拡張しても、それは誤りではない。人間と自然との対象関係であるからだ。しかし、単にあるもの、知覚できるものの反映ということにとどまるなら、問題は別である。二〇世紀になってからの物理学は、中性子理論、特殊相対性理論、そして今日ではダークマター理論と、理論的探究とその実証という方法がとられている。

いわゆる反映論は、自然科学においても、意味を持ちえない前近代的なものとなっている。

さらに、自然界についての反映論以上に、社会についても適用しようとする無理がある。

人間の活動の諸関係は、物ではないので、目に見えないのなので、直接には反映されない。

しかも諸関係は、範疇に規定されて、その範疇の諸関係を考察することによって全体像が明らかになるのであって、表象どまりの認識は何も生まない。

例えば、マルクスは、「経済学批判」の「経済学の方法」の中で、次のようにのべている。

「例えば資本は、賃労働がなければ、価値、貨幣、価格などがなければ、無である。したがって、もし私が人口から始めるとしても、それは全体についての混沌とした表象であるにすぎず、・・・・・。」

このように、単なる表象を思い浮かべるだけでは認識として意味がないのである。分析と規定を与え、その関連を明らかにし、総合することによって、すなわち理論的な解明を通してはじめて認識といえるのである。

「全体としての混沌とした表象としての人口にではなく、おおくの諸規定と諸関連からなる豊かな総体としての人口に到達するであろう。」

したがって、反映論は、観念論に対置した反対命題以上でも以下でもない代物であり、これを認識論であると奉り、社会、芸術等々にまで拡張するロシアマルクス主義の出鱈目なのである。社会主義リアリズムに至っては茶番である。

これを、実践的反映論とかに厚化粧しても意味をなさない。

7社会的主体の対象的活動

ヘーゲルは、実体、および主体は、自己否定的な過程を持つものとしてとらえている。したがって、概念についても、全体化する過程を問題とし、その必然性を推論という形で論証しようとしている。

そして、生命については、生命過程であり、また、類的過程であるとしている。すなわち、過程として物事をとらえ、その内的規定性を明らかにするということが論理学の主題であると考えている。

なぜなら、ヘーゲルの主体は、前提作用と措定作用によって、生成し滅び、新たに生み出され、また否定され、より普遍的に自分自身を知り、創造的に客観を乗り越えてゆく発展的な主体であるからである。

ヘーゲルは、「真理は過程の中に、そして、終局の中にある」という立場をとる。

なぜなら、自然も人間もその歴史過程は、神の創造であり神の啓示として考えられているからである。

しかし、このヘーゲルの論理は、現実に生活し、労働する人間の個々人が、その社会的諸関係を取り結びながら形成してゆく歴史を、生産と社会の過程としてとらえるという視点を与えている。労働する主体が、労働によって対象化される生産物にたいする関係が、時代ごとに変化する歴史過程の把握が、今日の労働する社会的主体にとって重要であること、この過程が同時に、自分自身の労働の在り方の変化に結果として現在があるという、自分自身を知ることであるということである。

したがって、認識とは、われわれに取っては、対象を知ることでもあると同時に、自分自身を知るということでもある。

ヘーゲルの論理は、主体があるからこそ、その主体の過程があるのである。そこから過程としての叙述こそが真なるものとなる。そして、真であるということは、必然的であるということである、となる。

絶対的なものを、ただ絶対的と繰り返すだけの真理観でしかない神学にたいする批判的な立場である。絶対的なものの論証と必然性を明かにすることこそが哲学の哲学たる由縁であるとしている。

われわれは、ヘーゲルの論理の考察に於いて、過程の内的必然性こそが肝心なものであるということに到達した。

さらに、その過程を認識するということはどのようなことなのかということに入りたい。

ヘーゲルの理念論における認識論のところで、単に原因に遡るだけではなく、いかなる規定性のもとにある過程なのかということを分析することが重要であると述べている。

結論から述べると、時間と空間の中に、総合的な諸規定を明らかにすることが、認識することなのだとしている。

へーゲルの「自己内行は同時に自己外行である」ということは、マルクスの下向過程は同時に上向過程と同じであるということを示す。問題はその内的必然性にある。

抽象は、社会的歴史的抽象過程の結果として現実にある抽象の結果であるというつかみ方は、マルクスの、現実的具体的現実を消滅させない弁証法の特徴であるが、それは価値、交換価値のつかみ方に端的に表れる補法であるが、これは、ヘーゲルの、あくまでも現実が出発点であり、そこに否定的に帰る円環としての概念の運動の批判的継承なのである。

マルクスは、何が前提で、何がその規定の結果であるのか、さらには、その反作用を分析し、その交互作用を追求している。

そこで登場するのが、過程的把握である。この過程の内的論理構造を分析することこそ重要であるとしている。

物象化についても、真なるものと錯視などという静止的な理解ではなく、物象化過程として分析する。

この過程的分析こそ、その内的根拠とその止揚の方向性の必然性を明示する方法なのである。

同時に、ここにおいて、区別と同一性の論理が必要であると同時に生きた理解生まれる根拠となる。

たとえば、われわれの内部から発生した小ブル急進主義の陥った観念的思い上がりとしての自称革命家気取りの論理はこうである。

階級的ということでは不十分で、革命的でなければならない。革命的主体性を持った革命家となるのだ、と述べる。

革命は、労働者の自己解放闘争としての階級闘争の一過程である。逆に問いを発してみよう。階級的でない革命とはなにか?階級的であるということは革命的である前提条件である。階級的である団結が、革命的になるのであって、階級的であることと別に革命的な質があるのではない。逆に、このように単なる区別だけの階級的という把握内容は、革命の必然性を欠落した階級把握となっていることを自己暴露しているだけである。

これは、区別と同一性を、過程において把握するという方法の欠如がもたらしている論理的失敗でもある。

われわれは、プロレタリア的であるということは革命的であり、革命的であるということはプロレタリア的である、と繰り返し述べてきた。

これは判断規定と推論規定の統一であり、主語と述語の貫通なのである。

「資本の下への隷属は、自らの共同による自らの労働の支配によってのみ突破し得る」ということが、この二つの規定が、同一であることを証明する媒辞なのである。

8分析的認識から総合的認識へ

「分析的認識は全推論の第一前提であり、―即ち客観に対する概念の直接的関係である。だから、同一性は分析的認識が自分の同一性として認識するところの規定である。従って分析的認識は単に存在するものの把握(直感的、直接的把握)に過ぎない。ところが総合的認識は存在するものの概念的把握(証明的、必然的把握)を問題とする。言い換えると規定の多様性を、その統一において把握することが問題である。だから、この認識は推論の第二前提であって、この推論に於いて差異的なものそのものが関係させられる。それゆえに、この認識の目標は一般に必然性である。」(大論理 第3巻第2篇理念)

これに続けて、「互いに結合させられている差異的なものは一面では相関関係をとる。従って相関関係の中では、それらはもちろんお互いに関係させられているとともに、またお互いに無関心で、自立的なものとしてある。」と、規定の相互関係の同一性と区別性をとらえ、そいて、概念に於いてさらにその統一をつかまなくてはならいとしているのである。

認識における総合的認識は、分析的認識を踏まえつつ、諸規定の相互関係をその区別と同一性に於いて統一的把捉することだとしている。

ヘーゲルは、総合的認識を扱うところで、「自己関係的な規定性、対象それ自身の中に於ける区別、及び区別された規定性相互の関係」こそが考察されねばならいとしている。

認識ということが、知覚や表象ではなく、その内容をその規定性に於いてつかみ取るということであるとすれば、対象の分析が必要であり、かつ分析された諸要素、諸規定が、いかなる相互関係にあり、また、何が根底にあり、何がその結果なのか、また、結果が生み出す反作用は、何に影響を与えるのか、その交互作用をも明らかにする必要がある。

総合的認識とは、したがって、具体的なものが、諸規定をその中に包み込んでいる内容すべてを開示しつつその内的関連の必然性を明かにし、その全体像を明示することである。

9認識主体としての「結合された眼」と「結合された思惟」

カントの認識論の欠陥は、認識において最後まで自我が付きまということである。ヘーゲル哲学は、この欠点を、自己意識の他者からの否定ということを契機に、普遍的自己意識をつかみだすことにより、克服している。マルクスが、ヘーゲル弁証法の合理的核心を再評価するべきであると述べているのは、ヘーゲルの神秘的主体を実践的な社会的主体に置き換えることによって、ヘーゲルの自らを展開する主体、自らを知る主体、生命としての主体の弁証法的発展過程を再把握することを意味している。日本のインテリゲンチャが、ヨーロッパ哲学を学ぶにあたり新カント派の哲学の影響を多く受けて、ヘーゲル弁証法を、カント的思考によって理解しようとして失敗していることから、歴史的にマルクス主義を理解し得ていない傾向がある。

カント的な認識論は、カテゴリーの先験性を前提としている。個々人は、この既に作られている抽象に、その自我の関心に於いて関係を取り結ぶとされる。

例えばアルチュセールの表現では。「問題意識の切断」という表現で、剰余価値に対する考えが、リカードとマルクスに於いて違っているのだとされる。

このような理論的態度は何をもたらすのか?

抽象が、その抽象過程を含んでそこの抽象があるということを、抽象過程を蒸発させて、その結果だけを扱うならば、その抽象は、それを扱う人間の自我によってその空虚さを埋め、自分に都合のよいように色付けし、また、それを利用することになる。

マルクスはたしかに資本論第三巻において、「自由の国」という言葉を使っている。これは、資本主義の疎外構造の否定の推論に於いて叙述されたものである。したがって、社会的生産過程が、価値増殖過程として実質的に包摂されていることの否定に於いて、したがって、私有財産の発展した資本の物象性と、労働が単なるその交換価値の貨幣との交換でしかなくなっている極端な状況の否定に推論に於いて、その否定の必然的結果を述べているのであって、思い描いた希望をつらつら書いているわけではない。したがって、当然にも、人間性の回復だとか、本質の奪還だとかという、哲学的なことは一切出てこない。

多くの、後期マルクスはは哲学を捨て去ったという風に、一面的に語る人たちも、実は、このところでは反対に、哲学として、啓蒙主義的な理想として、理想的目的として読んでしまっているのである。

そして、資本主義分析からこの「自由の国」への橋渡しは、「善」であったり、「実践的目的観」だったり、単なるヒューマニズムだったりする。

すると、理論から実践へ、特定の自我のかかげる目的となり、それを普遍的な真理として打ち出して信じ込ませ、それを多数性へと拡大すること以外に方法がなくなる。理論的装いをこらし、理論的権威を動員し、常識に訴えて理論をごまかし、たぶらかす。

例えば、善の中身を見てみよう。イスラム教徒にとって女性差別は神の教えであるから善であり、アメリカの福音派キリスト教は、男と女は神が作ったものだから、LGBTは認めないのが善、私的所有を享受する立場の人は、私的所有は善、善に導かれる理想は、自我にまみれているものに過ぎない。(LGBTについて、要点のみを述べると、胎児はもともと女性としてスタートし、テストステインホルモンを浴びることによって脳は男性化する。他方、男性器は、ジヒドロテストステロンによって形成されるのであるから、浴びる程度によって男性化の程度に変化がある。動物と違って、人間は、脳機能が発達したおかげで、脳の遺伝的性格と肉体的遺伝性格が、必ずしも同時に連動するとはかがらないことが起きる。動物の脳は本能的な要素が大きいので、雌雄の境界がはっきりするだけである。人間であるがゆえに、すなわち脳の発達が進んでいるがゆえに、脳と生殖器にかかわるホルモンが異なることに由来するインターセックスやトランンスジェンダー、LGBTは自然なことなのだ。)

概念的把握ということをカント的に理解すると、概念についての規定が異なるので、結論的に言うと、恣意的な、主意主義的目的主義に向かうのはいわば必然となるのである。

啓蒙主義者が、労働者を、即自的プロレタリアートと向自的プロレタリアートという風に分けて、個人の意識の「高さ」において評価することをよく行う。

それは、単に、自分の理論を受け入れた人を「高い」と評価しただけのことに過ぎない。

しかも、個人をその意識において評価するという態度である。この考えの根底には、人間は自己意識であり、肉体はその単なる手段としてあるという考えである。

肉体が精神の単なる道具、手段として考えられるとすると、他人は、自己の精神にとって、その他人の精神が、対立するのか、相手が服従するのか、同一性の下に自己の精神の多数性への手段とするのか、自己が服従するのか、抗争と服従関係、手段化の関係としてしか考えらえないことが起きる。これが組織観となると、特定の自我への同一性が組織性と理解され、自他ともに自己を手段としてとらえ、あらゆるものを手段化していくことになる。人格性を持った主体性は、肉体を持った精神性でもある。普遍性は結合の中にしかありえないものであり、理論性は、その必然性に於いて自らを論証するものでなければ、特定の自我の他人への強要でしかない。理論的抽象も、したがって、その根拠を持っていなければならない。共通の認識として成立する理論性は、結合された認識の上に築かれた理論性としてのみ、一人一人が自分自身の理論性として確認できるものである。

すなわち、理論的一致は、結合された眼であり、思惟であり、認識なのである。

即自的意識、向自的意識という表現は、間違っているのであり、結合の質が、どこまで普遍的に発展しているかということこそが、その共同の実践に於いて、その共同の認識に於いての内容として確証されねばないのである。個人の意識性は、この中で広がり深まるのであり、また、それが結合の意識的推進力となるのである。

マルクスが、労働組合の第一の資格から第二の資格へ、我々の、行動委員階運動の中からの党」という組織論の根底的規定、階級闘争と革命闘争と共産主義運動の同一性と区別性、党と前衛の同一性と区別性、労働者党と共産主義者の同一性と区別性等々に諸規定は、結合の質の違いにおいてその内容が説明されるものである。個々人の自覚、覚醒は、この結合の中でのみ現実に、理論的となってゆくのである。繰り返すが労働者が労働者であることを捨てて理論家になるのではない。労働者が理論家になるのである。

 

 

Vマルクスの疎外論と物象化論の相互関係について

1疎外論を物象化論へ

へーゲル弁証法の転倒を通しての、マルクス弁証法の成立ということと、ヘーゲルの外化、疎外概念の批判的継承とは、一つの問題である。

ヘーゲルの外化とは、欠陥のあるもの、不十分なものという意味を含む。なぜなら、能動的に生み出すヘーゲル的主体は、統体性としての概念であり、合理的なもの、真なるものとしての理念なのだから、客観的概念と主観的概念の同一性によって回復された概念や理念は、出発点しての現象の多様な欠点や誤りをも止揚して前進しようとする動的なものである。そして再び概念、理念を自由に解き放つとされるのである。現実的なものは、生み出されたもの、外化されたものとして判断されると同時に、概念に照り返し、推論によってその不合理性を知ることになる。真なる概念はこれを止揚しようと動きだす。この円環こそ、概念、理念の働きなのである。

したがって、外化されたものは、真なるものに照り返すことによって、その不十分性や欠陥、不合理性が見いだされ、克服の衝動、意欲が出てくる。ただし、自己意識が現実的世界に客観性をあたえたとすると同時に、自己意識にかえり、己の普遍性を新たに知りつつ、さらに外化の限界を止揚すべく展開する意識の空回りなのである。

マルクスは、このへーゲルの外化を批判的にとらえ返して、次のように規定し直してる。

「労働の生産物は、対象の中に固定化された、事物化された労働であり、労働の対象化である。国民経済状態の中では、労働のこの実現が労働者の現実性剥離として現れ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、獲得が疎外として、外化として現れる。」(「経哲 八七頁」)「労働者が彼の生産物の中で外化するということは、ただたんに彼の労働が一つの対象に、ある外的な現実的存在になるという意味ばかりでなく、また彼の労働が彼の外に、彼から独立して疎遠に現存し、しかも彼に相対する自立的な力になるという意味を、そして彼が対象に付与した生命が、彼に対して敵対的にそして疎遠に対立するという意味を持っているのである。」(「同八八頁」)

この段階においては、生産された剰余価値が、資本の拡大再生産として、巨大化した資本として再び労働者に隷属を強いる力となるという資本の過程についての、また、労働過程における物象化過程における支配力についての整理に至っていないので、粗雑な展開となっているが、対象化された労働が、再び資本の力として敵対的に現れるという把握は鋭いものがある。すなわち、価値論を媒介とする論理構造になるのは、資本論以降となる。

すなわち、マルクスはヘーゲルの神秘的主体にたいして、生産し生活する社会的人間の対象的活動の労働こそが、対象を生み出し、その対象的世界において人間的活動が行われる歴史過程の疎外を問題としてのである。理念としての内なる本質なるものがあって、それが実現できていないという不満、異議申し立てとして疎外を問題としているのではない。したがって、疎外は、疎外過程として扱われることになる。

「労働者に対する資本家の支配はしたがって、人間に対する物(Sache)の支配であり、生きた労働に対する死んだ労働の、生産者に対する生産物の支配である。・・・・・このような対立的な形態を通過しなければならないのは、ちょうど人間がその精神的諸力をまずもって、自分から独立した権力として宗教的形態で形成しなければならなかったのと同じである。それは自分自身の労働の疎外過程である。」(マルクス「直接的生産過程の諸結果」森田 p204)

疎外を過程としてあつかうということそのことに、すでに、疎外の規定の本質的内容が示されているのである。

広松をはじめ、多くの論者が、マルクスの初期論文の疎外論を、哲学的とし、経済学批判、資本論以降を、哲学からの脱却と理解している傾向がある。しかしこれは誤読か不理解の結果である。

経済学哲学草稿において、注目すべきは、人間は対象的な存在であること、対象を通して人間的活動を営むことがまず大前提として規定的なことがらとして横たわること、そして、自然発生的分業の上に生産活動がおこなわれ、かつ社会的協同において生活が成立することが、歴史の出発点としてあることを踏まえることからすべてが始まる点である。この前者の人間存在の根底的規定性と後者の歴史的規定性の上に疎外過程論が成立している。

これは、物象論においても、物象化を錯認識であるとする考えは、真なる認識の強調から、レーニン主義の肯定へと向かうことになる。

このことを理解しないと、多くのへ―ゲル理解が、概念論のところで、人間の認識論上の概念装置とヘーゲルの神秘的主体としての概念や理念を混同して混乱に陥る。

経済学哲学草稿において、注目すべきは、人間は対象的な存在であること、対象を通して人間的活動を営むことがまず大前提として規定的なことがらとして横たわること、そして、自然発生的分業の上に生産活動がおこなわれ、かつ社会的協同において生活が成立することが、歴史の出発点としてあることを踏まえることからすべてが始まる点である。この前者の根底的規定性と後者の歴史的規定性の上に疎外過程論が成立している。

また「経済学批判」「序文」の文章は、よく物象化を論じるにあたって引用される。しかし、これは、物象化問題ではない。

人間と人間の関係が、物と物との関係として現れるということは、次のような前提と、その結果として理解するべきである。

人間は、対象化する動物であること、対象化した物により生活する。自然発生的分業の下では、この生産物は、人々に行き渡るためには、譲渡、贈与、分割か交換という行為を必要とする。小さな共同体においては、前者が、また、大きな複数の共同体の群れや、共同体間においては交換が行われる。交換以前は、ギフテイング、シャエリングの世界である。交換が、共同体を解体するのである。

交換の発達につれて、その結果として個人が析出される。交換の規模と頻度の拡大は、単に共同体間においてのみ進むのではなく、共同会内部にも作用する。共同体に所属しているということにおいて、分割や贈与によって成立する生活の解体が始まるからである。そして、この個々人の関係は、共同体的紐帯に替わって、生産物の交換者という性格を帯びるようになる。すなわち、商品生産社会、商品交換社会は、私的労働が商品交換という結果を通して社会的労働となることにより、人と人の関係が物と物の関係として現れるということになり、それ以前の、私的労働がそのまま社会的労働であるという関係からの変化である。したがって、物象化ということを、人間の社会的相互関係が物と物との関係として現れる、ということを指すと理解する向きがあるが、これは、間違っている。

これはマルクスの資本論の商品論のところで、私的労働が、交換価値を媒介して交換されることによって、結果として社会的関係を取り結ぶということの別の表現であり、社会的疎外であるが、物象化ではない。物という言葉が出るとすぐ物象化だと飛びつく俗流である。

物象化というのは、自らの活動が対象化する対象物が、生み出した当人たちに支配的にのしかかってくることであり、対象的過程である。措定と非規定を円環的に交互作用として繰り返す過程として現れるものなのであるからだ。したがって、物象化を正確につかむには、物象化過程論としてつかむ必要である。

マルクスは、疎外を精神的疎外と経済的社会的疎外の両面にわたって述べている。物象化論は、この後者についての内容的踏み込みであり、過程として初めてその内実が明らかになるものなのである。

一部には「疎外から物象化へ」というとらえ方をした誤りがあるが、「疎外を物象化として」というのが正しい理解である。より正確には、「疎外過程を物象化過程として」と表現するべきである。

疎外と物象化の区別と同一性の不理解も、この過程的分析を理解しない結果なのである。

廣松渉は、「疎外論から物象化論へ」というテーマにおいて、物象化論を論じた。これについてはすでに批判したのであるが、「疎外論を物象化論へ」というべきであったと考える。

この誤りは、二重になっている。彼の疎外論自体が誤っていることと、したがってその否定の上に、次に、物象化論を錯認識としてしまったのである。疎外論の誤りが、物象化論に理解をゆがめてしまったのである。

なぜそのようになってしまっているのかというと、彼の理論の根底に、現実に生きている人々、労働し生活する人々が欠落しているからである。

2物象化論の規定

物象化の問題は、この次から始まる。

人間と人間の関係は、物の生産者、または物の所有者として、物と物との依存関係へと移行する。自然発生的分業の元では、原始共産制の共同体のような、ギフテイング、シェアリングが崩壊すると、生活諸資材の調達は、交換によるしかなくなるのである。交換への依存が高まることは、交換が社会を覆うことによって、交換価値を表出する物を生み出す過程に入る。最初は、価値を表すものとして、すなわち尺度として現れ、次に交換を媒介するものとして登場する。特定商品は、人々の営みが作り出すものである。経済学者は、個々の商品から交換価値が抽象されることによって、特定商品が生まれ、それが貨幣へと変化すると考える。しかし、抽象が起きるということの背景には、長期わたり繰り返された交換という行為の膨大な積み重ねがあって、現実的抽象が起きるということ、同時にその過程は、その現実的抽象行為自体が、疎外過程であるということを見落としてはならない。依存を深め、それに支配されるという事である。

交換価値が、現実的に物として現れるということは、単に、交換の尺度として、または、交換の媒介としての機能にとどまらない性質を持っている。便利なものとして生み出された貨幣は、媒介者の性質をかなぐり捨てて、主人公へと変身する要素を発生当時から持っているからである。

そもそも交換において、お互いに損をしないようにしたいということから、交換物を入手するのにどれだけの苦労をしたのかということをぶつけ合うこととなる。山の共同体は、イノシシの肉と毛皮は、大勢の大人が、時間を掛けて作った武器を持って、生命の危険を賭して仕留めたものであることを強調する。平地の共同体は、トウモロコシの栽培は、サルとの闘いで、収穫に至るのはほんのわずかだという貴重品であることを強調し、海の共同体は、塩を作るためには、火で割れないツボを作り、何日も焚いてようやく作れるのだいい、苦労の度合いを比べあうこととなる。最初はいろいろな偶然に支配されて交換比率が決まるであろうが、交換が広範囲に広がり、頻度が高くなるにつれて、情報が広がるごとに交換尺度が常識的に決められてゆくことになる。それは、その苦労の程度が相互に了解されるということを意味する。その根拠は、労働時間にある。もちろん、その労働の危険度や、天候災害によるダメージなども含まれるが、基本は労働時間である。労働によって生み出され、対象化された商品の価値を体現する物として、実態として現れた物という性格は、すなわちその時代時代における労働によって生み出される富を表すこととなる。

商品―貨幣―商品という交換から、人々が、個々に時間をかけて出かけて行って入手するのが困難な、遠方の商品を運んで付加価値をつけて売るという、貨幣―商品―(貨幣+Δ貨幣)という商いが発生することにより、貨幣は自己増殖をするものとなり、蓄蔵貨幣という世界が生まれる。また、他方、税収を現物から貨幣に変えることによって、共同体の支配者は、貨幣という形で富を集積する。貨幣は富として蓄積されることとなる。

マルクスの疎外論と物象化論はどのような関連なのかということについ論及するにあたって、マルクスの疎外概念を再整理してみよう。

マルクスの疎外に規定は、次の表現に端的に示されている。

「疎外―それはどうでもよいような疎遠性から現実的な敵対的疎外にまですすまざるをえない」(「経済学・哲学草稿 ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判」)

疎外は単なる疎遠性でなく、敵対性まで突き進むものであるとしている。敵対性ということは、対象化する活動主体にとっての敵対性である。

この疎外という考えかたは、貨幣の神秘的力についてあてはめられている。

「貨幣が一切の人間的および自然的な性質を転倒させまた倒錯させること、できないことごとを兄弟のように親しくさせること―神的力―は、人間の疎外された類的本質、外化されつつある自己を譲渡しつつある類的本質としての、貨幣の本質のなかに損している。貨幣は人類の外化された能力である。」(「経済学・哲学草稿 貨幣」)

資本主義の下での労働については次のように表現している。

「われわれは国民経済上の現に存在する事実から出発する。・・・・・さらにこの事実かは、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、ひとつの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない。労働の生産物は、対象のなかに固定化された、事物化された労働であり、労働の対象化である。国民経済的状況のなかでは、労働のこの実現が労働者の現実性剥離としてあらわれ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、対象の獲得が疎外として、外化として現れる。」(「経済学・哲学草稿 疎外された労働」)

さらに続けて次のようにも表現している。

「労働者が彼の生産物の中で外化するということは、ただ単に彼の労働が一つの対象に、ある外的な現実存在になるというばかりでなく、また彼の労働が彼の外に、彼から独立して疎遠に現存し、しかも彼に相対する一つの自立的な力になるという意味を。そして彼が対象に付与した生命が、彼に対して敵対的にそして疎遠に対立するという意味をもっているのである。」(同上)

このように、疎外については、その対象の敵対性、対象への隷属としてつかまれているのである。

ここで重要なことは、この疎外の規定は、分析的認識だということである。疎外がなぜ生まれるのかという必然性において規定されていないということである。

アルチュセールを検討したところでも示したように、マルクスはこの論文の中で、資本主義的生産過程についての諸規定と貨幣制度との諸規定を統一的に概念的に把握する必要があると課題設定しているのである。

疎外が生み出されるところの根拠と必然性の解明が、諸規定の概念的把握においてなされねばならないという課題が設定されているのである。

前期マルクスが哲学的で、後期のそれが科学的というに基づく疎外の把握は、この課題設定の意味を理解し得ていない証拠である。

疎外論が物象化論として、過程論として叙述されるためには、価値論、剰余価値論の整理を待たなければならなかったのである。

3価値論を媒介とする物象化論

人間がまだ狩猟を主な生産的活動としていた時期には、生活エリアを守ることは死活問題であり、戦闘が不可欠であったとおもわれる。死者のほとんどは戦闘によると思われている。

しかし、農耕が始まると定住型の共同体が生まれる。縄張の保持という点では、その重要性は相対的に低くなる。戦闘や略奪という方法は相互に疲弊をうむことから、力の均衡が生まれると友好的な経済活動が生まれる。

穀物の収穫物の備蓄はその共同体の存立にかかわる重要な事項であった。交換が友好的に行われなければ、蓄えられている穀物や道具などの富を狙う暴力的略奪行為となる。日本

でも弥生式土器の時代における大量殺戮の跡が発見されている。

共同体の相互の関係においては、必要なものを手に入れるための余剰物の交換として現れる。譲渡や分割ということを、共同体の外へ向けてひろげること考えられない。なぜなら他の共同体を維持するほどの豊かさは考えられないからである。したがって、略奪ではなく、交換という方法が、友好的な関係となる。

共同体間の交換の始まりは、女性の婚出と里帰りからではないかという説がある。

婚出後も親子関係が維持されて、生活や生産や文化の違いが交流される。道具や食品が女性を通してその存在が情報として広がる。交換が始まる。

交換過程において、相互に損をしないように、異なる品物を突き合わせて、どれだけ苦労して造り上げたものかということが付き合わされる。

猪を捕まえるために狩りの道具を準備し、また、いのちの危険を賭し、多人数が作業するのだということを主張する。方や、トウモロコシを作るに、畑を作ることの困難のみならず、ヒヒや猿や猪が食い荒らすこととの闘いの末にようやく収穫することができることを訴える。海の共同体は、塩を作るためには、火で割れないツボを作り、何日も焚いてようやく作れるのだいい、苦労の度合いを比べあうこととなる。

この苦労と苦労の等価が成立しないとお互いに満足しない。交換が成立するためには、この苦労が共通認識として常識となることが必要である。最初は、手探り状態であろうが、それは、生産が拡大し、交換が広くなることによって、情報が共有され、平均化が進むであろう。知る限りの常識的相場というものが生まれる。

最初はいろいろな偶然に支配されて交換比率が決まるであろうが、交換が広範囲に広がり、頻度が高くなるにつれて、情報が広がるごとに交換尺度が常識的に決められてゆくことになる。それは、その苦労の程度が相互に了解されるということを意味する。その根拠は、労働時間にある。もちろん、その労働の危険度や、天候災害によるダメージなども含まれるが、基本は労働時間である。

そうすると、余剰物が交換に回されるということから、交換を目的とする商品生産が発達する。交換が発達すると、共通する尺度となる特別な商品が生まれることになる。

当初は、皆が良く知っているもの、即ち使用価値が高く、またその苦労がわかりやすいものが尺度となる。同時に、必要とする商品との直接的な交換が、時間差によってできないような場合、手持ちの商品を別の商品に担保するという、方法が生まれる。尺度が正しければ、形を変えても必要な商品と交換できるからである。このようにして、尺度となることによって、この尺度となる商品は、媒介する商品としても有効に機能することになる。なぜなら、その尺度が維持できるなら、損をしないで、その価値を時間を越えて別の必要な商品に取り換えできるからである。

そうすると、媒介する商品は、カビが生えて劣化したり、飼っているうちに死んだりするような変化があるものは避けられることになり、量が少なく持ち運びが便利で、分割可能で、恒久性のあるものが当てられることになるであろう。特定商品が、貨幣となる。

この過程こそ、価値を現実的に抽象する歴史的過程なのである。

この現実的抽象過程を考慮することなく、価値論を理解しようとすると、宇野・久留間論争のような不毛な論争が起きる。

資本論の価値形態論において、リンネンルと上着との等価形態を論じるに、リンネンルの商品所有者が上着を欲するということがなければならないという宇野氏の主張は、次の点で間違っている。

既に上着が作れる程度に生産能力があり、かつそれが商品となって市場に出回割っているということが実際上の前提であるということ、そのことはすでに多くの商品が市場に出回っていて、この上着も、他の商品との関係で、媒介的にその交換価値を与えられているということ、ののような市場を前提にして、この二つの商品が、その交換価値を、他を媒介して、自らを明らかにするという等価形態なのである。それをあたかも、そこには二つのものしかなく、二人しかいなく、他方が相手の持ち物を欲しいと思わなければ交換がそもそも発生しないではないかということを問いとして発するということそのものが愚門なのである。学者特有の抽象的範疇の抽象的取り扱いと、それにちょっと付け加える生々しさという小賢しさが、見事に失敗している例なのである。久留間氏は、商品である以上、すでに使用価値と交換価値のとしての商品であるから、あらためて、上着の使用価値を取り出す必要ないと反論している。半分正しいが、彼も、交換価値が、社会的諸関連の中で扱われ、一定の生産力、一定の市場規模を前提とし、したっがて、上着は他の商品に多重に媒介去れているものとしてリンネンルの前に等価形態としておかれているという、議論の前提に返しての批判をおこなえていないで同じ土俵にいるということが残念なのである。これもまた、抽象を抽象として扱う学者なのである。

商品所有者の欲望を考慮するのかしないか、という設問そのものが間違っているのである。

マルクスは、「経済学批判」「経済学の方法」の中で、交換価値についての前提について次のように述べる。

「たとえば、もっとも単純な経済学的範疇、たとえば交換価値は、人口を、一定の諸関係の中で生産している人口を想定するし、またある種の家族制度か、共同体制度か、国家制度などを想定する。交換価値は、すでに与えられている一つの具体的な生きた全体の、抽象的、一面的関連としてほかは、けっして現存できない。反対に、範疇としては、交換価値はノアの洪水以前から定在を持っている。」

このように、現実的な社会における人々の営みの中にしか交換価値は扱えないのである。

既に商品としての生産が大規模に行われ、各商品は使用価値として市場に持ち込まれ、それぞれが他の商品との関係において自分の交換価値を反映するということ、すなわち他を媒介することによって自分の価値が表面化すること、この関係は、すでに社会がもつ欲望を前提にしているのであるから、個々の商品所有者が、他の商品に欲望をもつか否かという問いそのものが間違っているのである。このような間違いが起きるのは、抽象を単なる具体的なものの捨象としての抽象としてしかつかまず、したがって、なまじ現実的に理解しようとするからこのような逆立ちが起きるのである。抽象的範疇は、社会的な抽象過程をもって、現実的諸関係の中に規定されているものとして扱われているのである。したがって、交換価値を扱うに当たっては、それがいかなる生産段階で、いかなる社会関係においての交換なのかということ抜きにはその内容を扱えないのである。

物々交換が始まった初期には、交換価値は、極めて主観的で、偶然的なものとして現れるであろう。それが適正なのかどうかもお互いにわからないようなものとして現れるであろう。やがて、人口が増え、欲望が拡大し、生産が向上するにしたがって、交換の頻度が上り、交換が広がるにつれて、すなわち媒介が多重に、また広く行われることによって、だんだんと一定のところに収斂してい行くという過程を持つのである。

このことをきれいに捨象して、あたかも地上に二人が、お互い物を持って向き合い、そこで交換価値をひねりだすということを考える考え方が間抜けなだけである。

交換においてはお互いに異なる労働であるが、商品に結実している苦労を共同認識すること、社会的な常識として認知することの上に、交換価値が抽象されてゆく。そうでなければ力ずくとなる。そして、命の危険が少なくなれば、苦労は労働時間ということになるであろう。しかも個々の商品の生産に実際に必要とした労働時間ではなく、交易がおこなわれているエリアの常識的な平均的な労働時間である。ある個人が、自分の商品はもっと時間がかかっていると主張しても、それは下手だからと一蹴されるだけである。情報の共有が、不断に交換価値を個々の偶然性からを排除し、皆が認める価値へと収斂することになる。

価値を表す尺度となる特別商品が、さらに媒介する役割を持つようになると、それによってあらゆるものを手に入れる手段として意味が生まれると、その量を多くすることが、欲求の対象となる。

交換のために生産されていた商品は、今度はこの特定商品を手にれるための商品生産となる。

商品生産は価値形成過程となる。直接他の商品との交換のためではなく、特定商品の入手のための生産は、飛躍的に拡大するであろう。

商品の交換を媒介するものとしての特別商品は、蓄積されることによって、次に商品と交換されて、それをさらに特別商品にプラスをつけて交換する商売が生まれる。単に媒介的役割としてあったものが、それ自体が目的となり、主人公となる自己増殖の回路が生まれる。

人間と人間の関係は、物の生産者、または物の所有者として、物と物との依存関係へと移行する。自然発生的分業の下では、原始共産制の共同体のような、ギフテイングが崩壊すると、生活諸資材の調達は交換によるしかなくなるのである。もっとも、共同体内のギフティング、シェリングは根深く残るものであり、土地が豊かで、農業と手工業のバランスが良いという条件が整っていたスラブ共同体のように、貨幣の発達が遅れる場合もある。

交換への依存が高まることは、交換が社会を覆うことによって、交換価値を表出する物を生み出す過程に入る。最初は、価値を表すものとして、次に交換を媒介するものとして登場する。

経済学者は、個々の商品から交換価値が抽象されることによって、特定商品が生まれ、それが貨幣へと変化すると考える。しかし、抽象が起きるということの背景には、長期にわたり繰り返された交換という行為の膨大な積み重ねがあって、現実的抽象が起きるということ、同時にその過程は、その現実的抽象行為自体が、疎外過程であるということを見落としてはならない。貨幣に依存を深め、それに支配されるという側縁である。

交換価値が、現実的に手に取れる物として現れるということは、単に、交換の尺度として、または、交換の媒介としての機能にとどまらない性質を持っている。人々にとて便利なものとして生み出された貨幣は、媒介者の性質をかなぐり捨てて、主人公へと変身する要素を発生当時から持っているからである。

商業の発達は、特定商品の重量に基づく譲渡方法を、決まった単位で算術できる方法へと移行するであろう。古代エジプトのDebenや、メソポタミアのBiltuなどは、金の重さの単位である。

砂金が豊富で、交易が盛んな場所では、砂金をいちいち計量するより、鋳造して単位を決めることは、利便性を高めることになるであろう。

アナトリア半島のリュディアで発明されたエレクトロン貨は最古の鋳造貨幣として有名である。

物が物との関係において媒介物としての特定商品を生み出すように見えて、交換という行為の繰り返しの過程において社会が共同認識をもとに媒介物=価値の表示物を生み出しているのである。

この貨幣が生誕するまでの過程は、商品の交換という社会的関係が、その中から商品に含まれる交換価値を析出する過程であり、現実的抽象過程であると同時に、それを物として独立させ、貨幣とし、硬貨として君臨させたのである。人々は、この貨幣に依存することを強制され、従属するようになる。蓄蔵貨幣は力として社会に現れる。

商業資本の発達は、生産力を飛躍的に発達させ、社会全体の富が拡大する。

これは私有財産の拡大の第一歩である。

商業資本は、単に入手可能な商品を売買するだけではなく、自ら、資金を貸与して商品生産を行わせることによって、大量の商品を商うことになる。しかし、この場合は、商品を作る労働は、価値形成過程として現れるが、労働者は、材料も、道具も、出来上がった商品も自分のものである。貸付金の担保として取り上げられない限り、商品の処分権も持っている。

その交易内部での諸情報により、どの商品がどの程度の価値があるかはわかってくるであろう。しかし、商品を持っている各自が、自分の商品と、その他の商品についての見当が付くだけで、いざ交換となると、お互いに主観が対立し、相互の意思決定が必要となる。そこで共通する商品との関係での相互の価値がわかれば、お互いに納得して潤滑に交換が成立することになる。使用価値が高く、それゆえに多くの媒介経験している、いわば世慣れした、比べ安いものがあれば便利であろう。これが、特別な商品として、尺度として現れる。

これは、「資本論」の中では、個々人が、己の商品を一般的等価物として、他人の商品を特殊等価物としてみなし、皆が交換において、突き合わせるのはこの一般的等価物であると主張する主観であり、そうするとそれはもはや一般的等価物ではなく、ただ相互が対立するだけで、共通の鏡となる一般的な相対的等価物が必要になるということから、腐ったり目減りしたりしないで安定していて、かつ多くの媒介を経験済みであり、分割可能な特定商品が生まれ、それが貨幣となるという箇所に記述されていることである。

価値が社会的に共通に認められるコンセンサスにおいて物として、交換という社会的行為の中から浮上してくるのである。

価値が尺度で数量的に表されることによって、価値の内容が抽象的一般的労働時間であること、具体的な特有の労働の内容は消え去っていること、商品生産は、価値形成過程となることへとつながる。

各商品が、特定商品、貨幣に媒介されてその価値を表し、他の商品も同じく媒介されてその価値を表すことによって、その商品の具体的生産者の実際にかかった労働時間の多少は関係なく、各生産者の主観を越えて相場が出来上がる。それは、自分のためや家族のためや共同体のために必要な品物を作るという特定の使用価値生産と違った、商品の使用価値のための生産へと変化する。汎用性、量的規格などが生まれる。そして、この使用価値に載せて、交換価値を持つものとして、商品が商品として生産される。余剰物の交換とは異なる、商品の交換である。

個々の労働者が、私的労働に於いて、その使用価値を直接に自分や、家族や、縁故者へ、または属する共同体へ与える場合は、直接の社会的労働として結果する。私的労働は直接他人の使用価値を生み出すものとして、社会的労働にの一環である。それはまた、生産物と生産物の物々交換の場合も、生産者相互の意志においておこなわれている行為であり、直接に労働が結合されている。

しかし、商品交換の社会は、私的労働は、お互いに直接的に関係してるのではなく、物の交換を媒介して、結果として、社会的労働として確認されるという性格である。物の交換には、その生産者は、透明でもよいのであって、商品と商品が等価交換されれば、人と人の関係は無視してもよいのである。

したがって、そこには、だれだれの労働という性格は消えてなくなり、抽象的一般的労働が等価交換されているのである。抽象的労働ということは、顔のない単なる人間として商品所有者となるということである。

したがって、マルクスは、商品生産の発達につれて、人間の社会的関係に現れる変化を次のように述べているのである。

「彼らの私的労働の社会的関係は・・・・・諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸仏の社会的な諸関係として、あらわれるのである。」(「資本論第一巻第一章商品」)

特定商品、または貨幣が、交換の尺度として、または媒介として現れる段階は、使用価値が別の使用価値にとりかえられるということを意味する。多くの生産物が、社会的に行き渡ってゆく過程である。

しかし、生産が拡大し、流通が発展すると事態は一変する。

売りと買いの間に、時間のずれが生まれる。とりあえず売る。手元には、貨幣が残る。この貨幣で自分に必要な商品を購入する。そうすると、使用価値から始まって使用価値で流通から外に出る。

他方、貨幣を出して購入した商品はストックされて、しばらくしてから購入者が売る。手元には貨幣が残る。価値から始まって価値に終わるという過程が生まれる。この時、終わりに出てくる貨幣にプラスαが付くと、価値の増殖ということが起きる。この増殖した価値を元手にして、同じサイクルを切り返せば、無限に増殖をおこなうことができる。所有欲は膨らみ、商業資本がさらに生産と流通を拡大すえる。

ここに、商品―貨幣―商品という回路から、貨幣―商品―(貨幣+α)という回路ができてくる。

この回路にある貨幣が資本の誕生である。この貨幣は、柵の奥にツボに入れられて保管されている蓄蔵貨幣と異なり、価値増殖の意志によって動かされている増殖を目指すために使われている貨幣である。したがって、この意志は、資本家の意志である。資本家のいない資本はない。

これこそ貨幣は媒介する者から主人公、従者から王へと変身する瞬間である。そして、同時に資本家なるものの生誕である。

商品生産社会が、人間の社会的関係が物と物との価値を媒介とする関係として、直接的ではなく結果としてしか現れないという社会的疎外形態の第一歩であるとしたら、労働が、有用労働と一般的抽象的人間労働の二重性を持つようになる商品生産労働が現れ、使用価値と交換価値を二重に持つ商品の登場がその必然性に於いて貨幣を産み出し、その貨幣が、媒介から主人公へと踊り出ることは、社会的疎外の第二歩である。商品を大量に生産することができれば、より多くの価値を形成することができ、したがってより多くの貨幣が手に入る。奴隷労働が欲望によって生み出される。主従関係における強制された労働が始まる。奴隷の起源は古い。共同体間の戦争の捕虜を戦利品とともに、共同体の奴隷として利用した。しかし、この資本の登場は、奴隷の私的所有を推進した。この段階における労働の性格は、このような奴隷労働を含みつつ、やはり商品は、自分の労働の所産であるということであり、商品の処分権は生産のものであった。たとえ、商人が、材料、道具の費用を貸し付けてそれによって生産されたとして、商品は売られたのであり、貸付金は返済されたのであり、生産過程は、商人の支配下にあるわけではない。

流通過程における価値増殖は、商品がその持ち主相互の等価交換においては発生しない。しかし、商品は、生産されただけではなく、それを販売するための労働時間が加わって初めて実際の交換が行われる。たとえば、海の近くで作られた塩は、山の集落で価値が高いのは、山では作れないもので、運搬の労働時間が価値として付加されるからである。

商人は、仕入れたものを、運搬して高く売れるところで販売する。商人は、購入した先の商品生産者に、商品を同じ価格で戻すと同じ事を他人にするのではない。販売するという労働時間の価値と、共同体間における分業の結果としての必要商品の運搬費用の価値を追加して成立している評価価値で販売する。したがって、もし商人が大量に入手した商品の運搬を低価格で運搬することができれば、付加価値が生まれる。商品は、交換価値を含む以前に、使用価値でなければ誰も見向きもしない。なかなか手に入らないものでどうしても必要なものは、需要が大きい。

流通と商品生産が発展すればするほど、生産と販売が分離する。生産者が商品を直接交換にもってゆき、貨幣と交換するということは、生産にかかる労働時間と、販売にかかる労働時間を含む価値との等価交換を要求しているはずである。商人は、生産者から、販売の過程を分離してその価値を引いて商品を入手することになるであろう。

商品は生産されるだけですぐ貨幣になるわけではない。販売するという過程を経て初めて貨幣と交換される。生産者も、自分で販売する労を省けることは、生産に力を集中できるので好ましいことである。商人の付加価値は、商品を規模に扱うようになればなるほど大きくなるであろう。交易は海を越え山を越え拡大してゆく。

流通過程において、商品―貨幣―商品という形の、使用価値―価値―使用価値の順番での交換は、

誰でもわかる。貨幣―商品―(貨幣+α)という商人の、卸価値―商品の交換価値―(卸価値+α)はよく誤解される。

マルクスは、流通はその中では、等価交換が行われるのであるから、価値増殖はないという。その通り、どこにも価値増殖は起きない。しかし、貨幣から始まり、貨幣で終わる過程が、螺旋的に繰り返される過程で、追加価値が生まれるように見える場合がある。

このことと、すなわち商人利益と、剰余価値を混同して、マルクスが、商業利益を剰余価値と間違えているとか、流通過程において、等価交換以外の交換がおこなわれるとかと、混乱してしまった人が多い。

まず、流通過程で、商人利益が発生するのは、次のような過程そのものの構造にある。

生産者が、商品を作り、それを市場で売るとする。貨幣を手に入れて、その時か別の日にか、貨幣で物を買う。貨幣は媒介する役目を終える。

この時の交換価値は、生産者が製品を作り、市場へ運び入れて、時間をかけて売り終わった瞬間に、その交換価値が顔をだし、貨幣の量が決まり、その交換価値に於いて貨幣と交換されている。この瞬間、商品は、交換価値が形態変化してのであるから、商品から消え失せて、単なる購買者の物になる。

もし、商人が、この市場でこの商品を買って、その横ですこし高く値をつけて売るとしたらだれも買わない。商品には、その貨幣が流通している範囲内においては、その価格はほぼ常識的に知れわたっている。従って、売値より安く手に入れて、利を稼ぐことができるのでなければ、商人は生まれないことになる。なぜそのようなことができるのかというと、商品の価値の中には、製品を作る労働時間と、それを市場で売る労働時間を含んでいるからである。

商人は、生産者から、製品をその製作にかかった労働時間の価値で手にいれる。たとえば、市場が10日おきに開かれるとする。九日かけて作った製品を運んで、一日かけて売るとする。商品の総価値をここで十ポイントとしよう。内訳は、製品の価値が九ポイント、売る努力が1ポイントである。

商人は、生産者のところから製品を馬車で集めて、その時に、九ポイントで替え兵と交換することができる。生産者は、売りに出かける一日を生産に充てることができるので、損をしない。商人は、出来るだけ効率よく他の生産者のところを回り、たとえば、この生産者と同じ製品をまた購入したとする。製造する時間よりも、積みこみ運ぶ時間は短い。二日かけて数軒回って、馬車一杯の製品を手にいれる。そうして十軒分手に入れたとしよう。

市場で十ポイント×十=一〇〇ポイントで売る。商業利益は十ポイントとなる。販売にかけた労働時間は三日分である。

生産者が一日一ポイントであったものが、商人は三.三ポイントである。

馬車の維持費を考えても、利益は大きい。

すなわち、商人の利益は規模が大きくなればなるほど飛躍的大きくなる。投入した貨幣が、太って還流する。それが繰り返されるので、商人資本は増大する。

W―G―Wの単純流通は、商品のための製品作りが行われるようになり、生産と流通が拡大するにつてれて、製造者と販売者が分離する。ある生産者が、忙しいからと隣の生産者に、一緒に市場で売ってもらうとする。そうするとG=G1(生産者の取り分)+G2(販売者の取り分)と分けられる。

W―G1+G2)―Wという形に変化する。

G―W―Gは、(G1+g2)―W―G1G2)というかたちになる。g2は販売者の労働の価値を示す。

すなわち、Gの中身は、g1(製品の交換価値)+g2(商人の労働の価値)なのである。

したがって、貨幣―商品―貨幣という商業流通は、(G1+g2)―W―(g1+g2=G)という形になり、g2は、商品の労働時間の価値として、この過程に持ち込まれて、最後に貨幣として出てくるのである。

したがって、この流通において価値は増えも減りもしてしていない。

しかし、何時の間にか、この流通が発展してゆくと、どう考えてもG—W―(G+ΔG)という現象が起きる。剰余価値が発生していることが見える。流通過程では等価交換のはずなのに、どうしてこんなんことが起きているのだろうか?このように設問がされる。

流通では価値増殖は起きないはずなのに、なぜこのようなことが起きているのか?

この解明が、産業資本の秘密の暴露へとつながるのである。

しかし、この流通過程の基本構造は、興味あるものである。

交換価値の担い手としての商品の生産がおこなわれ、―その前提としての使用価値のあるものであるという性質は、ここでは、交換価値の条件であって、商品の作られる目的ではない―貨幣という価値そのものとの交換において、物の中に潜んでいた交換価値が表に現れ、それを数量として数え、貨幣という形で形ある転換を遂げ、その瞬間に商品の交換価値は瞬時に消え失せ、したがって、商品は、使用価値であると同時に交換価値であるから商品なのであって、使用価値だけになると商品でなくなる。消えた交換価値は、商品販売者の掌中に貨幣という実物で握られる。

商人資本の場合は、貨幣という価値を商品という交換価値に形態転換し、販売努力という価値を加えて、購入者の貨幣と形態変換することで、投入貨幣より引き上げた貨幣を大きくする。これを元手に再循環が行われ、飛躍的な価値形成が行わる。

この過程に投入される貨幣こそ商人資本である。これはもはや、尺度としての貨幣でもなく、また交換を媒介する貨幣でもなく、貨幣がまず最初の出発点をなし、自らを膨らませて終点を持つ貨幣となる。

ここで話を元に戻すと、この商人資本について、間違った考えを持っている人々も多いということを述べた。

その典型的な一例を挙げてみよう。

「古典派は、産業資本の利潤が等価交換によるものである以上、生産過程からしか出てこないという。マルクスも流通過程から剰余価値が出てこないというが、同時に、それは生産過程においてだけでは実現されないと言う。これは商人資本だけでなく産業資本についても言えることなので、我々は先ずこれを商人資本において考える。一つの価値体系の中で、流通部門で剰余価値を得るのは不等価交換であり詐欺であるが、異なる価値体系の間で交換がなされる時、各々の価値体系の中では等価交換が行なわれ、同時に剰余価値が得られる。この時はじめて上記のマルクスのアンチノミーは解消される。」(柄谷行人 「トランスクリチーク」)

交換は、当初は共同体内の余剰物が、他の共同体の余剰物との交換から始まる。交換のための商品が作られて交換に出されることから、特別商品が貨幣と変貌する。

共同体間の相互の価値は、そんなに違わない。道具も、生活程度も大きな差が発生するほど発達していないからである。いわゆる交易が生まれるのは、商人資本が大きくなってからのことであって、それ以前に商人資本は発生するのである。

交易は商人資本の大規模な活動形態に過ぎない。商人資本の活動形態から商人資本がうまれるというパラドックスである。

交易から商人資本が発生するというのは、間違いであって、また、共同体間の交換とそれを重ねるのも間違いである。

しかも、商人資本が剰余価値をうむという表現は、商人資本の本質を理解していないことから出てくる間違いである。

共同体間の交換は、多くの場合、作られないものが必要で交換を希望するのであるから、共同体間で価値が違うということなのではない。作られていないものを比較しようがない。だから共通する一般的等価形態においてを媒介する形で、等価交換するのである。

遠方の共同体の商品が、現地では安く、当地では高いのは、その運搬費用、販売努力の価値が付加されるからであって、暖地のバナナが寒地で高いのは、珍しいからではない。寒地では、商品として作りえないのであるから、価値の相対的差があるわけではない。共同体間の価値体系の相違に原因を見つけようとする姿勢がそもそも間違っているのである。

交易の拡大は、買い付け、運搬、販売を大規模にすることによって、商業利益を上げるために発展したのである。

そして、この交易とともに、全世界規模の略奪型植民地が拡大するのである。

そもそも資本論の誤読により、アンチノミーとしてとらえたところから、無理が発生しているのである。

商人資本の流通過程は、等価交換であるから、価値がその過程で増えるはずがない。これは正しい。しかし、流通が発展してくるにしたがって、貨幣から出発して貨幣で終わる同じような過程で、どう考えても、剰余価値が発生している場合がある。これは一体どういうことなのか?これを解明しなければならないという課題設定が行われたのである。そして、資本が、賃労働に出会うことが、剰余価値のなれそめであるという、賃労働の分析に移行するのである。

商人資本の流通過程においては剰余価値は発生しないのは当たり前である。

それを、誤読に基づいて、誤まった理屈をつけて解決しました、と見えを切ってひっくり返ったのである。実に二重三重に残念な結果となっている。

この程度の理解力で資本論を云々しているのであるから、後の論述も程度が知れている。

このような誤りを犯す原因は、現実を知らないで、現実から出発せず、自分で分析せずに、抽象された言語から思考を始めるからである。その抽象を内容的に理解していないからである。認識論上の根本的欠陥がある。カント的な概念は、概念の先験性がうたわれる。概念は、人間の社会的活動によって生み出されたものである。抽象的概念は、抽象作用の結果である。この現実、または具体的個別性を蒸発させた抽象は、それから始めると多くの誤りを生みだす。しかもカントは、この抽象に、各自の関心や問題意識を関連付けるのであるから、すなわち自我を絡めるのであるから、一層主観的なものとなるのである。ヘーゲルはこの主観性を批判して、認識に自我が当てられて最後までこの自我が残ること、単に判断のみならず推論において、その必然性を論証すること、すなわち主語と述語の貫通の重要性を訴え、現実から出発し、主観的概念としての自分自身を知り、かつこの概念が客観を措定するという形で、常に現実から現実へという回路を持っているのである。ただし、現象は虚しい物であり、真なるものは実体であり、概念であり、理念であるとしたのである。当然マルクスも、上向と下向は、現実を捨象しない抽象の方法であるとした。

カント的傾向で、マルクスを理解しようとすること自体、全くのミスマッチなのだ。

柄谷が間違っているということを述べようというのではない。この人物そのものについてあまり関心がない。問題は、多くのカント主義者が、同じような間違いをしていること、その典型的な姿がここにあるということを示したいのみである。

抽象から始め、その抽象が、社会的抽象過程を経て、その言葉があるということを消し去って、他の抽象と絡ませて論理展開をしようとする姿勢が、いかに大きな間違いを生み出すかということ、先験的概念に自我をむすびつけて理論展開を始めようとするカント的理論構造の欠陥が問題なのである。

言語は、共に語る他人が存在することが前提である。言語の抽象も、他人を前提とする。再認識によって生まれる知性、理論は、形式的には個人の内部の思惟作業のように見える。しかし、それは共有されることが必要とされているがゆえに行われるのであり、共有されるには、そこに必然性と論証が必要なのである。

抽象的概念が、その形成される過程抜きに、単に知性的世界に浮かんでさまよっていて、自我がそれをつかんで紐をつけるというのでは、そこには他人はいない。自我は、その紐を他人にも強要するだけである。したがって、当然にも啓蒙哲学となる。

カント的世界を下敷きにマルクスを読む人々は、現実を捨象しない、他人とともに築かれるという本質を持つ抽象を理解し得ない。同じく、カント的世界を下敷きにヘーゲルを読む人々も、ヘーゲルを理解できず、当然にもマルクスの概念的把握という意味を理解できないのである。日本のインテリゲンチャが、戦前ドイツ哲学から学ぶ折に、カントに偏り、新カント派系列が多数になったという過去を引きずって、ヘーゲルを理解する力が弱いのは致し方ないとして、むしろ、常識的論理をカント的に粉飾して、俗流の理論へ引き寄せて理解しようとする姿勢が問題である。

貨幣の登場が、単なる所有欲ではない、致富欲を駆り立てる。

所有欲は、その使用価値を累積するだけである。致富欲は、手元の富を増殖させる欲望である。それは、とどまるところを知らない欲望であり、取りつかれた欲望である。

貨幣の登場から長い年月を経て今や世界で最も裕福な八人が人口全体の下位五〇%を合わせた額と同じだけの資産を握っている。また米国内では上位一%が富の四二%を手にしている。(国際非政府組織オックスファム報告書)

富の偏在だけではない。生きる寿命も分かれる。

米国で所得上位1%の男性の平均余命は八七.三歳で、下位一%の男性よりほぼ一五年長い。米スタンフォード大学などの研究チームがそんな調査結果を発表している。

貨幣は、一般的価値形態として、万能の神のごとく登場したが、この万能の神は、まず父として商品に形を変え、再び子を生みだして父としてよみがえり、合体して再び父となり、この過程を繰り返しつつ太る神として登場する。

貨幣がまた貨幣を生むのであるから、これほど優秀な致富欲を満たすものは他にはない。

物はいくら所有してもそれ自体増えることはない。奴隷の所有は富を拡大するが、それは労働の成果を取り上げているに過ぎない。

資本として活用される貨幣の登場こそ、冨が富を産む真の私有財産の登場である。

資本の概念は、ここに生まれる。

マルクスの私有財産という概念は、法制的な私的所有一般をさすものではない。この致富欲によって生み出される富を私有財産という言葉で、その変容の過程を含めて使っている。

したがって、賃労働と資本の関係にある資本を、私有財産の完成形態としてとらえているのである。そして、今日、この資本が、株式会社となり、さらに持株会社(ホールディングカンパニー)となり、国際的なファンド支配のもとにおける株式資本主義となることによって、この富=私有財産は倍増に倍増を重ねる仕組みとなっているのである。

産業資本は価値増殖過程として現れるが、資本としての単純な形態は、貨幣から商品へ、商品販売から貨幣へという資本の総過程の基本構造は変わらない。しかし、商人資本が販売者の労働時間の価値を集積し、かつそれを大規模化することによって貨幣を増やしたのに対して、価値増殖の回路が含まれることによって、飛躍的に貨幣の自己増殖の勢いを増してゆく。もちろん商業資本は、産業資本と併存し、産業資本が大量生産をその本質としていることによって支えられ、より拡大する流通によって、また発展するのである。

資本の基本構造としての貨幣が出発点となり、貨幣+αが終点となる過程をもった商人資本が、資本の生誕地であるとするならば、産業資本は独り立ちした自分の内部に増殖する力を持った資本であり、今日のファンド株式資本主義はその完成である。

貨幣制度と私有財産と所有欲との関連性を解明することが、資本と賃労働の概念的把握にとって重要であるとした「経済学・哲学草稿」での指摘の重要なことが再認識させられる。

概念的把握とは、上記に述べたようにこのような諸関連の、諸規定の統一的把握そのものである。

4価値増殖過程における物象化

マルクスは、商品の本質をつかむにあたり、「使用価値と交換価値の統一」という規定を行う。

さらにこのことを、商品が労働生産物でるという観点からみると「具体的有用労働と抽象的人間労働の統一」という規定が出てくる。

商品生産過程は「労働過程と価値形成過程の統一」であり、さらに「労働過程と価値増殖過程の統一」は資本主義的生産過程である。

ここで重要なのは、この統一の内容である。すなわちいかなる相互関係にあるのかということである。

資本主義的生産過程が、労働過程でもあるということ、いかなる時代においても、人間は労働によって人々は生活を維持し、また生産手段を作り出し、増える人口と欲求に応じて生産を拡大してきたという意味で、労働過程は常に存在しているということから、この労働過程の今日的な属性として資本主義を位置付けるというような資本主義擁護の考え方がある。

しかし、資本主義的生産に於いては、労働する諸個人は、資本の価値増殖過程に、労働力を時間で売り払うだけで、この労働生産物とは無関係である。そして、資本も生産された商品を販売して回収した売り上げが、剰余価値を生み出しているかどうかだけが関心事である。

企業の報告は、自分たちが社会に対して、どれほど貢献しているのかということを報告するわけではない。どのような製品をそのように役立つのか、どれほどの規模なのか、どれぐらいの労働者が生活をおくれているのか、等々の事柄は誰も関心がない。関心事は、当期の利益、利潤率、株の価格、株の配当金である。資本は、金儲けだけが命であるから当然なのであるが、この本音があらわれるどれだけ搾取したのかという決算報告書とは別に、涼しい顔をして資本の側は社会は企業があってこそ成り立っているのだと威張っている。

資本は社会の必要とするものを生産しようとしているわけではない。交換価値こそが目的であり、そのためには、商品が使用価値を持っていることが前提条件であるという限りにおいて、使用価値を気にするのであって、社会が必要とするものを作るのではない。

商品需要に合わせているだけで、結果として物資が行き渡るだけであるから、資本の価値増殖に見合わないものは作られないということである。逆にみるならば、使用価値があれば、そこに交換価値の潜む可能性があれば、すべてをビジネスにしてしまうのである。人間の臓器さえも手に入れることになる。脳死判定を、人間の死と規定する方法は、人間が全身で生きているという現実を無視した、資本のビジネスチャンスの拡大のための規定である。人間は緩やかに全身で死んでゆくものなのだ。

資本主義的生産過程においては、労働過程は、価値増殖過程の手段と現れる。

賃労働者は、労働力を時間売りして貨幣を受け取る。資本は、この労働時間を支配し、監視し、こき使ってこの一部を掠め取る。この生産過程は、ただひたすら交換価値を作るための過程であって、使用価値は、交換価値を形成するための条件として現れ、決して目的ではないものとして、交換価値を支えるものとであり、常にないがしろにされ、製品不正は当然のこと、不健康な食品、有害な物質が、必要悪のようにはびこる。

この生産過程の特徴は、社会に反作用し、売るための労働力は再生されねばならず、また、長期的には老いてゆき、死ぬのであるから、新たな労働力が生まれてこなければならないので、消費過程は生活は労働力の再生産過程となり、娯楽は、これらの単なる気分の紛らわしとしてしか現れず、子供教育は新たな労働力の再生産過程となり、人々の全面的発展の欲求は閉ざされ、自然の豊堯性は破壊され、人間の肉体的精神的健康も破壊されてゆく。科学技術は、資本力となって労働の搾取と支配の力となって抑圧的なものとなり、かつ、あらゆる分野において自然の豊堯性を破壊し、軍事利用され、人間の生活をおびやかすことになる。それは核技術に於いて、その端的な姿を現す。

コンピューター社会は、これまでの多くの労働の排斥であり、他方教育の階層化を推進するエンジンでもある。一部の少数の開発的頭脳と高度な専門職、あとは取り換え可能な労働力と、車や機械と同じように物品のリースと同じ項目で記帳され、もはや人件費の項目でもないところの派遣労働者と、さらに相対的過剰人口とに階層化される。

小学校の一クラスがあるとすると、四〇%程度が非正規雇用のゾーンに入って行くことが運命づけられている。「社会に出る」ということが、労働力をどこに売るかという選択でしかないものと知るにつれ、諦めを強いられる生活が幼い時から始まるもの悲しさは、強制される競争と相まって子供の無邪気さを奪い取る。

子供たちは偏差値で振り分けられ、良品、不良品のレッテルを額に張られ、それを自己責任として押し付け、労働の階層化へ適合させる。教育も親の資産次第という時代になると同時に、公教育の劣化が進む。集団生活を学ぶという名目で、同調圧力に屈することが良とされ、既成の秩序に従順に従うことのみ強制される。奴隷の教育である。

そもそも、労働の搾取と支配を法的に認めている社会は、かって奴隷制を認めていた社会とどれほどの差があるというのだろうか。肉体的再生産のためにわずかばかりの貨幣を手に握るための、監視された労働力の提供の行為はもはや労働という言葉に値しないものになっている。今日の日本の外国人労働者の劣悪な労働条件は、それこそが資本の本音のところであり、その他の労働の側の保護措置は不本意ながらの妥協である。

競争と、馘首の恐れを背景に、正社員は非正規を、非正規は外国人労働者を蔑み、そうして自分達の首をゆっくりと締め上げ、資本の分断支配が強まる。

ばらばらにされた労働者は、資本の思うつぼである。そもそもは、労働者と資本の関係は、一人一人の個人と資本の契約である。労働者が集団で、まとまった人数で雇用契約をすることはない。そして、労働の価値は、個々人の労働の価値として賃金が支払われる。集団に集団の労働の価値として賃金が支払われることはない。

一人が、十日かけて十個の製品を作ろうが、ライン生産で十人が一日で百個の製品を作ろうが、労働の価値は同じである。資本にとっては、個々の労働者の契約、個々の労働者の支配、個々の労働者のもたらす価値とその搾取が問題であって、したがって、個人に対す指揮権と解雇権を持っているのである。

この仕組みそのものが、個々人を解雇する権利を資本が持つ構造そのものが、すでに圧倒的な力としての資本と、解雇されると路頭に迷う個人の弱い立場の力関係を示しているのであり、雇用契約以前の前提された力関係である。

学生の就職活動が、卑屈なまでに礼儀を求められ、値踏みされる場となるのも同様である。

孤立した一人として、企業に立ち向かうわけで、資本への忠誠の程度を見せなくては門前払いにさされるということで、身だしなみから忠臣ぶりを要求される。学生が、就活途中で自殺するということが痛ましいことが頻繁に起こってる。

資本のこの個々の労働者に対して持っている力に対抗するには、団結すること以外になく、団結した力で資本の手を縛る以外に労働者が力を持つことはできない。そして、これが力関係であるというこの中から、究極的には、賃労働そのもの、したがって、資本主義的生産過程そのもの手を付けなければ、解決しないということを不断に知ることになる。労働者の敗北と失敗の歴史は、多くの教訓を我々に残し、我々のゆく道を照らすのである。

疎外過程は、貨幣がG−W−Gの過程を持つようになって以来、そして、本格的には労働が賃労働となって真の価値増殖過程に組み込まれるようになって、価値増殖が行われるようになって以来、物象化過程となった。

労働の価値が、一般的価値として実態あるものとして貨幣の姿を取り、それが資本となり、その生み出す基である労働に敵対的に、支配の力としてあらわれ、それに隷属させられ搾り取られるという事態こそ物象化の過程なのである。

この物象化過程は、次のような段階的特徴を持っている。

資本の下への形態的包摂の段階は、絶対的剰余価値を追求する段階である。ここにおいては、労働過程は旧来のものと同じである。{生産過程そのものの中では・・・・第一に、資本家による労働能力の消費が、それゆえ資本家による監視と指揮とが行われることによって、支配・従属関係が発展し、第二に労働のより大きな連続が発展する。」(マルクス「資本論草稿集\ 三七〇頁」)

「こうしたたんなる形式的な関係―発展度の低い資本主義的生産様式にも発展度の高い資本主義的生産様式にも共通している一般的形態―を見ただけでも、生産手段すなわち物象的労働諸条件―労働材料、労働手段(および生活手段)―が労働者に従属するものとして現れるのではなく、それらに労働者が従属するのである。」(「同 四一一頁」)

この段階から、相対的剰余価値に追及の段階に入ることによって、あらたに労働諸形態が資本の力として現れる。「独自に資本主義的な生産様式の発展につれて、これらの直接に物質的な物が、労働者に対立し、資本として彼に相対するからだけでなく、社会的に発展した労働の諸形態、協業、マニュファクチャ(分業の形態としての)、工場(物質的基礎としての機械装置に基づいて組織された社会的労働の形態としての)が資本の発展諸形態として現れて、それゆえに社会的労働のこれらの諸形態から発展した労働の生産力、それゆえに科学や自然諸力も、資本の生産力として現れるからである。」(「同 四一二頁」)「資本主義的生産がはじめて、物質的生産過程を科学の生産への応用―実地に適用された科学―に転化するのであるが、資本主義的生産はこの転化を、ただ、労働を資本に従属させ、労働者自身の精神的および専門的発達を抑圧することによってのみ行うのである。」(「同二七一頁」)

かくして、資本の神秘的姿は、労働過程の諸条件を、その対象的諸条件をも主体的諸条件をも―それらははじめて個々の労働者から解き放たれる―発展させるのであるが、しかしそれらの諸条件を、個々の労働者を支配する諸力として、また労働者にとって疎遠な力として、発展させるのである。」(「同四一五頁」)

そして、今日、巨大な独占資本は、株式会社として、資本所有と資本機能が分離し、資本も商品であることから来る二重の性格である、交換価値と使用価値の二側面が、一方では、より大きな剰余価値に追及として、他方は資本の支配の強化として現れる。

5マルクスの物象化過程の段階的整理

マルクスは、商品の等価交換の段階における物象化については、人間の社会的関係の幻影的関係である、としている。そして、その発生の根拠は、自然発生的分業のもとにおける私的労働にあるとしている。商品を含む社会の営みの物象化された姿を分析暴露したのであって、人間と人間の関係の外に物と物との関係が存在するわけではない。物と物との関係のように幻影するということを示したに過ぎない。

さらには、資本も物質ではなく、物象とするのは、資本が人格性を持ち、意思を持ち、労働者に支配権として、圧迫として、敵対として現れること、この専制的支配力を持った敵対性を、物象化としているのである。労働者、社会的主体にとっては、敵対的なものとして、現実にあらわれるものなのである。ですから、物象化を打破するということは、賃労働と資本の対立を打倒すること、資本と、賃労働の両極を廃棄することを意味するのであって、物と物との関係に人間と人間の関係を対置することではない。

マルクスは、物象化の発生とその止揚について、三段階の歴史的把握を示している。

そして、その第二段階をさらに三段階に分けて展開している。

 

 (1) 人格的依存関係

 (2) 物象的依存関係

   a 商品の物象化

   b 貨幣の物象化

   c 資本の物象化

   d 利子生み資本のモロク化

 (3) その止揚

このような構造である。

 

(1) 人格的依存関係

「人格的な依存諸関係は最初の社会的諸形態であり、この諸形態においては人間的生産性は狭小な範囲においてしか、または孤立した地点においてしか展開されないのである。」(『資本論草稿集 T』一三八頁)

(2) 物象的依存関係

「物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性は第二の大きな形態であり、この形態において初めて、一般的社会的物質代謝、普遍的諸関連、全面的欲求、普遍的諸力能といったものの一つの体系が形成されるのである。」(『資本論草稿集 T』一三八頁)

「物象的依存諸関係は、仮象的には独立した諸個人に自立的に対立する社会的な諸関係にほかならない、すなわち諸個人に対立して自立化した相互的な生産諸関連にほかならない。」(『資本論草稿集 T』一四八頁)

(3) その止揚

「諸個人の普遍的な発展のうえにきずかれた、また諸個人の共同体的社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえにきずかれた自由な個体性は第三の段階である。」(『資本論草稿集 T』一三八頁)

基本的な規定は上記のようなものである。

ここで注目するべきは、第二段階の物象的依存関係という規定である。これは、物象化を通して、社会が疎外された営みをしているということ、その本質は、服属と依存であることを述べている。

 

 2)―a物象依存関係の商品の物象化の段階

『資本論』「第1章 商品」の中に、「商品の呪詛的性格」及び「貨幣の魔術」を論じる箇所がある。

たしかに、ルカーチはこの箇所の展開を物象化ととらえているが、物象化を単に外化されたものとして、人間の活動と分離したものとして実体的に固定化して、そこで止まっている。それが、物象的依存関係、疎外さされた社会的活動そのものであることを見落としている。ただ、非人間的であるという非難だけである。

マルクスは、物象化を幻影であるという表現とともに、物的諸関係であると、二重に規定をしている。なぜなら、この物象的諸関係において、二つのことが反映されているからである。

マルクスは、「商品の神秘的性格」は、「人間が何かの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになる」ことから始まるとしている。「商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。すなわち、商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き換えによって、労働生産物は商品となり、感覚的であると同時に超感覚的である物、また社会的な物になるのである。」(『資本論』第一巻第一章九八頁)

 一面では、生産者の私的労働が、社会的分業の自然発生的体制の諸環として、他面では、異種の諸労働の同等性という社会的性格を価値として等置して商品交換をおこなう。この私的労働は、「お互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に依存しあう」(『資本論』第一巻第一章八九頁)ものとして規定される。

「交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては諸物の運動の形態を持つのであって、彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである。」(同)

物象化が、物の関係であると同時に、そのこと自身が社会的関係そのものの反映であり、それに依存し、制御されて、交換を通して必要な諸物を入手して生活しているのである。

(2)−b物象的依存関係 貨幣の物象化の段階

商品の価値が、特定商品と凝固され、それが貨幣として外化されると、物象化はさらに進む。

貨幣社会においては、「活動の社会的性格は、生産物の社会的形態と同じように、生産への個人の参加と同じように、ここでは諸個人に対立して疎遠なもの、物象的なものとして現れる。それは、諸個人の相互的な関係行為としてではなく、諸個人に依存することなく存立し、無関心な諸個人の相互的衝突から生じるような諸関係へのもとへ諸個人を服属させることとして現れる。」(『資本論草稿集 T』一三七頁)

たしかに、ときにはまれに、貨幣をポケット入れて、物象化の世界において、社会的力を得る人が偶然的に現れることもあるが、「それらによって支配されている人々の大衆はそうではない。なぜなら、それらの諸条件が存立しているということがそれだけですでに服属を、しかも諸個人のそれらのもとへの必然的な服属を表現しているからである。」(『資本論草稿集 T』一四八頁)

貨幣社会の物象依存性と服属は、支配階級によって理念的支配として、永遠化されようとする。「諸関係のそうした支配が、諸個人自身の意識のなかでは理念の支配として現れ、これらの理念の永遠化についての信仰、すなわちあの物象的依存関係の信仰が、支配階級によって、もちろん、あらゆる方法で固められ、育成され、たたきこまれる。」。(『資本論草稿集 T』一四九頁)

2)−c物象的依存関係 資本の物象化

自然発生的分業に基づく商品交換は、商品流通が発展するにしたがって、商品を売る、貨幣を得る、別の商品を買うというW-G-Wの関係から別の、G-W-Gという関係が生まれ、商人資本が発生する。そして、封建制度的搾取が終焉すること、自由な労働の大量の発生を条件として、産業資本が生み出される。蓄蔵された貨幣が、労働過程を価値増殖過程とすることによって資本となる。

貨幣は歴史的諸前提を整えつつ資本となる。資本主義的生産様式における物象化が、単に交換の媒体である貨幣の段階における物象化と異なるのは、社会的生産過程がそのまま価値増殖過程とされていることから、労働者の全生活が、資本の物象性に支配されるという点にある。特定の生産様式は、その社会の再生産にたいして規定的に作用する。しかも、生活の糧を、自らの精神的肉体的力である労働を売る以外に手に入れることができない状態にある生活であるということそのものが、強制された依存となるのであるから、資本の支配のもとにある。

直接的労働過程における資本の専制的支配力のみならず、労働力の再生産過程においても、また、生活の条件そのものが賃労働収入においてしか成立しなくなる大衆の拡大再生産が進むのであるから、産業予備軍の圧力を背景に、ますます資本の力の前にひれ伏すことを強要されているのである。資本にとっては、労働力は消耗品であり、労働者は老いて死するものである以上、再生産過程は、新たな労働力を生み出す費用をも含む。再生産過程は、労働者の子弟が、新たに賃労働者として、労働市場に放り出され、競争を強いられ、這いつくばるレールを作り出すことでもある。教育が、就職のための労働能力の獲得という労働力商品の自己形成という性格に、情けなく、ぎすぎすしたみじめな姿になっている今日、資本の物象的影響の深さが、子供たちに対しても、自然的社会的人格的発展に対する灰色の壁として現れているのである。

「社会的立場からみれば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具とおなじに資本の付属物である。・・・・・ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。賃金労働者の独立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されるのである。」(『資本論』第一巻第二一章五九八頁)

労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価値変動によって媒介さていると同時におおい隠されている。」(『資本論』第一巻第二一章六〇三頁)

「資本主義的生産過程は社会的生産過程一般の歴史的に規定された一形態である。この社会的生産過程は、人間生活の物質的生存条件の生活過程であるとともに、また、独自な歴史的・経済的生産関係のなかで行われるところの、この生産関係そのものを生産し再生産する過程でもあり、したがってまた、この過程の担い手たちを、彼らの物質的存在条件や彼らの相互関係を、すなわちそれらの特定の経済的社会的形態を生産し再生産する過程でもある。」(『資本論』第三巻第四八章八二六頁)

資本主義的生産は、社会を再生産する。すなわち、生産関係が社会的諸関係を規定しると同時に、社会的諸関係が生産関係を規定するということ、そして、それはお互いに前提でもあること、すなわち相互前提的であると同時に反作用し、相互規定的関係にある。

資本の物象化が、全社会を覆う暗雲となるのは、このようなことが、資本主義的生産過程の特徴としてあるからである。

物象化への服属と依存(強制された依存)の拡大深化の歴史は人間の人格的ありかたを崩す作用を持っている。単に貧困が拡大し、格差が広がるというだけではない。経済的隷属状況の深刻さに比例して社会全体が堕落してゆくのである。あからさまな拝金主義、命も安全も金に換える堕落、性の商品化の拡大、刹那的な快楽主義、教養への蔑視、犯罪の拡大、カルト宗教の拡大、理性の放棄とエゴイズムの衝動的行動、などなど。

(2)−d 利子生み資本のモロク化―完成された資本の呪物性

モロクとは、古代フェニキア、カルタゴで礼拝された、人々の犠牲を要求する牛身の神である。

マルクスは、利子生み資本の発生において、資本はその呪物的性格を完成するとしている。そして、そのことにより、世界中の人類の富を飲みこむのだとしている。

「利子生み資本というその属性において、資本には、およそ生産することのできるいっさいの富が属するのであって、資本がこれまで受け取ったものは、すべて、ただ、あらゆるものを取り込む資本の食欲への分割払いでしかないのである。資本の固有の法則に従って、資本には、およそ人類が供給することのできるいっさいの剰余労働が属するのである。まさにモロクである。」(『資本論』第三巻第二四章四一〇頁)

「利子生み資本では資本関係はその最も外的な最も呪物的な形態に到達する。」「利子生み資本の形態では、これが直接に、生産過程にも流通過程にも媒介されないで、現れている。資本が、利子の、資本自身の増殖分の、神秘的な自己創造的な源泉として、現れている。物(貨幣、商品、価値)がいまでは単なる物としてすでに資本なのであって、資本は単なるものとして現れるのである。総再生産過程の結果が、一つの物におのずとそなわっている属性として現れるのである。」

 このように、資本として貸し付けられた貨幣が、その属性であるかのように貨幣を生み出す形をとる。

このように、利子生み資本が登場することによって、次の事態が生まれる。

「現実に機能する資本も、すでに見たように、機能資本として利子を生み出すのではなく、資本自体として、貨幣資本として利子を生むのだと、というように自分自身を表すのである。」

さらに、このことは、次のように転化する。

「利子は利潤の、すなわち機能資本家が労働者からしぼりるとる剰余価値の、一部分でしかないのに、今では反対に、利子が資本の本来の果実として、本源的なものとして現われ、利潤は今では企業者利潤という形態に転化して、再生産過程で付け加わるただの付属品、付属物として現れる。ここでは、資本の呪物的な姿も資本呪物の観念も完成している。」

資本が商品として売買される株式会社制度において、株の配当金は、資本の利子として現れ、もともとは、交換の手段として生み出されたはずの貨幣が、自分自身で貨幣を生む姿となる完成された姿を見ることができる。単なる紙切れと契約と、それを担保する法律によってのみ成立している魔術である。これらを反故にすればこの虚像は簡単に消えるものである。

 われわれが、G−G´で見るのは、資本の無機的な形態、生産関係の最高度の転倒と物化、すなわち、利子を生む姿、資本自身の再生産過程に前提されている資本の単純な姿である。それは、貨幣または商品が再生産にかかわりなくそれ自身の価値を増殖する能力―最もまばゆい形での資本の神秘化である。」(『資本論』第三巻第二四章四〇四〜四〇五頁)

貨幣が資本になることによって、労働者との敵対的な物象化が起こった。さらに、資本所有と資本機能の分離によって、資本は、利子生み資本として、自己増殖する魔物となって、資本の属性としての指揮権、支配権をふるうことになる。

資本所有と資本機能の分離は、単に株主と企業という分離だけではなく、持ち株会社とその子会社という姿として、実体的に分離し、持ち株会が、その傘下の子会社を支配するという姿として現れている。「**ホールディング」という会社名を最近多く見かけるようになったのは、ビッグバン以降の株式資本主義とでもいうべき、資本主義の完成へと向かう姿なのである。企業が利潤をあげて配当(利子)を払うということではなく、利子生み資本が利子を生み出す手段として企業があり、企業利潤はその残りであるかのようになる。赤字でも配当をするという転倒は、もはや当たりまえのことになりつつある。

労働者は、企業という機能資本との戦いと同時に、持ち株会社の機能資本への支配とも戦わなければならなくなる。機能資本が利潤をあげることができなければ、その資本は解体減価することになる。

大きな企業を分社化して、各部門ごとに利潤を追求し、不採算部門をほかから補てんするということをやめて、解体することで、資本の新陳代謝を活性化させようという狙いがある。なぜなら、商品の価値はその再生産に必要な価値によって判断されるのであるから、固定資本も、資本の高度化が進めば進むほど、比較的短期の再生産の価値において判断されるのであるから、古くなった生産過程や企業環境設備は早急にスクラップ化する必要に迫られる。

それだけではない。親会社の支配力の圧力は、会社存亡の圧力としてのしかかるのであるから、労働者は、企業にしがみつく限り、一層劣悪な労働条件労働環境に追いやられてゆくことになる。むしろ、企業維持のために、自らを犠牲として差し出したりさえするのである。いずれにしても、無慈悲な利子の取り上げのための、無慈悲な会社つぶし、馘首ができる構造を整えようとしているのである。アメリカ型株式資本主義を見習って。

資本の物象化は、直接的な機能資本との戦いとして、まず意識される。

 らに、資本は信用制度の中で発達して、利子生み資本とて、企業の外の、影の支配者として現れ、強力な支配権限を行使する力として労働者の前に姿なく襲い掛かるのである。

(3) その止揚

 マルクスは、『資本論』の商品の項で、物象化の発生の根拠を、自然発生的分業のもとでの私的労働にあること、低い制限された生産段階における商品交換であることを展開したあとで、物象化をよりわかりやすく説明するために、物象化の止揚の構造を示している。

それは、物象化の前提にさかのぼり、社会的総労働のあり方の否定的必然的帰結としての推論となっている。

「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。」「商品生産と対比してみるために、ここでは、各生産者の手にはいる生活手段の分けまえは各自の労働時間に規定されているものと前提しよう。そうすれば、労働時間は二重の役割を演ずることになるであろう。労働時間の社会に計画的な配分は、いろいろな欲望に対するいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役立ち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的参加の尺度として役立ち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分け前の尺度として役立つ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり単純で透明である。」(『資本論』第一巻第一章九二頁)

生産力の発達にともなう資本の発達は、株式会社制度を生み出した。資本が商品となり、その使用価値は利潤を生み出すという商品となって、株式という形で売買される。株の売買は、配当金をめぐる要素以外に、株価の変動に対する投機として行われることから、富の集中が一層進むと同時に、不安定な制度となるのである。

資本の物象化の完成された姿こそ株式会社制度である。資本が利子を生む商品となり、その売買が山師的投機の対象となることにより、二重の意味で貨幣が貨幣を生み出す魔術を体現したのが株式会社制度なのである。

マルクスは、『資本論』の第三部第五編第二七章において、信用制度の発達、株式会社制度の発達を、資本所有と資本機能の分離、個人資本から社会資本への変化を条件として、資本主義生産様式から、協働生産様式(the associated mode of production)への過渡をなすものであると性格付けしている。

マルクスは、株式会社制度が、資本主義の次の生産体制と社会体制の前提を作り出していると述べているなかで、協働組合工場(the  cooperative  factories)について、次のように述べている。

「労働者たち自身の協働組合工場は、古い形態の中でではあるが、古い形態の最初の突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが、しかし、資本と労働との対立はこの協働組合工場のなかでは廃止されている。」

「たとえ、はじめは、ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしかないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産力とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。」(『資本論』第三巻第二七章四五六頁)

ここで注目するべきは、「自然的に」という表現をしていることである。

資本主義的生産から協働生産様式への過渡形態として株式会社制度をとらえているのである。

そして、生産協同組合工場は、はじめは組合が資本家であるに過ぎないが、賃労働と資本の廃絶への過渡形態であるとしている。

なぜ、それが、過渡形態に過ぎないのか。生産協同組合工場が、もし資本を組合が所有しているだけなら、組合が資本と賃労働の二重人格となるだけである。商品を生産し、商品を仕入れし、利潤を追求しているとしたら、意図するしないにかかわらず資本の本性は瞬く間に表面化するであろう。

なぜなら、資本主義生産形態が、それ自身の法則により、その形態を再生産すると同時にその社会形態をも再生産するのだということ、そして、その相互が、規定的であり、非規定的であるということ、すなわちそれが、一般的制約、一般的制限として作用することを考えねばならないからである。

生産協同組合工場は、賃労働と資本の対立そのものを廃絶する運動の一環としてその過渡性を自覚する立場を持ち、かつ、労働時間が、利潤に関連させられるのではなく、社会的必要に関連づけられる方向性を内包したものでなければ、資本の共同所有企業と変わらない。

資本のもとへの社会的隷属を超える方策としての、自らの共同による自らの労働の支配とは、階級として、資本主義的生産過程を支配するものでなければ不可能であるばかりか、労働が、社会的必要の労働時間において測られるという質的変化を全社会的に生み出すことができないからである。

社会的生産過程が価値増殖過程として支配されている資本主義的生産から、社会的生産過程が、結合された社会的必要生産過程へと変質しなければならない。過渡として、商品の形態は残るであろうが、その基準が社会的労働時間において計測されることを通して、価値の結晶という性質を順次失ってゆくであろう。

商品の発生以来の物象化の歴史をたどってきたが、信用制度と株式会社制度、この完成された姿において、疎外は頂点に達し、その物象化の敵対性と、その巨大な、制御不能となるかく乱作用が渦巻く時代になることを通して、その止揚の端緒につくのである。

資本は、生産力の拡大と、高度化によって、自己増殖を進める。そのことによって、もはや個人資本の形から社会的資本の形に、資本が分割された単位において売買されることによって、急速に変化を遂げた。資本機能と資本所有の分離が進み、さらに今日では、持ち株会社と分社化・子会社化への移行が顕著となっている。株の配当を決める会社が、これまでの株式会社の上に抽出されて支配権を握るという完成ぶりである。資本所有と資本機能の実体的分離と、利子生み資本の支配権の確立なのである。

株式会社制度は、会社形態の変化を、その本質を端的に示すかのように発展している。持ち株会社、いわゆる「ホールディング会社」への移行である。このホールディン会社は、株の配当を司るためのものであり、実態企業は子会社化され、この株式所有親会社に支配される。これまでの会社は部門ごとに分社化され、剰余価値の生産の程度に応じて、会社ごと潰しもする。そして、さらに、このホールディン会社は、株主のファンド資本に左右されるのであるから、中規模程度の企業は、ファンドに食い荒らされるという事例が出ている。株式会社は配当と株価に左右されるのであるが、今や露骨に貨幣の力による支配が表面化している時代である。すなわち、貨幣が貨幣を生むという原初形態が、今日の複雑に発展した経済諸制度のなかに、単純な形でその姿を現し、貨幣が王として君臨する姿を見るのである。内部留保金が自社株買いに当てられ、また金融利益を求めて使われ、他方、労働者の賃金は抑制され、株主の力が、資本の社会的力として、またそれが、労働現場の職制の力として、またそれが、正社員の非正規共労働者に対する支配の力として、さらには非正規労働者の中から、奴隷頭を作り出して支配するというかたちで強化されてのしかかるのである。

物象化の過程は、今日、労働者を過労死か精神病に追い込むような過酷な事態生みだし、人として扱われない労働者の不満は爆発寸前にあり、部分的に暴発し始めている。資本主義的生産とは労働者にとっては賃金奴隷制であること、世の中で一番卑劣で残酷なのは、奴隷でありながら奴隷を支配する奴隷頭であるというシンプルな事実も顕在化する時代である。労働者が屈辱と業務命令に忍従するにも限度がある。働き口を失いたくないという圧力が、資本主義社会の強いられた勤勉を生み出すのであるが、際限のない資本の利潤追求の本性との衝突は避けられないところに来ている。

この労働の疎外過程は物象化過程として、今日まで複雑に発展してきた。しかし、その骨格は不変であり、単純な姿としての貨幣から資本過程への不断の変身と、資本過程からの不断の貨幣の引き出しの回路は拡大再生産される。

今日の「株主資本主義」、「ファンド資本主義」という、貨幣の力が資本の総過程を左右する時代において、単純なG−W―Gの回路が、実は資本主義的生産の価値増殖過程としての本質を改めて示している。

株式会社制度は、当初は、産業資本の規模の拡大のための、分散する社会的富の資本過程への吸収という性格を持っていた。そして、信用の拡大とともに、配当と投機の対象ともなって、株式会社制度は一般化した。

ベルリンの壁の崩壊以降、資本主義は、それまでの社会主義との制度的優劣論争のためにあからさまな強欲性をひた隠してきたのであるが、これがもはや必要なしとなると、貨幣の致富欲が前面に躍り出て、なりふり構わず資本は貨幣であるという本質がむき出しとなって膨れ上がろうとしているのである。

資本規定には、貨幣である、商品である、生産手段である、総過程である、社会的関係である、資本家である、等々の規定がある。これらは、その関連性とその捉え返した反省規定とにおいて統一したものとして規定されるべきであるが、その出生以来の骨格は、それ以降の過程がどれほど複雑になろうが変わらない。貨幣から出発して貨幣+αに終わる循環は、変わらない。歴史的に積み上げられてきた剰余価値が、小数の人々の手にあつまり、さらにそれが増殖し、労働の側は、ますます隷属と疲弊と貧困の拡大となる。

 

株式会社制度を終焉させることによって、この歴史的に蓄積された巨大な社会資本を社会的所有へと移行することを滑らかに行うことができる。

株式会社制度そのものを廃止することである。そして、これまでの株式会社を共同生産会社へと移行して、企業内生産協同組合の所轄から、地域の社会的所轄へと移行すればよいのである。株券が無効になって損をする人がいるであろうが、生活に困る人は少ないのが実態である。

資本主義的生産様式から協働生産様式への移行のための過渡的処置として国有化という手段が考えられるが、生産協同組合の体制が整ったところから移譲すればよいのである。国有化は、資本が国有になるだけで、資本の本質がなくなるわけではない。協働生産様式とは、協働した諸個人のもとへ生産過程が支配される形態なのであって、国家意志が資本の座に座ることではないからである。そのような国有化は、再び疎外された力を生み出すだけである。自らの共同の意志と異なる別の意志のものへの服従が生み出されるだけである。過渡的に方策として国有化が選択されるとしても、生産者の協同組織の統制下におかねばならない。全体的結合は、この組織の横の連合において作ればよいのであって、その上に外的な全体を作る必要はない。

今日の株式会社の株主は、「純国産企業」といわれるトヨタ自動車でさえ四分の一は外国籍株主である。日本において、株式会社制度の廃棄を宣言するということは、全世界に、株式会社制度の無効性の衝撃を与えることになるであろう。先進国同時革命は、国際な信用と株式会社のつながりの中で、不可避的であろう。世界市場の連動性は、開発途上国、貧困国へと新しい生産様式を広げてゆくであろう。

これまで、先進国同時革命は、プロレタリアートの運動の国際連帯と、資本家階級の反革命的結合との国際的対峙を条件として語られてきた。しかし、それにもまして重要な経済的要件として、インターネットで結合された世界市場の瞬時性・連動制の発展は、たとえ一国であっても、株式会社制度の廃棄という資本主義の根底的転覆が実現するならば、一挙に全面瓦解する条件を作り出しているということがあげられる。

われわれは、大衆的な労働者研究会において、「自らの共同による自らの労働の支配を!」というスローガンを掲げ続けてきた。これは我々が資本の支配を打ち破り、その向こうに目指すべき解決策を端的に指し示したものである。

実践的共産主義的意識の発生は、競争に変えるに団結をもってすること、この団結のもとに、経済的隷属を突破すること、今日のような社会的性格を帯びている資本として成長してきた資本を廃絶するためには、社会的共同においてしか資本を資本でなくすることが不可能であることからして、必然的なものとなる。

資本主義的生産様式から協働生産様式への移行、これこそが、賃労働と資本の両極の廃棄という労働者の要求が、必然的に共産主義的性格を持ち、自由な協働社会の形成という共産主義の要求が内容的に一つの物となった現実的活動として統一される過程なのである。

理論的意識としての共産主義理論は、確かに学習、研究を必要とする。しかし、理論的意識は、実践的意識の理論化されたものに過ぎない。

 

二〇一九年月記