中国の「新左派」・「自由主義」論争 bR――「告別革命」論をめぐって


時田 研一            

 

註:前二回において中国での文革論議の新たな展開についてその概略を報告し、それがわれわれに喚起する諸テーマについて若干のコメントを行なってきた。だが話がやや錯綜してしまっており読者諸兄()に話の筋道がつかみがたくなっているかも知れない。それは筆者が大まかな見取り図だけで非官製の夥しい文革サイトに足を踏み入れ、初歩的解読力で論点を探るうち記述が混濁したことによるのだが、さらに当事者間の論議そのものが相互批判を含めて現在進行形であることも関係している。今回ひとまずこの作業を終えるに当たってここで若干の交通整理をしておこう。その上で本号のテーマである「告別革命」論の紹介に入っていくことにする。なお個々の発言、文章の出典は基本的に省いた。すべて「インターネット論壇」で公開されたものである。

 

〔なお、この小論をひとまず終えたあと中国情勢は突如段階を画する新たな局面を迎えている。言うまでもなくラサをめぐる事態、オリンピック聖火と「噴青」たちの動き、そして胡錦濤訪日と四川大地震である。

この三つの事態をめぐって「インターネット論壇」をはじめ中国での議論は沸騰しており、「新左派・自由主義論争」は新たな様相を呈し始めている。「新左派」、「新毛派」の論客たちは中国は「空前の困難局面」を迎えていると危機感を煽り、国内外での「噴青」たちの動きを「五四運動」(一九一九年)の「再来」、外国帝国主義の「和平演変」(平和的反革命)」を意図した「街頭革命」を唯一封じる「愛国主義大衆運動」の登場などと絶賛している。

こうした事態の急転のなかで、過去、改革・開放による格差の激成を受けてすでに始まっていたイデオロギー分野での「新左派」、「新毛派」の優勢は加速され、「自由主義」は瀬戸際に追いやられているという見方もある。ここでのテーマとの関連で特筆すべきは、王希哲が「噴青」たちを高く評価し、自ら「自分の思想は今まさに変わりつつある」と言うようにその強烈な「民族主義」、「国民国家」主義を完成させつつあることである。

また以下の作業で重要な示唆を得た汪暉は「新毛派」との対話のなかで、ラサ事件に関連して中国とチベットの関係は西欧での「民族」、「民族国家」間関係とは異なるアジア特有の「族群」(エスニック)関係なのだとして西欧の見方を「オリエンタリズム」と批判するのだが、仮にそうだとしてその関係のなかに抑圧、被抑圧はあるのかないのかという肝心の事柄については述べていない。

これらのことは以下の作業での「新左派・自由主義」対立の構図をとらえ直すことを必要としており、何よりこの新たな時代の到来のなかで文革論議がどういう意味を持ちうるのかを抜本的に見直すことを課しているのだが、今回は間に合わず旧来の認識構図のままとなっている。今後を期すこととしよう〕

 

 

 

【目次】

一、文革論の新たな展開――これまでの叙述の整理

1.今なぜ文革なのか――この作業の意図

2.これまでの叙述の基本的論旨は何なのか
二、「告別革命」論の展開――楊曦光と李沢厚・劉再復

 1.楊曦光「中国政治随想録」――「マルクス主義政治理論の浅薄さ」

2.李沢厚、劉再復「告別革命」論

 3.「告別革命」論への賛否両論
三、一つの展望――汪睴の「脱政治」克服論

1.文革の拒絶は「二〇世紀中国の全否定」である

2.「悲劇」としての文革――遇羅克の闘争と犠牲

3.「悲劇」をいかに克服するか――「脱政治化」から「再政治化」へ

 

 


一、文革論の新たな展開――これまでの叙述の整理

 

1.今なぜ文革なのか――この作業の意図

 

最初にこの連載で意図したことを要約的に述べておこう。それは文革終息以

降、当の中国で始まり、全世界を覆った文革イメージを見直してみようということであった。日本も例外ではなく、むしろそこでこそあっけらかんの忘却か、その「悪魔化」(原語は「妖魔化」。「妖魔化中国」等、新たな中国ナショナリズムが好んで使う語彙である)が著しかったのである。

しかしこの作業はいわゆる「文革の再評価」を直接に意図したものではない。一九六六〜一九七六年当時、自分らの運動とほぼ時期を同じくした文革の社会性、政治性に当時われわれは解放性、普遍性を感じることは出来ず、とくにシンパシーを抱くことはなかったのだが、一方ではそこにはまた日本の革命の展望を近・現代史における運命的な〈中国〉との思想的・政治的な、さらには地政学的な関連構造をとらえ返して構想することに不充分であったことも作用していたのかも知れない。

それでは今になってなぜ文革なのか。幾つかの事柄があった。

一つは中国共産党の官製文革史とそこでの総括とは異なる当事者たちのもう一つの声が日本のわれわれにも届き出したことである。

それらかっての造反派紅衛兵たちの回想、総括には紛れもなく同時代的な政治経験の姿があった。そこからは「文革徹底否定」に集約される官製文革史が描き出す世界とは大きく異なる文革像が浮かび上がってきた。

彼らは「内ゲバ、連赤」以降、日本の新左翼が置かれた状況の比ではない実体的打撃ともはや救出の余地なしと思わせる逆境のなかで、なおかつ自分らの文革経験の意義と誤りを探り出そうとしており、そしてついに「文革徹底否定」論の歴史偽造と政治的意図を暴き出すことを通して自らの文革経験の意味を救出しつつあった。

このように表向き完全に否定され、過去のものとなり、忘れ去られた筈の文革は人々の記憶のなかになお渦巻いていたのであり、それは一九九〇年代末に始まった「新左派」・「自由主義」論争においてもなお影の主役であった。

だが日本の言説界はそれらの新たな動向にふれることはなく、「文革徹底否定」論のなかに怠惰に安住していた。それら新しい動きをたどってみようと考えた。

もう一つは中国問題の専門家、研究者たちの多くが現代中国の問題を語るに当たって文革の問題を避け、それに触れないで済ましている傾向である。しかしそんなことは可能なのか?

のちにまた見るが、現在中国の学生たちに声望高い「新左派」汪暉(清華大学教授)は「中国六〇年代への理解なくして二〇世紀への根本的理解を真に生み出すことは不可能である。そして中国六〇年代の最も特徴づける問題は疑いもなく文革である」と述べている。

すなわち世界の言説界を今なお覆っている趨勢、「文革徹底否定」論が論議の到達点だと錯覚して安堵して「忘却」するか、あるいは「悪」としての文革イメージを振りまく傾向は文革認識にとどまらぬ世界認識上の欠陥、偏りを示しているということになる。

三つ目に文革はただ忘れ去られたのではなく、「悪」の代名詞となってきたわけだが、近年それには毛沢東への批判のアップと増幅しつつ「大虐殺の事例」というより禍々しいイメージが附与されてきている。

クルトワ『共産主義黒書』(恵雅堂出版)の世界的ベストセラー化に象徴される傾向のなかで「歴史修正主義」者のみならず、「共産主義とナチズムの同質性」を語ることが世界で「流行」となり、中国民主派の内部からも「文革=ナチス」論、「毛沢東とヒトラー、スターリンは二〇世紀の三大暴君である」(胡平)というような言い方がされるようになったのである。

この風潮は日本にも及び、良質の論者たちの発言の中からも「スターリンの大粛清、文革、ポル・ポト」(森達也・姜尚中『戦争の世紀を超えて』講談社、二〇〇四)というような言い方が浮上し始めた。

オウムを内在的にとらえる眼を持つ著者らはこの三者を一緒くたにしているわけではなく、「人間変革」の動機の有無という点で文革と「アウシュヴィッツ」との区別が語られている。そのことをふまえた上で、しかし三者をつらぬく共通項として「大虐殺」が抽出されるとき、やはり各々の事例の区別性は後景に退き、それらの事実の掌握と政治的分析の重要性を蔑ろにする傾向に棹さすことにならないだろうか?

その「虐殺」の多くが、どの時期、誰が誰に対して行なったものだったかを明らかにすることを通して文革勝利者たちによる文革史の偽造を暴き出し、これまでの文革像を一新することにかっての造反派世代の努力は集中しているのである。

原理的に抽出すれば同質に見える政治思想もそれがどのような媒介構造を備えているかによってそれが現実に適用された場合の諸結果は千里の径庭となるのである。だから幾つかの大きな政治的出来事を分析するに当たって必要なことは、そこに共通する思想の型を抽象化することが本質把握なのだと錯覚するのではなく、そこにある差異をきわどく弁別し、その各々の意義と限界、救出すべきものと破棄すべきものを認識することなのである。

文革とポル・ポト「カンプチア革命」についても後者が前者の影響下になされたこともあって両者の政治思想的な同質性を語ることで済まされることが多い。それがまったくの間違いではないにしても、しかしその誘惑に抗した弁別力もまた必要である。

たとえば芦笛は、毛沢東は「明らかに理想主義的でロマンチックな気質の革命家」という面と「老練で用意周到、無比の洞察力ある政客、謀略家」という面とを併せ持っていた「矛盾に充ちた人物」だったとしてこう述べている。

「このような内在的矛盾により毛沢東は永遠に現状に不安であり、永遠に『継続革命』を必要とするが、他方永遠に既存の枠組みを突破することはできず、ただ限定的な改革を思い切ってやっただけであった。『五七道路』、『裸足の医者』、『工農兵大学』の類『新生事物』がそれであり、ついに中国をあのカンボジアのような鮮血淋漓たる『ユートピア』に変えることはなかったのである」。

ここには「プロ独下の継続革命」、社会主義のもとでの文革とロン・ノル政権打倒の「カンプチア革命」との違いがあるにしても、毛沢東政治とポル・ポト無媒介政治との弁別すべき違いがはっきりあるのである。

また毛沢東政治を厳しく批判する李沢厚のつぎのような主張も同じ問題をめぐっている。

「覚えているのだが、七〇年代後期私は毛沢東が国内問題の解決のために中ソ戦争を引き起こすのではないかと心配した。だが彼はそうはしなかった。この一点から言っても毛沢東はやはり『英明偉大』だった。彼をスターリン、ヒトラーに比す人がいるが私はまったく同意しない」。

ヒトラーの政治はこういう場合戦争に踏み切ることに躊躇しない悪魔性をはらんでいたというのである。

ジジェクが、スターリンの誕生日にラーゲリの苦役のなかから挨拶の電報を送る政治犯という関係構造は了解できるが、アウシュヴィッツからヒトラーに挨拶を送るユダヤ人は考えられないと言うのも、スターリン主義とナチズムの区別と同一性をめぐる同じような認識なのだろう。

「スターリン主義者の粛清はファシストの暴力よりある意味で不条理なものであった」ことは認めなければならないというというジジェクがなおかつこのエピソードを持ち出す趣旨には異論がありうるにしても聞くべきことであろう。(『迫り来る革命』、「二つの全体主義」等を参照)

ここでのテーマに戻ればこうである。ナチスが拷問と処刑であったとすれば、毛沢東と中国共産党の反対派や異論弾圧の手口は人の主体性の存在根拠を蹂躙して解体し、屈服させて思想的、政治的奴隷にする側面を持っていた。「士は殺すべし、辱めるべからず」という声があったというのは事実なのだろう。

だがそれは毛沢東と中国共産党が当初から「悪」だったということなのではなく、その意図の基調はあくまでは抑圧からの解放と人間変革なのであった。しかしそれが反対派や異論を敵性のものと見なして「解放と変革」を実現しようとしたときに「悪」へと転化する。

だがそこから、従って「ナチスと毛沢東は同じ」だと見なしてしまうや、「二つの全体主義と闘う民主主義」への無批判的擁護とならざるをえず、「解放と変革」への思想的契機を喪失することになる。

必要なことは良き意志の「悪」への転化の構造の真剣な解明を通して、社会主義の破産と「新自由主義」の制覇という圧倒的な構図の只中において、破棄すべきものと救出すべきものをきわどく弁別する力なのであり、政治的分析力なのである。

もっとも「事実分析での怠惰」というなら、久々に文革を一定のスペースをもって取り上げた『朝日』の連載「文革と向き合う 終結から三〇年」(〇六、九)、NHKドキュメンタリー「民衆が語る中国 激動の時代」(〇七・一二)にしても、彼らの官民情報収集の圧倒的優位さにもかかわらず、その視角はつまりは「災厄としての文革の負の遺産を今なお背負う人々がようやくそれを冷静に見きわめようとする努力を始めている」という類の紋切り型の編集でしかなかった。

ここにはその善意、誠実さをも覆ってしまっている一つの現代の「パラダイム」が作用しているのだろう。そして文革をそのように定義したとき見えて来る二〇世紀の総括、そして二一世紀への展望に問題はないのか?

まずは現代の鬼門、文革について考え直してみる基礎的作業を行なってみよう。そして今日世界を覆う「パラダイム」を対象化し、「なぜナチズムが断罪され共産主義はされないのか?」(邦訳『共産主義黒書』帯)に何ごとか言えるかどうか考えてみようと思ったのである。

文革は「当初からの悪人が引き起こした只の悪事」などと見る総括は問題にならず、さらに『毛沢東の私生活』や『マオ 誰も知らなかった毛沢東』も、そこに描かれた個々の事実の評価はさておき毛沢東論としては問題にならないものであった。あくまで「良き意志あるいは現状変革の志向がなぜ悪を生み出したか?」がこの種の事柄への唯一妥当な接近の仕方だろう。その場合何を手懸りとするかは種々の方法があるわけだが、たとえば李沢厚がこういうことを言っていた。

「当時〔文革期〕中国人は変わってしまい、ただ二種類の人間、虐待を専らとする者たちと虐待されることに没入する者たちを残すだけとなった。〔・・・〕前者はあらゆる最も悪辣な言葉とあらゆる最も凶悪な手段をもって相手を痛めつけた。後者は懸命に自己批判し、常軌を逸して自分を呪い、汚辱し、悪罵するのみならず、先祖や親たち、とりわけ『黒五類』、『黒九類』出身者を悪罵した。そして自分をゼロであり人ではないと貶すのみならず、それ以下、すなわち牛鬼蛇神、害虫、家畜に等しいものであり、牛棚に入れられるのにまったくふさわしいと自己卑下した。一面では自己批判し、一面では他人を捕まえ摘発した。〔・・・〕彼らの光景はなお幾分かの理性にもとづき行われたのであり、それらの教訓は決して忘れてはならないのである」。

以上の見解は文革における「善」と「悪」の連関構造を見ていく上で言語の問題が一つの手懸りとなることを示唆している。言語ではなく実際に何が起こったかだというのはそうだとしても、テーマを「良き意志あるいは変革意志がいかなる媒介構造を通して悪を生み出したのか、それに耐え、抗し、そしてついには離脱する契機は何だったか」というふうに設定しないかぎり「虐殺」の意味も明らかに出来ないのであり、政治言語はそのための重要な手懸たりうるのである。

その眼で見るとき、ソルジェニーツィン『収容所列島』や内村剛介『生き急ぐ』等は「スターリン大粛清」を考える上で不可欠であり、ポル・ポト「キリング・フィールド」にもただ黒色の書割のもとでの沈黙と殺戮だけがあったのではなく、ポル・ポト語録や「オンカー」語彙とスローガン、被告たちの拷問下での厖大な尋問記録(「S21 記録文書」)が残されていた。まして文革は「毛沢東語録」のみならず「中央文革」アジテーター言説、「走資派」言説、造反派言説が交錯する圧倒的な文革言語世界だったのである。

 

2.これまでの叙述の基本的論旨は何なのか

 

本稿は中国における新たな文革論議をおおまかに紹介し、それに若干のコメントをつけたものだが、その論旨をあらためて要約すればそれは造反派世代の「二つの文革」論、その集約としての「人民文革」論への関心と一定の共感のもとになされている。(これら「人民文革」論の主唱者たち、とりわけ王希哲の「台湾独立」、「チベット独立」の動きをめぐる強烈な「民族主義」、「愛国主義」、その「国家主権」、「民族国家」を不動の前提にした「開疆拡土」(領土を開拓し、国土を拡げる)的思想傾向への批判的検討は別の機会とする)

その場合、問題の核心は毛沢東と「毛沢東文革」の評価の仕方にあり、それの持つ解放性と抑圧性の関係をどう押さえるかが重要な課題となるのだが、「自由主義」は前者を見失うことによって「文革=ナチス」論、「毛沢東とヒトラーの同質性」論に引き寄せられ、「新左派」とりわけ「新毛派」は後者を見失って毛沢東とその文革は基本的に問題なかったのだという無反省な主張になってしまっている。 

だが比較的妥当な線を行っている「人民文革」論もまたそれと「毛沢東文革」双方の関連構造の把握においていまだ多くの不充分さ、曖昧さを残しており、またその内部での主張の異同がある。

「自由主義」と「新毛派」の批判は鋭くそこを衝いており、とりわけ「新毛派」粛喜東の卓越した論旨の展開は共鳴すべき点も少なくない。(だが彼の場合にしても毛沢東と「毛沢東文革」の抑圧性の問題にふれるや途端に文章の切れ味が鈍り、あやふやなものとなる印象は否めないのだが)

そのかぎりでは「人民文革」論についても「批判的摂取」が必要である。そのリーダーの一人王希哲の論は「人民文革」との関係での「毛沢東文革」の解放性と抑圧性の問題に自覚的であり水準の高いものとなっているが、しかしそれもいまだ粛喜東の批判を全的に撥ねかえせるもとはなってはいない。

以上のような入り組んだ論争展開がこれまでの叙述の論旨展開を分りにくくしており、若干の誤解をも生み出した根拠となったように思われる。ここで問題の輪郭を再整理しておこう。

 

 (1)「文革徹底否定」論とそれへの批判

 

出発点は文革終息後、中国では文革評価が当局によって決定され、それ以外の評価は容認されなかったこと、のみならず文革についての論議自体が禁じられたことにあった。ケ小平の「宜粗不宜細」(歴史の総括は大づかみに行なうべきで、細部にこだわるべきではない)、「不争論」(論争を認めない)につらぬかれた「文革徹底否定」論の国是化である。

それは毛沢東の文革がはらんでしまった「悪」への民衆的反撥を根拠としているわけだが、同時にそれは「走資派」として文革の打倒対象とされつつ、しかしそれに勝利した共産党官僚層の露骨かつきわめて巧妙な言語戦でもあった。

 こうして「野心家たちの反革命的内乱」という規定が中国全土、そして日本、ヨーロッパ等をも覆いつくし、その結果文革への関心は急速に失われ、ついには文革について考えること自体が何の意義もない、アナクロニズムでしかないとされるに到ったのである。海外民運派の「八九世代」(天安門事件参加者)にもこう言う者もいる。

 「文革終息後三〇年たっただけでそれはすでにあらゆる影響力を失っており、人々の現実生活のなかには跡形もない。〔・・・〕今日の青年たちにとって文革はまったく分からないものとなっているだけでなく、それを体験した者たちにとっても隔世の感あるものとなっており、人々の文革への記憶さえも『商業と娯楽、気晴らし』に支配されている」。(陳子明)

 今日、「大国」化しつつある中国との関係について多くのことを考えざるをえなくなっている日本の各界にとっても文革はすでに忘れ去って何の支障もないものと見なされている。

だがこの「文革徹底否定」の勢威もじつは仮象であった。その地表下では、自分らの運動を全否定されるわけにはいかないということで当局とは異なる独自な総括作業が続けられていたのである。表舞台に出ることは許されず地下でなされたそれらの総括はどういう層によってなされた、どういう発言であったのか。
 まずかっての造反派である。造反派世代といってもその大半が文革終息後沈黙するなかで、その一部は厳しい弾圧のもと密かに独自の文革総括を続けてきており、一九九〇年代に入ってその思考の一端を文章化し始めたのである。

その多くは自分らの運動が文革後期、毛沢東と中央文革によって裏切られ、路線転換の生贄とされたことにこそ文革の本質があったのであり、必要なことは当時見るべき実体のなかった「人民文革」などというものを主張することによって文革に延命の余地を与えるのではなく、それをまったくの「悪」として否定し尽くすことであると考えている。これが今日「自由主義」という立場に立つ彼らの主張である。

だが造反派のすべてそう考えたわけではなかった。その中の少数は文革には共産党統治の抑圧性からの大衆の解放を目指す側面があったのであり、それが自立の動きを示すや毛沢東と中央文革によって裏切られ、スケープゴートにされたのだという認識であった。

こうして彼らは文革には「二つの文革」、「毛沢東の文革」から生まれついにはそれと分岐するなかで弾圧された「人民の文革」があったのだという見方にたどりついていく。

 楊曦光(湖南省無聯)、「王希哲(王一哲大字報」)、鄭義(精華付属中学)、劉国凱(広州「旗」派)、等である。だが一九八九年天安門事件以降、大陸中国に彼らの活動の場はなく、その多くは「自由主義」派文革世代と共に海外流亡の途を歩んでいる。

 

(2)「自由主義・新左派論争」のなかの文革論

 

 これら造反派世代の文革総括は地下でなされたのであり、公然化は許されなかったのだが、「文革徹底否定」への批判がある程度表舞台で論議となったのは一九九〇年代末から始まった「自由主義・新左派論争」においてであった。

この論争は直接文革をテーマとしたものではなく、ケ小平「改革・開放」の諸結果のもとでの中国の内外政策をめぐるものであり、日本での取上げられ方もその枠を出てはいない。だがこの論争をその深部で規定しているのはまぎれもなく文革であった。以下直接にはそこで断片的にしかふれられていない文革を主役にしてこの論争を再構成してみよう。

文革終息後の「思想解放」のもとで共産党当局の守旧的な傾向に批判的な自由派知識人層の圧倒的多数の見解は、当局の「文革徹底否定」とは異なるものしてだが、やはり文革批判であった。そして共産党内の開明派と連携して抜本的な政治改革を主張する彼らの発言、主張は「新啓蒙主義」といわれ、一九八〇年代の指導的なイデオロギーとなったのである。

だが一九八九年の天安門事件を転機としてこれら自由派知識人の動揺と分岐が始まる。運動がケ小平の弾圧で敗退したあと、知識人の間に挫折感と共に「新啓蒙主義」が含んでいた「急進主義」への反省、批判が高まり、「新権威主義」、「新保守主義」などの当局寄りの諸傾向が生まれている。

この分岐にさらに追い討ちをかけたのが一九九二年のケ小平「南方講話」を鬨の声とする「改革・開放」の圧倒的な展開であった。こうして従来その反当局側姿勢を売りとする自由派知識人層はケ小平政治を基本的に支持する層と「改革・開放」は支持しつつも政治改革の立ち遅れを批判して当局から警戒される層とに分岐し、後者は「自由主義」といわれて八〇年代の「新啓蒙主義」に代わる思想的ヘゲモニーを握ったのである。

この当局に批判的な「自由主義」にとっても文革は根底的に批判されなければならないものであり、それは天安門事件以降海外に亡命した「海外民運派」の主流においても同じであった。

注目すべきは彼らによって共産党当局の多分に政治主義的な「文革徹底否定」とは異なる深みを持った文革批判が行われたことであり、それは文革の政治的のみならず思想的な総括にまでつき進み、さらには世界的な「革命とマルクス主義、共産主義批判」の流行を受けて、今日の「文革=ナチス」論や「告別革命」論へと到ることになる。

いずれにせよこうした官民双方からする文革批判が時代の支配的言説となるなか、先の造反派世代による「二つの文革」、「人民文革」の主張も大陸中国では日の目を見ることはなく、それらは地下で、香港で、海外亡命先で小規模に論議が続けられたのである。

だがこのような閉塞状況に風穴を開けたのは第一にインターネットの発展であった。一九九〇年後半、ウェブサイト上に厖大な文革異端発言が登場する。官製のものとは異なる個人の回想、総括から民間の「文革文献資料館」や各種「新毛派」サイトの開設まで、これまで決して公開されることのなかった言説群が一挙に登場したのである。しかしそれらはまだ「インターネット論壇」での話しであった。
 第二の要因となったのは一九九〇年代の終わり、「改革・開放」の諸結果が農民の疲弊、大量のリストラの発生、貧富の顕在化として社会問題化するなかで、とりわけ一九九九年アメリカ軍の中国大使館「誤爆」事件をメルクマールとして「自由主義」から「新左派」が分岐し、「新左派・自由主義論争」が始まったことであった。

こうして先に見た自由派知識人の分岐は再編され「自由主義」(通常「右派」と言われる)、「中間派」(当局と一体化)、「新左派」(「左派」と言われる)という形で定型化して現在に到っている。(この分岐の見方には種々の見解があるが、ここではとりあえず閑言(洗岩)の所説に拠る)

文革論との関係でいえば「新左派」は「文革徹底否定」への強い反撥をベクトルとしており、それについては「自由主義」のイデオローグの一人秦暉ですら「今日の新左派の出現は文革への単純な否定に対する報いであり、ひいては懲罰であった」(「新左派と自由主義との争い」)と述べている。

彼ら「新左派」は先の造反派世代の文革論に触発され、それから学びつつ、しかし造反派とは異なる独自な文革と毛沢東の評価へと向かっている。そしてその一人崔之元が「文革にも合理的な側面があった」と述べたとき、「自由主義」は猛反発し、文革論議が過熱化する。

ここで留意すべきはこの「新左派」内部には大きく二つの傾向があったことである。一つは直接には文革をくぐっていない比較的若い世代で、彼らの中心は海外留学をへた学者として世界の現代思想と分析用具に通じており、そこでの「新自由主義」批判の視角から中国の問題、さらには文革の問題をとらえ返そうとしていた。

もう一つは「新毛派」といわれる流れであり、彼らは「改革・開放」による格差をもろに受けた層の情念を受けつつ毛沢東と文革をほぼ肯定的に評価しており、「自由主義」に対しては敵愾心旺盛であり、造反派「人民文革」論に対しても毛沢東文革唯一論の立場から否定的であった。

(3)新たな文革論議の構図

 

以上の論争のなかから文革論での対立を抽出して双方の論点をつかもうとするとき、「自由主義」と「新左派」との対立は比較的分り易いのだが、ややこしいのは「新左派」内部に二つの流れがあり、文革評価が微妙に異なること、さらにそこに造反派世代による「人民文革」論が圧倒的な論証をもって論争的に登場したことによって、対立軸が錯綜することになる。以下、それをチャート式に腑分けしておこう。

@「人民文革」論構築への苦闘――造反派文革論の今日

 

まず注目すべきは造反派世代の一部から生まれた「人民文革」論の主張である。王希哲、劉国凱、鄭義らを主な論客とするそれは、文革にはじつは層を異にする二つの流れがあったのであり、そこには毛沢東の発動した文革の中から生まれ育ち、ついにはそれから自立する動きのなかで過酷に鎮圧されたもう一つの「人民の文革」があったというのである。

彼らは今日劉国凱を中心にその実証と論としての整備、他派との積極的な論争に努めており、それは海外でのみならず徐々に大陸内部にも浸透しつつあり、無視できない影響力を持ち出しているようである。

「現在、文革についての研究は人民文革論派が多くの文章と著作を発表しているのに、反人民文革論派は著述をしないだけでなく、ちゃんとした文章も書いていないという情況となっている。彼らの謝った観点を保持するため、専ら枝葉末節の事柄や、文字の使い方でけちをつけたりしているのだ」。(劉国凱)
 「人民文革」論の主な論敵は内容的には当局側「文革徹底否定」論となるわけだが、当局側が戦術的に無視するなか、実際には「自由主義」内文革批判派との論争、文革の意義を認めない八九世代との論争、さらに毛沢東文革の評価をめぐる「新毛派」との論争となっている。

 

(a)「自由主義」との論争

 

「自由主義」の「人民文革」論批判の中心は、それもまた「奉旨造反」だったのであり、何の自立性もなかったではないか、「大民主」といってもそれは毛沢東の許容する範囲のものでしかなかったではないか、総じて毛沢東の文革には何の積極的意義もなかったのだというものであった。

王希哲はこう反論する。

「きわめて奇怪なのは〔これまで共産党に対しては何についても反対するとしてきた自由派と民運が〕文革認識についてだけはまったく分析力を失ってしまっていることである。ネット上では民運と自由派はこの問題については共産党と破れることのない固い同盟を永遠に結んだのであり、異口同音に『文革の災禍』を罵り、『文革造反派』を罵っているのだ」。

「『人民文革』は毛沢東の発動した文革運動のなかから異化として、それに対立しつつ発生・発展してきた人民自身の階級的利益を勝ち取り、防衛するための運動なのである」。
 「つまるところ毛沢東の趣旨を奉じて造反した文革がなければ人民自身の趣旨による文革が異化することは不可能だった」。

「『人民文革』はそれを何と呼ぶこともできるが、しかしそれはいずれにせよ『毛沢東文革』の母胎の中から一歩一歩発育してきたものであるということは承認する必要がある。たとえその母胎が悪人でも土匪でも魔女でもその者がおまえの母胎であるのは事実なのだ」。

「文革は『奉旨造反』〔皇帝の命を受けての造反〕であったことが『人民文革』を永遠に否定する理由とされている。だがこのことがまさに毛沢東の偉大さを説明するものとなっているのだ」。

「古今を通じて、ケ小平、江沢民にいたるまで(さらに金日成、スターリンについては言わずとも)かって『命を発して』、統治されている人民を奮起させて自己の統治する国家機構に大規模に造反させた最高統治者があっただろうか?」。

「〔それは〕その動機が何であれ歴史の進歩にとって有利なことだった。彼は偉大だったのであり、われわれは彼を肯定するし、『奉旨造反』した中国人民を肯定する」。

「しかし毛沢東は同じく最高統治者として、階級的利益のぎりぎりの限度において、結局は自己の国家統治機構を徹底的に破壊することはできず、長く安定した人民民主の立憲制度を真に建設することはできなかった。こうして彼は最終的には自分の『命』を『奉じて』造反した人民を裏切り、逆に国家の統治機構を代表する官僚と結託して血腥い鎮圧を行なった。そしてしだいに『聖旨』〔皇帝の命〕を聴かなくなり、『越旨造反』〔命を越えて造反する〕した真の『人民文革』を鎮圧し去ったのである」。

「このことは歴史の進歩を妨げるものである。だからわれわれは毛沢東を批判し、否定し、共産党官僚に同調するものとしてではなく『文革徹底否定』をするのである。反対にわれわれは『越旨造反』した人民文革を肯定する。なぜならこの『人民文革』(私はそれを正式には四五〔一九七六年天安門事件〕から八九〔一九八九年天安門事件〕に到る時期からとする)が目標とするものこそ、中国に人民民主の立憲制度を創立することだからである」。

以上の王希哲の反論は妥当であろう。「奉旨造反」とは運動の継承の謂いであり、人々は先立つ運動に共鳴し影響を受けるなかで闘争に参加し、諸経験を通してときにそれから分岐し、自立していくのであり、「奉旨造反」だからダメという「自由主義」の批判は低水準のものである。

また王希哲の毛沢東論も妥当であり、「自由主義」と「新毛派」双方への有力な批判たりえている。

 

(b)八九世代との論争

 

当初、八九を自分らと一体のものと表明していた王希哲は八九世代の文革への強い拒否感、拒絶感にぶつかるなかで、その意味を考え、次第に八九世代批判に傾いていく。

「八九を経験してきた世代の一部の者たちは辛亥革命から文革中の造反に至るまで、ひいては四五、民主の壁運動に至るまで、すべてを抹殺したいようである。あたかもただ八九に至ってはじめて中国民主運動が開始されたかのようであり、あるいは五四〔一九一九年の五・四運動〕はそうだったと最低限認めるにしても、それは現代にあらためて再開されたかのようなのだ。八九以前に人々が民主事業のために奮闘した一切を抹殺、否定しなければ最も偉大な八九と六四〔一九八九年六月四日の天安門広場での衝突〕を突出させることができないのである」。

この八九世代の造反派批判は日本での「ポスト・モダン」世代の新左翼、全共闘批判に似て面白いのだが、彼らはそれを文革は「暴民文革」、「痞子運動」(無頼漢、ごろつきの運動)だったが自分らのは「知識分子を主とした清流運動」だったなどという次元で行なってしまっており(魯凡「八九民運と六六文革は同根でもなければ、兄弟相争う関係でもない」)、当局側の「お前たちの運動は文革の再現だ」という脅しに対して躍起となって「自分らのは文革とは違うのだ」と弁明することによって、自分らの運動水準を暴露してしまっている。(もっとも日本の「ポスト・モダン」世代と違って彼らは八九を起こしたのであったが)

王希哲の批判もそこを衝いている。文革は「奉旨造反」であり、自分らのような自立した運動でなかったという八九世代に対して、そんなことはない、胡耀邦、趙紫陽もまた毛沢東の文革精神のもとで育つことによってケ小平的流れに対抗したのであり、彼らなくして八九もなかったのだと言う。

そして魯凡の主張とは異なり、「まさしくこの『清流』こそ現代中国の各種の運動のなかで最もごろつき的運動だった」のであり、文革のそのような否定の仕方にこそ八九世代と八九運動の限界、弱点があったのだと批判している。

 

(c)「新毛派」との論争

 

「新毛派」による王希哲批判の中心点は、王希哲の文革中の毛沢東と文革評価と現在の見解とでは一八〇度の転換があるではないか、また毛沢東を批判したり、評価したりどっちなのだ、文革は「毛沢東文革」唯一つであって、「人民文革」などというものはなかったのであり、そのような主張は文革評価において「文革徹底否定」論と妥協しようとするものだというものであった。

王希哲はこう言う。
 「希哲は今日の主要な敵は右派〔「文革徹底否定」論と「自由主義」〕だと認識している。だから右翼の攻撃に対するときは当然毛沢東文革の擁護すべき一面を強調する。だが一たび中央文革を『左派』として単純に全面肯定する『新左派』李憲源たちに対するや自分は彼らを批判して論駁する」。

内容的には先の「自由主義」への反論が同時に「新毛派」への反批判としてすべて通用するだろう。かっては毛沢東文革を評価していた王希哲がその後の諸過程をへてその認識を変えたことが何か問題であるかのように言う「新毛派」が政治のアマチュアでしかないことを示すだけである。

 

A「文革=ナチス」論、「三大暴君」論と「人民文革」論の狭間で――「自由主義」文革論の今日

 

文革終息後、自由派知識人層において文革総括のヘゲモニーを握ったのは徐友漁、秦暉、朱学勤等をイデオローグとする「自由主義」だった。彼らは、当局の「文革徹底否定」とは区別されるものとしてだが、基本的に文革否定であり、「人民文革」論についても萌芽的にそういう要素があったとしても量のみならず質的にも毛沢東の文革を越えるものではなかったという見解である。

注目すべき点は今日この流れの中から「文革=ナチス」論や「三大暴君」論が登場していることである。彼らは毛沢東的政治思想を根絶することが中国にとって必要不可欠であり、「新左派」、「新毛派」はもとより「人民文革」論についても毛沢東と文革の再評価への道を開くものとして警戒し、批判してきている。

だがここには先に見たように「民主主義と全体主義」という構図に絡め取られ、「ヒトラー、スターリン、毛沢東」を無媒介的な思想の型に抽象化して「全体主義」と見ることが何か鋭さであるかの錯覚があり、その結果は政治分析力の枯渇と現実批判の衰弱である。

たとえば「人民文革」論派の一人、武振栄はこの問題を言語的側面から取上げてこう書いている。

「もしわれわれが問題を分類するに当たって、民主的言語方式とは批判的言語方式であるととらえるとすれば、一九六六年、毛沢東は共産党に対する一貫した『歌功頌徳』〔功績を褒めそやし、徳行を讃える〕方式を放棄し、批判的方式を採用した。ヒトラーをこれに比べることが可能だろうか?」

そしてそれら「批判的言語方式」の一例を挙げている。

「一九六六年、毛沢東はつぎのような発言をしている。『人々に語らせよ、天が落ちて来ることはない』、〔・・・〕『共産党は人民に白色テロルを行なっている』、『ブルジョア反動路線がなお人民を統治している』、『打倒閻魔、解放小鬼』、〔・・・〕。よろしい、ヒトラーはどう語ったか?」

もっとも、「自由主義」の一人、張鶴慈は武振栄のこの発言を取上げてこう言う。

「〔それでは〕毛沢東は彭徳懐が語ることを許したか? 林昭が語ることを許したか? 張志新が語るのを許したか? 総じて幾千幾万のプロ独を敷かれた人々が語ることを許されたか?」。(林昭、張志新らは文革派勢力によって処刑)

張鶴慈の発言はいい気な毛沢東評価に冷や水をかけるものだが、その上でなおかつ「ヒトラー、毛沢東同質論」は世界認識の歪みと現実解読力の喪失を結果してしまうのだが、「自由主義」はそのことに無自覚である。

だがその反面、「改革・開放」の諸結果が顕著になるなかで彼らも当局への批判を強めている分、造反派世代や「新左派」の主張に押され気味で、これまでの主張がややぐらついている感もあり、最近では文革批判の最強硬派だった徐友漁がこう言うのである。

「一九九六年の文革発動三〇周年記念の際、『二つの文革』についての討論と論争がきわめて熱烈に行なわれたが、今年(二〇〇六年)もまた同じ論争がさらに激烈だった。〔・・・〕劉国凱は『北京の春』〇六年一月号に『人民文革について――文革四〇周年に際して』を発表した。〔・・・〕劉国凱の観点はきわめて大きな論争を引き起こした」。(徐友漁)

「一九九六年と二〇〇六年の二回の文革記念日が両方とも『二つの文革』をめぐるきわめて熱烈な論争を生み出したのは決して偶然ではなく、文革研究者の注目に値すべきことであった。とりわけ今年二〇〇六年の論点において文革の中の造反派の再評価、肯定的評価の声が出現したのは文革についての正確かつ深い認識にとって有意義なことであった。文革は確実に『再発見』、再評価のときを必要としている」。

「相対的に言って私自身は『一つの文革』に賛成である。その理由はもし別のもう一つの文革があったとすれば、それは第一の文革が造り出した『プロレタリア独裁』が暫時緩んだとき、『天下大乱』の情勢のもとで生み出されるささやかな現象、活動であって、それは第一の文革の副産物であり、規模、範囲、支配力においてそれと比べようがないものであった。もちろん事態を数量だけで比べるわけにはいかず、第二の文革が第一に比べて取るに足らないものであり、大多数の人々の眼に留まらないものであっても、歴史の発展から見たときその『意義』は巨大であり深遠なものなのである」。

B「脱政治化」論と「戦略的撤退」論への分岐――「新左派」文革論の今日

 

彼らは「文革徹底否定」論を批判すると共に「人民文革」論についても批判ないし不承認なのだが、そこには毛沢東と毛沢東文革の評価をめぐって大きく二つの傾向がある。

一つは文革を中国社会主義の疎外性を克服しようとした試みと見つつ、しかしその無批判的肯定でもなく「悲劇」と見る立場である。つまりその積極的側面を認めた上で、「走資派」的阻害要因のみならずそれ自身の欠陥によって多くの否定的事態を招来し、挫折したという見方である。

もう一つはそれは基本的に正しかったのであり、否定的事態や敗北は強大化した「走資派」勢力との対抗の中で起こったとするものである。だがここでも毛沢東と毛沢東文革の評価の問題が尾を引いており、とりわけ毛沢東の造反派弾圧の評価をめぐって微妙な意見の異同がある。

 

(a)「文革の理解なくして二〇世紀の特質をつかむことはできない」
――学者グループ(崔之元、汪暉等)

 

「文革にも合理的な要素があった」と述べて「自由主義」から猛烈にヒンシュクを買った彼らであったが、その多くは文革を直接経験していない世代であり、その文革評価も西欧の最新の学問的・思想的な分析用語を用いたグローバリズム的「新自由主義」批判の政治的文脈のものであった。

「自由主義」から中国と文革の現実を知らない机上の論とけなされた彼らの主張は、だがその分逆に旧来のパターン化した発展性のない文革論議を越えて新たな視角からそれをとらえ返し、将来へと思考を発展させ得る要素をもはらんでいた。

若干の軽さも含む崔之元の「制度創新と第二次思想解放」、「鞍鋼憲法とポスト・フォード主義」、「毛沢東文革理論の得失と『モダリティー』の再建」等の文章がその代表である。

そして汪睴の場合そのとらえ返し力は、中国近・現代史の独自な総括をふまえてさらにダイナミックであり、そこでは「文革徹底否定」と「告別革命」は今日資本主義と「社会主義」双方の世界に浸透しつつある「グローバリズム」イデオロギーの一環としての「脱政治」的思考によるものと把握されており、それからの脱却がこれからの課題だとされている。

「中国六〇年代への理解なくして二〇世紀への根本的理解を真に生み出すことは不可能である。そして中国六〇年代の最も特徴づける問題は疑いもなく文革である。〔・・・〕しかし文革は脱政治的政治の形成の時期であったということができる。イタリアの社会学者ルッソは文革の終結はその開始後まもなく始まったと論じている」。

汪暉はこのように文革の理解なくして二〇世紀の特質をつかむことはできないと言ってのけているのだが、これはまたきわめて刺激的な発言である。

彼は「人民文革」論には直接には言及してはいず、造反派グループとの論争も今のところ直接には行なっていないのだが、「二〇〇六年の文革四〇周年について当局筋では何の動きもなく、そこではすべてが静まり返っていた。だが私はインターネットと民間での文革論議の変化、その質的変化に注目した」と言う。そしてこの四〇周年での話題は「人民文革」論だったのだから、汪睴は当然それに注目していたわけであり、おそらく毛沢東と「毛沢東文革」をめぐる自分らと「人民文革」論との評価の違いの意味を考えている筈である。

(b)「毛沢東の戦略的大撤退」――「新毛派」(李憲源、老田、蕭喜東等)

 毛沢東と文革は基本的に正しかったとする「新毛派」にとっての大きな難関は一九六八年以降の毛沢東による大規模な造反派弾圧であった。それは「七三布告」をはじめ、「一打三反」、「階級隊列の純潔化」、「五一六精査」と続く苛烈なものであり、文革期最大の死者数はこの時期のものであったといわれる。そしてそれこそが造反派世代が毛沢東から離反する決定的要因となったのである。

「新毛派」のイデオローグ老田は、それは一九六七年七月の「武漢反乱」をメルクマールとする反文革派勢力の優勢化、造反派のセクト主義による分裂等によって文革が非常な困難局面を迎えたなかで毛沢東が選択した「戦略的大撤退」だったという。

「造反派勢力は世論的には優勢であり、市民の広汎な支持を得ていたが、実際の勢力関係での劣勢を挽回し、打ち破ることはできず、それが毛沢東が『戦略的撤退』の準備を始めた双方の力関係だった」。

同じ「新毛派」の李憲源は当時反文革派勢力の崩れは顕著であり、毛沢東がここで「撤退」を行なったのは「誤り」(失誤)だったのではないのかという。

「武漢事件のあと、毛沢東が党内官僚たる実権階層と妥協・譲歩すべきであったか否か、『呼びかけに応じて』造反した人民を政治的に保護すべきであったか否か、このことが私と老田との左翼内部での文革分析方法の大きな分岐点であった。老田は当時の特定の歴史環境と党内の勢力関係が毛沢東に対してもいかなる偉大な政治人物でも絶対に抜け出せない客観的制約作用を及ぼすことを過分に強調しすぎたようであり、毛沢東が情勢判断とより良き政治方針選択で誤りを犯した可能性をまったく排除してしまった」。

かし李憲源もまたそれは「人民文革」論派がいうような決定的裏切りではなく、「失誤」すなわち「政治的誤り」を含む「錯誤」とは区別される部分的ミスだとしており、だから彼らは毛沢東の造反派弾圧を批判する楊曦光らについてこう反批判する。

「楊曦光というこの愚か者はある政治局面の背後の力関係を見て取ることができず、〔毛沢東が彼らを支持しなかったことに恨みを抱き〕ただ自分たちの願望が実現できなかったことを言うだけで、対立勢力の力はどうなのかを見ることもせず、本隊が撤退するときになお自分らは前に進もうとする。この類の者たちが失敗しないとしたら不思議であり、最も笑うべきは失敗した後一〇年も経ってもまだ何が問題だったかを理解できないことである。思うにこの者たちは同様の局面に遭遇したら、やはり同じ誤りをおかすだろう」。(老田)

「そして王某〔王希哲〕たるおまえは、今になっても思想が未成熟な中学造反派のボス連中のように、なんと毛沢東が直面したこの種の客観的制約を見ぬくことができず、国家の大局の基本的安定が必要であり、また党内官僚階層の内心での文革への極端な憎悪、造反派憎悪の巨大な圧力への対応において、毛沢東が当時置かれた苦難に充ちた境遇とどうしようもない状況をまったく認識できていないのだ」。(李憲源)

階級闘争のある局面で「撤退」、それも「戦略的な」それもありうる。しかし造反派を政治的幼児扱いする老田、李憲源の政治水準もさして高いものではない。なぜなら「戦略的大撤退」というとき、その「戦略的」の意味は将来における戦略的大攻勢を予期する筈のものである。毛沢東がもし老田、李憲源のいうような意味で「戦略的大撤退」を考えていたとしたら、彼はその後の反転のための推進主体に充分注意しなければならなかった。だが毛沢東が行なったのは「撤退」の理由を説明することなく、造反派を敵勢力だとするデマゴギーのもとでの大規模な物理的殲滅だったのである。


二、「告別革命」論の展開――楊曦光と李沢厚・劉再復

 

先に(bQ)ふれたように、一八九八年の戊辰変法のあと、二〇世紀に入って三度にわたる革命(辛亥革命、国民革命、そして中国革命)を行なってきた中国では、とりわけ一九四九年以降「革命」は疑いを許さない至高の価値であり、くり返し想起すべき栄光の事跡となった。

 そしてソ連・東欧での社会主義体制の崩壊以降もなお「社会主義」が保持されている。その中国で「告別革命」(革命よさらば)が唱えられ出したのだからことは並大抵の事ではなかった。

「告別革命」論とはひと言でいって、社会の根本的諸矛盾の解決に当たって「革命」という方法を想定することは今日では誤りであるという考えである。「革命」は問題の解決ではなく新たな、より深刻かつ悲惨な状況を招来するというのである。

 こういう「革命」批判の仕方は新しいものではなくこれまで何度もなされてきた。だが文革以降の中国で、またソ連・東欧崩壊後の世界でなされている「革命」批判はその種の常套的な物言いとは異なっている感がある。それはいわゆる「反共イデオロギー」という次元を越えた政治論的、思想論的な深みからする「革命」の総括となっているからである。

この「告別革命」という言葉が印象的に世に伝わったのは、李沢厚、劉再復『告別革命――二〇世紀の中国をふり返る』(天地図書、一九九五)によってである。だが同じ趣旨での革命批判をそれに先んじて行なったのは楊曦光であった。あるインタビュー記事の中で彼はこう述べている。

 「李沢厚と劉再復の対話『告別革命』は『八九風波』〔天安門事件〕のあとであり、彼らは海外で完成したのだが、私が大体のところ同趣旨の観点を表明したのは一九八七年であった」。(向継東「革命と反革命およびその他」一九九九)

 それはどのようなものであったか。

 

1.楊曦光「中国政治随想録」――「マルクス主義政治理論の浅薄さ」

 

この楊曦光の言う一九八七年の見解とは「中国政治随想録」という文章のことであった。(なお文革終以降、楊曦光は楊小凱を名乗っているが、ここではかっての名前にした)

これはその後の「人民文革」論派を含む海外民運や「自由主義」が共通して掲げる「民主的な立憲政治」展望にとって一つのテーゼ的重要性を持つ興味深い文章である。それを見る前に彼自身の言葉による要約を見ておこう。「革命」について彼は端的にこう言う。

「たとえばある人がもし今日武昌蜂起型の民主革命が起きたとしたらあなたはどうするか?と尋ねたら私の答えはこうである。『私は直ちに中国を遥か遠く離れ、革命中の中国から身を隠すだろう』

私自身は文革後の反革命気分の代表者である。私は監獄のなかで多くの良き友と親交を結んだが、彼らは一九四九年革命の被害者だった。私は彼らが本当に愛したが、共産党の革命はこれら高尚な人たちを亡霊に変えてしまった。私自身、文革のなかで一家離散し肉親が死んだ。母は迫害されて自殺しており、私は文革が何であったかを知っている。私はいわゆる『偉大な人民』が革命のなかでいかなる行為をなしたかを知っている。私は革命が政敵を迫害する感情によって全民族を毒したことを知っているが、あの当時この感情を誰もがみな抑制できなかったのであり、そしてこの感情こそが専制制度の基礎だったのだ」。
 この楊曦光「反革命理論」を見ていく上で注意すべき点を先に述べておこう。
 まず第一は彼がここで言っている「革命」とは「革命」一般というより多分
に中国固有の「改朝換代」(王朝の交代)型「革命」観についてであり、古来中国で古い専制が倒れ後、新たな専制が生まれるという循環がくり替えされてきたのである。近・現代での中国の革命も総じてそういうものだったというのが楊曦光の主張である。

 第二に彼が「革命はその暴力的手段によって暴力的体制を不可避とした」、「革命が民主を押しとどめた」というとき、そこにはのちに見るように開かれた「政治空間」への強い希求があったことである。事実、楊曦光は別の文章で「政治空間」について述べている。

 「歴史の経験がわれわれに告げているのは、政治的迫害によって国民党員たちの政治空間を剥奪したことによって、迫害者自身の政治空間をもまた狭めてしまったということである」。

だから楊曦光が中国での革命は阻止されねばならないというとき、それは文革終息後の共産党統治の抑圧性を是認したものではなく、「開かれた政治空間」を抹殺した二〇世紀共産党統治への批判は前提であり、のみならずそれに勝利した資本主義国家の抑圧性をもつらぬくものとなっている。

第三に楊曦光はその後自らの「反革命理論」をある核心において訂正しており、先の一九九九年のインタビューで「現在私の観点は〔一九八七年当時とは〕大いに異なっている」と述べていることである。

「現在、私はこの観点を修正しようと考えている。というのは革命理論にもその合理性があるからだ。〔・・・〕革命は総じて統治者に対する一種の威嚇である。この威嚇がなければ政府の人民への奉仕の承認も信じがたい。威嚇があってはじめてその行為も物事の筋道から大きく外れることができなくなるからだ」。

楊曦光はここで「人民の革命権」を再確認したのである。だから彼をここ「告別革命」論の章の冒頭に置くのは不適当かも知れない。だがその「改朝換代」型革命からの「告別」論は二〇世紀革命の総括の一端として不可欠な論点なのであり、それはまた「告別革命」論のそもそもの趣旨でもあるわけだからこのままにしておこう。

さて「中国政治随想録」である。彼は先のインタビューでこの文章の趣旨をこう述べていた。

「あの文章のなかで私はロックの思想からきわめて大きな影響を受けたと書いている。ロックの論理によれば、革命が覆そうとするのは一人の暴君だが、その暴君をさらに上回る集権的権力がなければ打ち倒すことはできない。

一たん暴君が倒されるや、革命のなかで形成された権威を誰もまた制御できず、そして新たな暴君が生まれ、それがまた革命を促すことになる。これがすなわち『革命が暴君を生み出し、暴君が革命を生み出す』という改朝換代〔王朝の交代〕の論理である。

私には二つの基本的観点がある。一つは革命を手段として専制を覆すことはできないということであり、もう一つは革命は民主化過程を遅らせるということである。さらに言えば現代の条件のもとでは、もし国家間の戦争がなければ、上層階級内部の大規模な衝突、あるいはそれに類似した代理人同士の戦争といった局面がなければ、革命という手段をもって一つの専制政体を覆す企ての成功の確率はゼロに等しい。

言いかえれば私は革命を主張しないということである。なぜなら革命は民主化過程にとって無益だからであり、まさに一九四九年の革命は中国の民主化を数世代にわたって遅らせたのだが、それはロシア革命がソ連の民主化を挫折させたのと同じだった。だから革命を阻止することは今日の中国の改革にとって大いに重大な現実的意義を持っているのだ」。

楊曦光のこれらの主張の背景には言うまでもなく文革の経験、その総括があったわけだが、しかしそれだけでなくそれはまた文革終息以降のケ小平「改革・開放」の圧倒的な進展と一九八九年天安門事件、さらにソ連・東欧圏の崩壊という国際情勢の展開を受けたものでもあった。

ところでここで楊曦光が依拠するロックの革命批判の論理はわれわれにとってすでにおなじみの「論理」であり、ことさら何ごとかを触発するものではない。だが楊曦光が言うときそれは新たな喚起力を持つものとなる。というのも楊曦光のそのようなロック受容の背後にあったのは文革のなかで経験された権力と大衆の赤裸々な姿、獄中での卓越した同房者からの毛沢東政治に関する「政治教育」だったからである。

一〇年の獄中で彼は多くの政治犯と接しているが、ここでのテーマとの関連では二人の人物が重要である。一人は陳光第、この湖南大学数学科の教師から彼は『資本論』を貸し与えられ、数学の手ほどきを受け、のちに経済学者となるモメントをつかんでいる。

もう一人は劉鳳祥、『湖南日報』編集者で一九五七年の「右派」、楊曦光はこの卓越した人物から共産党統治下の中国現代政治をどう見るか、その変革の見通しは何か、毛沢東と文革の評価などをめぐって大きな影響を受けている。彼を「崇敬し、心底敬愛した」という楊曦光は薄暗い獄舎での声を落とした会話、将棋盤に顔を落しながらの質疑を「私にとって永遠に忘れ難い現代中国政治史の講義であった」という。因みにこの二人は文革派勢力によって死刑に処せられている。

満期出獄後アメリカで「エコノメトリックス」を学んでいるという情報によってわれわれに多くの感慨を催させた楊曦光だったが、しかしこの「中国政治随想録」を見れば決して別の世界に行ってしまったわけではなく、「中国はどこへ行く?」という問いを新たな形で持続していた。この文章はその後の「人民文革」論派さらには海外民運派の政治構想に大きな影響を与えており、少し詳しく見ておこう。

 

(1)「改朝換代」型革命の批判

 

一〇年にわたる獄中での文革と「湖南省無聯」の総括作業から彼がたどり着いたのはコミューン革命そのものの対象化と批判だった。

 「私は文革のときに書いた『中国はどこへ行く?』のなかで、公務員の直接選挙、常備軍の取消し、高賃金の取消し、等々を含む『パリ・コミューン』式民主を推賞した。そしてこの種の民主を実現するには逆に激烈な革命的手段、すなわち中国の『新特権階級の打倒、旧国家機関の破壊』が必要だとした。

このため私は牢獄に一〇年入ることになった。そこで私は多くの歴史書を読んだのだが、ヨーロッパの政治史を理解したいと思って始めるなかでつまるところ民主政治とは何か、それをどう生み出すのかを考えるに至った。その過程で私はジョン・ロックの思想にきわめて大きな影響を受けた」。

「私は早くからの官製イデオロギーの批判者だったが、革命的民主主義と現代民主主義政治はまったく別のもの、ひいては対立的なものだということを知ったのはロックの思想を摂取してからであった。ロックの思想はイギリス革命の産物であり、クロムウェルの独裁はその革命の結果であったが、それは旧王朝よりさらに悪いものであった」。

以上の論述には若干のコメントが必要である。それはそこでは「『パリ・コミューン』式民主」が「革命的民主主義」あるいは中国共産党の文脈では「人民民主主義」とイコールのものと認識されていることである。

だがマルクス「パリ・コミューン」論、そしてローザ「社会主義的民主主義」論とレーニン「人民民主主義」論とは開かれた政治空間の評価においてイコールではなかった。楊曦光の「反革命理論」ではこの問題が未分化であるといえよう。

だが中国共産党が理解した「パリ・コミューン」式民主とは実際には「人民民主主義」のことだったのだから、ここでの楊曦光の主張は間違っていたわけではない。

 そしてロックの「革命が暴君を生み、暴君が革命を生む」という改朝換代〔王朝の交代〕の論理に深く共鳴する彼は「民主を追求する第一の主旨は暴君を倒すことにあるのではなく、いかにしてそれが改朝換代となってしまうこと、『革命的民主主義』の陥穽に堕ち込むことを避けるかということにある」のだという。

 「マルクス主義政治理論の浅薄なのは、それがロックとモンテスキューの理論から後退した革命的民主主義理論を採っていることであり、この理論は中国式の改朝換代を越えるものではないのである。この理論の核心は誰が権力を握るか(いわゆる国体問題、すなわちプロレタリア独裁なのかブルジョア独裁なのかの問題)であって、政体それ自体の真の創新〔創造〕ではないのである。
 だがロックとモンテスキューの理論の核心はまさに『支配者(制御者)』そのものを制御するメカニズムを考案することであった。社会主義政治制度の失敗はマルクス主義政治学の浅薄さと『支配者(制御者)』の制御を欠いた設計思想を基礎にしたことにあった。だから社会主義政治制度の失敗は実践問題なのではなく、政治設計思想の失敗なのである」。

 この指摘はきわめて重要である。というのはここで楊曦光が「ロックとモンテスキューの理論の核心」として把握している問題は今日にとらえ返せば「開かれた政治空間」の問題である。それより後退した「人民民主主義」を択び採ることによって「開かれた政治空間」の「創新」、制度的開拓をなしえなかった「浅薄さ」を衝かれたこれまでのすべてのマルクス主義政治理論はこれに何ごとかを答えなければならない。

 「たとえて言えば、われわれは人間を一半は天使、一半は野獣と仮定できる。他人を征服する、人に損害を与え自分が利を得るという悪は『暴君』にも『人民』にも同じようにある。暴君が打倒されれば『人民』はただちに異なる党派に分裂し、互いに闘争する。暴君を倒していいのに、なぜ敵対党派を倒していけないのか。『人民』は暴君が用いるやり方で相互に殺し合い、それは新たな暴君が登場するまで続く。

中国の毎回の改朝換代はみなそうした過程をたどっている。大匪賊(皇帝)を打倒するや、無数の小匪賊が数えきれないほど現れて相互に殺し合い、もう一人の大匪賊(新皇帝)の登場を残すだけである。最後に人民は多数の小匪賊より一人の大匪賊の方がまだましだと思い知らされる。こうして新たな王朝は一定の期間強固に存続できることになる。〔・・・・・〕この種の革命が『民主』を生み出すことができると信じるのはただ政治的無知だけである」。

このように楊曦光は「改朝換代」型革命の根拠、さらに革命権力の抑圧権力への転化を人性論的に説明するのだが、しかしそれだけでは不充分だろう。革命権力が何を媒介として抑圧権力へ変質、退化するのかが、論理的、現実的に解明されていかなくてはならない。

(2)「文革は反革命気分を培養してしまった」

 

楊曦光によれば一九六〇年代末期の中国は暗い政治的雰囲気に覆われていたという。一九六八年以降の造反派弾圧がもたらしたものであった。

この時期、民衆の間に共産党統治への反発が高まり、そのための党派形成の地下的な動きがあちこちで起こっている。一部の者たちはボリビアでのゲバラの闘いに注目していたという。だがゲバラは敗北し、活動家たちに現代的条件のもとでの武装蜂起や武装闘争の不可能性を思い知らせている。

 これらの動きを注視していた共産党は大規模な弾圧に移っている。「一打三反」、「階級隊列の純潔化」、「五一六精査」がそれである。これによって「反右派闘争」のなかから登場した優れた政治指導者や「出身論」を書いた遇羅克らの思想家、先端的な活動家層が根こそぎ抹殺されている。

「革命活動に従事していた一群の優秀な職業政治家が政治的害悪と見なされ銃殺されたのである。今回の大規模な鎮圧活動に私の心は震撼させられた」と楊曦光は書いている。彼はリアルにこう言う。

「原則的に言って、現代的条件のもとでは、もし国と国との戦争、上層階級内部での大規模な衝突〔・・・〕がなければ、革命的手段をもって一つの政体を打倒する成功率はほぼゼロに等しい。文革のなかで一群の非常に優秀な知識分子が政党活動に参加したのは、文革のような上層内部での大規模な衝突によって革命の機会が与えられるか否かがまだ少しハッキリしなかったことによっている」。

 「だがこれらの知識分子はのちに文革は人民のなかに強烈な反革命的気分を培養したことを認識することになる。文革は政権を換える条件を創造するに到らず、逆に政権を換えるのを防止し、共産党政権を強固にするという予想に反する作用を生じさせたのである。それはまた人民が大躍進以来蓄積してきた専制政体への不満を文革のなかで吐き出したということでもあった」。

 「文革のなかで『人民』がその匪賊的な一面を暴露したのは疑い得ない事実である。毛沢東が短期的に許可したまやかしの政党自由化のもとで、人々はワッと立ち上がるや、互いに殺し合ったのである。人々は一個の大匪賊の方が多数の小匪賊よりまだましだと了解した」。

 「革命が民主化過程を遅らせるのは、まさしく一九四九年の革命が中国民主化過程を遅らせ、ロシア革命がソ連の民主化過程の目途が立たないまでにしたのとまったく同じであった。だから革命を防止することは今日の中国の改革にとって依然として現実的かつ重大な政治問題なのである」。

 ここで楊曦光は文革が「革命情勢」(レーニン)論的に未成熟だったと述べているわけだが、この言い方では一九六八年以降の大弾圧が反文革派たる「走資派」のよってではなく、毛沢東と文革勢力によるものだったという錯綜した問題が曖昧になってしまっている。

 楊曦光はこの問題を重々知っていたわけだから、そのことは毛沢東文革の根本的問題性、すなわち「文革は政権を換える条件を創造するに到らず、逆に政権を換えるのを防止し、共産党政権を強固にするという予想に反する作用を生じさせた」という認識の中に含まれているのかも知れない。

 そして重要なことはそのことと共に文革における造反派を含む「人民」そのものの「匪賊的な一面の暴露」が民衆のなかに「強烈な反革命的気分を培養した」と反省的に総括されていることである。楊曦光は別のところで「『文革徹底否定』論にはかなりの民意の基礎があったのだ」と述べていた。

 

(3)「マルクス主義と儒教文化の結合が生み出した奇怪な文化現象」

 

 以下の「中国政治の特質」論、あるいは共産党統治論はこの文章の圧巻の一つである。

 「中国政治の一つの重要な特質は王朝の周期があることである。〔・・・〕王朝の周期という現象はヨーロッパでははっきりあるわけではなく、そこでは下からの農民蜂起による王朝の更迭はきわめて少ない。〔・・・〕

たとえばアメリカ人が政党の自由を論じるとき、それによって改朝換代を連想する人はいない。だが中国で成立した大多数の政治組織はみな改朝換代を目標としている。(〔・・・〕革命あるいは解放等々と自称したとしてもである) 農民蜂起軍もしかり、国民党もしかり、共産党もまたしかり。中国政治において成功した政党はすべて改朝換代党(革命党)なのであって、現代政治的な意味での政党ではないのである。だから中国人が政党の自由について述べるやただちに改朝換代を想起するのである」。

つまり文革における造反派の奪権論もまた「権力再分配」という改朝換代的発想を色濃く残しており、実権派との「武闘」が内部に差し向けられたとき「派別闘争」(党派闘争)」もまた激烈なものとなったのだが、ここでのテーマはまず共産党統治の特質である。

 「とりわけ徹底的な改朝換代に成功した経過を持つ共産党の統治は残酷きわまる手段であらゆる政党活動を鎮圧してきたのであり(中心人物は一五年の懲役〜死刑)、だから政党の自由に主張と改朝換代との関連に特別敏感である。

私個人が中国の政治犯を観察したところでは、一九四九年以降の大陸の絶大多数の秘密政党活動は親ソ的な『労働党』、親西洋的な『民主党』、親台湾的な『反共救国軍』、儒家を信ずる『大同党』、それに農民結社的性格の『一貫道』にしてもみな改朝換代を目標としていた。

 そして共産党の政治的安定とはすべてこの種の政党活動への残酷な鎮圧、すなわち鎮反、粛反、反右、階級隊列の整頓、一打三反、清査『五一六』等に依拠したものなのである。

この種の政党活動の鎮圧に依拠して過ごして来た政権が政党活動の禁止を解き、民主政体となるなど子供を笑わすホラ話しではないのか?もしそうでないならこのように残酷に政党活動を鎮圧してきた共産党がなお悪事を働き続け、崩壊しないことがあるだろうか?(一九五九年餓死二〇〇〇万、『文革』がまた中国人民に塗炭の苦しみを舐めさせたのだ)

どの新王朝もそうであったように共産党の開国も残酷な鎮圧を基礎としていたのであり、仁政は補助だったが、その仁政たるや哀れなほどちょっぴりだったのだ」。

 「国民党は歴史的には随朝に極めて似ていた。それは共産党に比べて現代型政党に似ており、その文化水準は高かったが戦争能力はあまり高くなかった。

 国民党の革命は徹底的な改朝換代ではなく、幾分現代ブルジョア革命の趣きがあった。それに対し共産党の統治は明朝にきわめて似ており、徹底的な改朝換代であって、旧社会の基盤であった地方の有力な地主や退職官吏は根こそぎ亡ぼされ地獄のどん底に叩き込まれたのである。毎回の政治運動をへて、とりわけ人があまり注意しない一九五八年の反右派運動を通して、地方の有力者や中産階級はその社会的地位が完全になくなり、奴隷より哀れな境遇になった。

〔・・・〕エンゲルスとウィットフォーゲルの見解に反してこの種のアジア的専制は公共管理機構(水利のごとき)の基礎の上に建立されているのではなく、一個の大匪賊による無数の小匪賊の支配、すなわち支配するために他人を征服するという悪を基礎として建立されているのである」。

 「中国政治のもう一つの特質はそれが非常な権威主義であって全体主義〔極権主義〕ではないことであった。だが共産党統治の特質は権威主義ではなく全体主義である。共産主義の集権は人類の歴史のなかで未曽有のものであった。中国の今日の人口流動への抑制は歴史に例がないだけでなく、『大兄』たるソ連よりはるかに厳しいものであった。だから中国の、歴史に前例がなく傍証のない最暗黒の政治現象は、マルクス主義と儒教文化の結合が生み出した奇怪な文化現象というほかなく、この種の文化現象の惰性と暗黒は決して軽視できないのである」。

 以上のように言う楊曦光はだがそれを中国における「政治」の宿命とは見ておらず、何より文革そのものがその構造を打ち破ったのだという。

 「しかし以上の奇異な政治構造は決して永遠不変のものではない。文革においては広大な市民が迫害を受けただけでなく、中国共産党の一群の政治指導者たちも傷害を受けている。それゆえのちにこれらの政治家が〔・・・〕再び権力の中心に上ったとき彼らは以前の政治構造をことさらに打破したのである。だからケ小平復活後の十年、われわれは中国の政治空間が多元的傾向を帯びたことを見てとることができる。〔・・・〕私が思うにケ小平復活後の創造的な新たな政治構造こそ中国現代史に対する文革の最大の影響なのである」。

 見られるようにここでも「多元的政治空間」がものを見ていく指標となっており、ケ小平政治への評価と批判もそれを基軸としている。

 

() イギリス名誉革命――「政治設計」の金字塔

 

 ここもまたこの文章の圧巻である。楊曦光がその「開かれた政治空間」論の元イメージを得たのはイギリス名誉革命の研究を通してであった。彼が感嘆したのはこの革命の担い手たちが激烈な内乱の中から専制を阻止し防ぐ「『制御者』制御の仕組み」を探し出すという「政治設計」に真剣に取り組み、ついにそれを見つけ出したことであった。制度の構築に向けた政治的構想力が革命家たちに問われたというのである。

「イギリス名誉革命(実際にはクーデターだったが)は、おおよそのところ
私にとってもっとも完璧な政治設計であった。それは長期にわたる伝統的な専制国家において、革命と専制の循環構造を抜け出し、『制御者』を有効に制御する方法を探し出したのである」。

 その名誉革命においてとりわけ楊曦光が感嘆したのはクロムウェル・ピューリタン革命への反動として復古した国王権力を制限した貴族たちの判断力であった。彼らはオランダからメアリとその夫を招聘し、その軍事力をもってジェームス二世を亡命させる一方、国内基盤のない王に権利章典と議会の権限を認めさせたのである。楊曦光はこれを知って「こらえきれず机を叩いて賛嘆の声を上げた」という。
 「これはおそらく専制制度を改革することを通して制度を創造〔創新〕し、
革命と専制の循環から抜け出し、長く安定した統治へと向かう最も見事な事例であった」。

「民主政体における『制御者』制御の仕組みについていえばそれはごく簡単なものである。すなわち人はみな生来弱点を持っており、まったく非のうちどころのない制御者など存在しない以上、なすべきことは『一半は天使、一半は野獣』の人々を平等に競争させることである。

つまり三つの平等に競争する野獣(二党制あるいは三権分立)の存在が民主なのであり、一人の『聖人』だけが存在するのは専制政体なのである。この道理はきわめて簡単なのだが、それを実行するのは容易ではない。なぜなら人はみな征服本能を持ち、相手を打倒しようと考えるからである。

いかにして彼らの平和共存、平等な競争を実現できるか? 唯一の方法は歴史に学んで各派間の平衡、誰もが誰かを食い尽くすことのできない局面を生み出すことである。それがすなわち二つの魔物が平等に競争する(民主)の条件なのだ」。

 「だから民主主義者についていえば、実際に用いるべき知略(謀略)はできるだけ上層各派の均衡を維持することであり、たとえば共産党が国民党より大きい場合は国民党を支持し、造反派と保守派の中のある一派がきわめて優勢な場合はそれへの別の敵対派を支持することである。一九四九年に民主党派が犯した誤りは共産党が強大なとき国民党を支持しなかったことである。実際に当時ある一人の聡明な民主党派の指導者はこのことを見ぬいており、共産党一辺倒は専制制度を生み出す条件となることを認識していた。だが惜しむらくは民主制度の実際は当時大多数の中国知識人に認識されておらず、彼らは民主とは一個の聖人(共産党)によるものであり、二つの魔物(国共共存)によるものではないと思っていた。中国知識人の好んで強権に追随し、弱者を蔑視する伝統もまた一九四九年一方のみが制覇してしまったことに責任があるのだ」。

 知略の原語は「謀略」である。中国語の「謀略」も「策略」もそこには悪巧み的な意味はないという。頭を絞って「平等な競争」の方策を考え出せというのである。日本の新左翼は開かれた政治空間のもとで闘争と共同を行なうのではなく、あるいはそれを可能とする制度条件の「創新」に頭を使うのではなく、「征服本能を持ち、相手を打倒しようと」する「謀略」(日本的語意での)に専念してきてしまったわけである。

 

(5)「共和主義」への共感

 

 興味深いのは、以上のような考察のなかから楊曦光が「共和主義」に強い共感を示していることである。一九八〇年代後半以降、アメリカをはじめ世界で共和主義への関心が急速に高まったといわれるが、そこには同時期での東欧、ソ連の崩壊のもとでの共産主義的政治思想への幻滅と、他方勝利者として登場した「自由主義」への批判があったのだろう。

 楊曦光の場合、中国政治への批判はあらゆる政党活動の鎮圧に依拠した共産党統治の残酷さに対するものであったが、そこには「人民」が文革の中で示した「匪賊的な一面」への批判も含まれており、それはまさしく「専制政治」と「衆愚政治」的人民民主主義を共に批判する共和主義への共感へと連なるものであった。

「以前われわれはただ民主を強調してきたが,実際には民主、自由、共和、立憲政治(「憲政」)という四つのものには違いがあった。比喩的にいえば民主と自由は緊張関係にある。自由は少数派を保護せよなのだが、民主は少数派は多数派に服従せよなのであり、だから自由主義は民主を信任しない。なぜなら民主は『多数派の暴政』を引き起こす可能性があるからである。

人類の歴史においてわれわれはこのような残酷な事実を見出すのに事欠かないのである。少数は多数に服従せよの結果は多数派による少数派の迫害となる。 

共和は地方の権力は中央から来るのではなく独立したものあることによって、地方の権力と中央権力との平衡関係〔制衡〕を作り出す」。(前傾インタビュー)

 「中国人は共和についての理解がきわめて少なく、民主について論ずることがきわめて多く、自由について論ずることはきわめて少なかった」。

〔「五四のスローガンは民主、科学、自由と立憲政治だったが、あなたの考えでは現在は自由が第一位に置かれるべきなのだろうか?」という質問に対して〕
 「自由は科学の前に置かれなくてはならず、立憲政治と共和は民主の前に置かれなくてはならない。私は科学崇拝はすべきではなく、今日中国が直面する多くの問題は民主と科学崇拝に関連しているとすら思っている。中国はきわめて多く回り道をしてきたが、それは五四に反したからではなく、五四の結果なのだ。もし当時自由を強調し、立憲政治と共和を強調していたら情況は違っていただろう。

共和と民主は同じものではないのだ。共和は権力上層の均衡を重視するのであり、民主は下層の政治参加を重視するのだが、両者を比較すれば共和は民主よりさらに重要である」。

 先にふれたがここで楊曦光が警戒している「民主」とは「衆愚政治」さらには「プロレタリア民主主義」についてであることに留意すべきだろう。


(6)「私有化」の意義、民主尚早論

 

楊曦光は「改朝換代」型革命を防止し、多元主義的政治空間を維持するためには「私的所有」の回復による中産階級の形成が必要であり、それを抜きにした民主化は「多数暴政」の「革命的民主」となってしまうとくり返し述べている。

この辺は当然論議を呼ぶところだが、楊曦光の場合それは「国有化工業制度はまさしく専制政治に適合するのであり、国有化の条件下では『大民主』は不可能である」という認識のもとでの主張でありことに注意しよう。それに「私的所有」の問題はかのマルクス「個体的所有の再建」論もあって解決済みではないわけであり、ましてわれわれが「開かれた政治空間」論をめぐってなにごとか解明しえてきているわけではまったくないのである。

「第一に革命を手段として民主を追求することをしてはならず、民主の第一番目の条件は革命と専制の循環を避けることなのだが、革命そのものがこの循環を促成してしまうのである。

第二に発達した私有財産制度がないときに民主政治を語ることは相当危険なことであり、それは動乱と改朝換代を招来しかねないだろう。

第三に中国共産党の統治の発展変化が民主政治の時代に到達することは根本的にありえない。共産党はまだその開国期の後期にあるのであって、その基本的特徴は政党活動の鎮圧と(政党は民主の必要条件であるのに)政治の独占なのである。

民主政治改革を討論するのはまだまだ早過ぎるのだが、しかし多くの特殊な事件、たとえば『文革』、台湾問題、ケ小平の復辟、ソ連式制度の危機等々が政治改革(民主改革ではなく)に動力装置を提供している。

中国は極端な専制政治から権威政治への過渡の可能性に直面しており、台湾がまさに権威政治から民主政治へと進みつつあることにまだはるかに及ばないがソ連型の政治発展方式から離脱する確率はかなり高いのである」。

「大陸においては政府が全社会を呑み込んでしまっており、政府から独立した中産階級は存在しないか、気息奄々である。こうした情況下で民主を語るのは贅沢かつきわめて危険である。なぜならそのための社会構造の基礎がまったくないのに世論をごまかし、うまくいくと粉飾して危険について語らないからである。もし本当に民主を追求すれば、それはうまくいかず動乱と改朝換代を引き出すだろう。独立した中産階級が存在しないなら、『人民』は建設性を持つことなく、きわめて危険な改朝換代勢力と化すのである」。


(7)台湾問題、文革、ケ小平復辟の意義

 

 以下の認識には楊曦光の柔軟かつ政治的射程の長い分析力が示されているといえよう。 

「中国が民主化に向かう過程において台湾問題が最も重要な要因の一つとなっている。それは台湾が急速に民主政体に向かっており、中華民族という古い歴史を持つ民族が初めて自己の政党政治を持つことを意味するということだけでなく、台湾の存在が中国の政治構造を一元化することを不可能にしていることによる。〔・・・〕もし台湾問題がなかったら一国両制の政策はありえず、共産党もまた今日このような開明政策をとることはなかった」。

 「文革が中国にソ連型の発展方式をくり返すことを不可能にしたことが別の決定的な要因となっている。権力上層についていえば文革はケ小平の復辟をもたらした。これは社会主義国家の政治史のなかではごく稀なことであった。〔・・・〕ケ小平の復辟は初めて『反党分子』が再び権力の座についたのであり、権力移動はそれまでの中枢内部の分裂としてのみあるという政治パターンを打破したのである」。

 以上のような楊曦光「反革命理論」については中国での革命は必ず「改朝換代」型になると言えるのか、等の批判もある。しかしそれが単なる「革命」是か否か論ではない、文革総括と「開かれた政治空間」をもっての「中国政治の特質」論、共産党統治の批判、そして「共和主義」の評価を含む立憲政治の提唱などの政治的構想力によって、今では「人民文革」論派、海外民運派などの造反派世代にも大きな影響を与えるものとなっていることを見ておかなくてはならないだろう。

 

2.李沢厚、劉再復「告別革命」論

 

李沢厚、劉再復の対話録(『告別革命――回望二十世紀中国』天地図書、一九九五)の表題に用いられたこの言葉は以後人口に膾炙し、それへの賛否両論がインターネット論壇を賑わしている。

(1)「革命と政治がいっさいを圧倒」した二〇世紀

 

 「七〇年代末から、私は何度も述べてきたのだが、国内や国外での影響の大きかった革命について、フランス革命を含めてロシア革命、辛亥革命等々をあらためて再認識、研究、分析、評価をすべきであり、革命方式の弊害、それが社会にもたらす各種の破壊を理性的に分析し、諒解する必要がある」。(李沢厚)

「わが国の二〇世紀は革命と政治がいっさいを圧倒し、他のすべてを排斥し、すべてに浸透し、いっさいを主宰すらした一世紀であった。そしてこの種の政治はまた『一つが他の一つを食い尽くす』、『生きるか死ぬか』の調和の余地が微塵もない政治であった。この種の革命政治は当然にも社会に急進的な雰囲気を充満させ、そのなかで人々の生はきわめて緊張していた」。(同上)

「二〇世紀のはじめ、康有為、梁啓超は革命派と論争したが、今日この二人の主張が誤りだったとは簡単には言えないのである。私は康有為のあの『君主立憲』、『虚君共和』の思想は当時にあってはきわめて道理があったと思っている。この大論争は見直されるべきではないか。二〇世紀の末になってようやくこの世紀の初頭での論争の見直しを論ずるのはまさに悲痛かつ滑稽なことである」。(同上)

「私はイギリス型の改良に賛成であり、フランス型の嵐のごとき大革命に反対する。この種の革命方式が支払う代価はあまりに大きすぎるからである」。(同上)

「われわれのこの世紀は革命が絶えることなく、その革命のために各種の厖大な理論体系を導入し、加えて毛沢東もまた一つの思想、イデオロギーを創造した。これらのイデオロギー系統は本来道を照らすためのものであったが、しかし何故かついには国家は人々を安心して暮させず、おどおどさせるためのものとなった。ここには巨大な陥穽、すなわち階級闘争を要とする国家イデオロギーの陥穽がある。〔・・・〕幾十年にわたる階級闘争にわれわれは疲れ切り、精力を使い果たし、わが民族はまさに疲労困憊した民族となってしまった。

世紀末となった今日、厖大な理論体系の他に簡単明瞭な常識を再発見することが重要である。たとえば人類は生存するためにまず食べなければならないということ、すなわち生産力を発展させる必要があるという考えである。ケ小平講話の意義はこのことを述べていることである。この常識が往々『真理体系』より重要なのだ」。(劉再復)

(2)「告別革命」ではなく「革命を軽々しく主張しない」という選択

 

それにしてもこの種の「告別革命」というような論議についてどう考えたらいいのか。それを検討に値せぬ「背教者」の言として済ますことのできない経過をわれわれが経てきてしまっているのは事実であり、いかなる「革命論」も一度はこの「告別革命」論に自らを晒してみてそれに耐えうるかを問われているのは確かなのだろう。

もっとも「革命」是か非か、「革命」をやるのかやらないのかという議論が少し変なのも事実である。「革命」についてローザが「わたしはかって在り、いま在り、こんごも在る」と書いたのは一九一九年一月、彼女の虐殺とドイツ革命敗北の前夜であったが、「革命」について考えるときこの把握が大前提だからである。

すべての革命あるいは大政治変動期の後には運動への反省と「告別革命」の声が起こっている。たとえばロシアの一九〇五年革命敗北の後がまさにそうであった。スターリン党史(『ソ同盟共産党小史』国民文庫)がつぎのように描き出す時期である。

「一九〇五年の革命の敗北は、革命の同伴者のあいだに分解と堕落をうみだした。インテリゲンツィアのあいだには堕落とデカダン主義がとくにつよまった。〔・・・〕反革命の攻勢はイデオロギー戦線でもおこなわれた。

大ぜいの流行著述家が出現し、マルクス主義を『批判し』、『やっつけ』、革命を侮辱し、愚弄し、裏切行為を礼賛し、『個性の崇拝』にかこつけて性的放肆を礼賛した。哲学の領域ではマルクス主義を『批判』し修正しようとする企てがつよまり、また一見『科学的な』論拠にかくれたありとあらゆる宗教的思潮があらわれた。マルクス主義の『批判』は一つの流行となった」。

中国における今日の類似した思想状況を念頭に置きつつ、金雁(秦暉夫人)がこの時期について書いている。(王思叡、何家棟による要約)

「金雁はロシアの先例をもって中国の人々に、革命が知識人エリートたちの転移による爆発であるかどうかを教えている。一九〇五年革命の失敗後、以前の自由主義者のなかに『道標』派という転向が発生し、一九世紀中頃以来ロシアのインテルゲンチャのなかに生まれた急進主義的伝統を清算した。

ある人の認識では、急進主義思想は急進主義運動へと変化し、それはすでに政治的、戦術的な誤りのみならず道義的な誤りを意味した。ある人は過ぎ去ったばかりの革命への否定と懺悔を示しもし、甚だしくは革命を望まない態度がまだ少なく、革命を恐れるべきだと宣言さえした。革命の外に身を置くだけではまだ足りず、革命に対立すべきであり、政府と協同してそれを阻止すべきだというのである。

しかしエリートたちの革命的気分は胡散霧消したまさにそのとき、空前の急進主義たる一九一七年革命が突然到来し、そして勝利したのである。金雁は『革命は知識人たちの魔術なのではなく、それは私が革命であると天から訪れたのであり、そのとき告別革命はいずこかへ消え去ったのである』と指摘している」。(「革命のために反駁する」)

だから「革命」について論ずるとき「『告別革命』を語るよりは『革命を軽々しく主張しない』ことの方がより妥当である」(閑言)ということかも知れない。

その上でである。以上のような歴史的達観を揺るがす事態を二〇世紀はくぐってしまったのであり、そこでは革命家たちは「地獄への道は善意の小石で敷き詰められている」という言葉をそっくりそのまま地で行き、楊曦光のいう革命権力の抑圧権力化を山ほど経験してしまったのである。こうしてこれまでの革命がはらんでしまった「悪」の可能なかぎりの対象化が不可避の課題となる。
 そう見るとき、この李沢厚、劉再復『告別革命』は、楊曦光「革命の代償」論を引き継ぎつつ、さらに二〇世紀中国のマルクス主義と革命思想の硬直化した「革命」主義的偏向に対してはじめて自覚的な反省がなされているものとして大きな意義を持っていることが分る。

だが問題は彼らがケ小平の「改革・開放」を評価するあまり、革命批判をその角度から行なってしまっていることである。そこでは「ケ小平実用理性」への無批判的評価や「マルクス主義は吃飯哲学〔飯を食うための哲学〕である」というような角度からの「革命イデオロギー」批判となってしまっている。「自由主義」内部からの保留、反発、批判もそこを衝いている。

すなわちその「革命」批判は楊曦光の「革命権」の再確認よりはるかに後退した地平からなされてしまっているのである。

以上の弱点を持つ彼らの「告別革命」論にはしかし見落とされてはならない重要な論点がはらまれていた。そしてそれは楊曦光の政治思想においてもほり下げられてはいず、また彼らへの批判者たちが無自覚なまま見落としている問題である。ここでは二点だけを取上げておこう。 

(3)李沢厚、劉再復の重要な寄与

 

その第一は李沢厚、劉再復が「改良」の意義をあらためてとらえ返すことによって、「革命」主義的政治思想がともすれば欠落してしまう過渡的、過程的諸問題の重要性を自覚化できたことである。

「革命はたしかに巨大な破壊力を持っており、それは人々の存在様式を変え
ることができるが、しかし革命がすべての問題を解決できるとかんがえることは幼稚である。過去われわれは古い国家機構の破壊のあとすべて問題はすらすらと解決するものと思ってきた。だからすべての希望とエネルギーを革命にかけてしまい、その結果社会そのものの組織、管理そして建設の能力を退化させてしまった」。

そして重要なことはこの「問題はすらすらと解決する」という楽観主義はただ「幼稚」ということではなく、かの将来社会における「国家の死滅」、すなわち「矛盾の消滅」と「政治の死滅」という理想主義、底抜けのユートピア構想に裏打ちされていたことである。

革命の暁には、まして共産主義の招来社会においては「矛盾」や「対立」が消滅するとされている以上、それとの現在的、過渡的格闘――それが「制度」の構築を含む政治的構想力の源なのだが――が真剣な課題となることはないからである。

 第二にさらに重要な問題である革命権力自体の抑圧権力化について一歩その解明に踏み込んでいることである。当初の良き意志が何を媒介構造としつつ抑圧的なものへと転化するのか。

楊曦光はこの問題に自覚的だったのだが、しかし彼はその構造について「人間は一半は天使、一半は野獣」というような「人性」論にとどまるか、一つの専制を倒すにはより一層の独裁が必要となる、だからその均衡の制度化をというようなこと以上にほり下げることはしていない。

李沢厚、劉再復の「革命的大批判」と「筆杵子」(文章の書き手)への言及は言語分析、言語批判を通してこの問題に接近しようとしたものであった。文革期に勢威をふるった「大批判」こそ解放性が抑圧性に転化する重要な契機を指し示していたのである。

「私は階級分析に反対ではないし、階級矛盾の存在を認めるし重視もする。問題は階級矛盾を解決することが必ず生きるか死ぬかの階級闘争というやり方
を必要とするのかである。私の考えでは必ずしもそうではなく、階級矛盾は階級調和、相互譲歩、協同行為、革命ではなく改良によっても解決可能と考える」。

「大批判は二〇世紀中国が生み出した怪物である。この怪物は高度な文化的専制の手段であり、それは事の是非を論ずることを完全に排除したものであり、その基本的特徴の一つは無限上網〔ある意見を極度に政治的、路線的意味付与をして批判する〕を行ない、最終的には人を政治的に打倒し、迫害して死に至らしめるものとして、それは一つの新しい文字獄であった」。(李沢厚)

「大批判方式は二〇世紀中国の一つの重要な現象であり、文化的覇権と政治的覇権の相互の結合という角度からの研究を含めて、さらに多くの角度から研究ができるだろう。二〇世紀における文化的覇権と政治的覇権はきわめて重要な現象なのである」。(劉再復)

劉再復には別に「五四」以降の中国における政治言語の歴史を扱った「言語の暴力について」というきわめて興味深い論文もある。(『民報』二〇〇一、四)

 この問題をほり下げることを通して世の「反共」主義的「革命」批判と異なる「革命」批判の道、すなわち「革命」の再生を展望した「革命」批判への道を探ることが可能となる。

3.「告別革命」論への賛否両論

(1)中国共産党系の反応

 

これまで中国共産党は「文革徹底否定」論への批判や「人民文革」論の登場に対してその公認文革史(席宣・金春明『「文化大革命」簡史』等)において一定の反批判を行なってきたが、しかしそれはしゃかりきなものではなく、基本は「異常に聡明なやり方、すなわち知らないふりをする」(劉国凱)、つまりそんなものは問題にするに値しないという態度であった。

だが最近はそうもいかず当局筋から事態に即応した直接、間接の反応が出てきている。その幾つかを見ておこう。

@「歴史的ニヒリズムの思潮に警戒しよう」――「告別革命」論批判

 

 ここではその代表的な一つ、「歴史的ニヒリズムの思潮に警戒しよう」という文章を見ておこう。二〇〇五年三月『光明日報』に掲載されたものであり、沙健孫(北京大学教授)、李文海(中国人民大学教授)、龔書鐸(北京師範大学教授)、梁柱(北京大学教授)の共同執筆である。

 「近年一部の人々は、近現代の中国の歴史に対して歴史ニヒリズムの態度を取り『あらためて評価する』という名目でほしいままに歴史を歪曲している。

 その主な内容は、一、革命の否定を提起して告別革命を主張し、革命にただ破壊作用だけを認めて何らその建設的な意義を認めない、二、五四以降中国が選んだ社会主義への道を、英米を師としたいわゆる『近代文明の主流』から離れて誤った道に入り込んだと見なして経済・文化の遅れた中国に社会主義を行なう資格はないこと、中国成立以後行なわれたのは小ブル的な空想的社会主義でしかなかったと述べ立てていること、三、一点だけを取り上げて、他の側面を見ない方法で〔過失だけを取り上げて攻撃し、その他を顧みないこと〕中国共産党の歴史を歪曲しその本質と主流を否定ないし覆い隠し、その活動は誤りの連続であったと見なしていること、以上である。

学術研究の角度から見たときこれらの視点は何の学術的価値もない。なぜなら彼らの主張は近現代の中国の歴史の実際に符合しておらず堅固なものではないからである。だが政治的にはこれらの観点の流行、これらの思潮の氾濫は人々の思想を混乱させ、ひいては重大な結果をもたらすものとしてわれわれは重大視しなければならない」。

 「近現代史の研究において、歴史ニヒリズムは革命を貶め否定し、中国人民の民族独立と人民解放のために行なった反帝反封建の闘争を貶め嘲弄する上で特出した役割を果たしている。その思潮の集中的表現が『告別革命』論である。ある文章は革命の『弊害』を力一杯大げさに誇張し、『二〇世紀の革命方式はまちがいなく中国に深甚な災難をもたらした』と公開で判定を下し、ひいてはある者は当地で端的に革命はただ『専制の復辟』もたらしただけだったと公言するありさまである」。

 「歴史ニヒリズムは歴史を歪曲し、革命を否定し、帝国主義と封建主義を美化して褒め称え、党の指導と社会主義を貶めるものであり、その行くつく先は西欧のあの方法にもとづき中国を資本主義化しようとすることである」。

 これらの引用で論者たちのおおよその論点はお分かりだろう。劉再復はこう反論する。

 「われわれは中国近代史についての新たな認識を提起したのだ。近代史は三大革命(太平天国、義和団、辛亥革命)の歴史としてだけではなく、洋務運動、戊辰変法等の改良運動の歴史をも含むものであったのだ、と」。

 「これまでの人類の歴史は即階級闘争の歴史、暴力革命の歴史ということであったのかどうか、歴史の主要な筋道は生産力の発展(生産用具の変革を含む)なのか、それとも暴力革命なのか? 私が考えるには階級闘争、暴力革命は歴史に長い流れのなかではただ僅かな瞬間、僅かな短い時期での出来事であり、主な筋道は生産力の発展だったとしなければならないのだ」。

 「この一〇年多くの人たちが『告別革命』論を批判してきたが、誰も自分らの書『告別革命』を読んではいなかった。ただ表紙を眺め、『告別革命』の四文字を見てたちまち気持ちがピリピリしたのだ。

『告別革命』という考えに異論があるのは正常なことである。だが『光明日報』の四人の学者たちとは討論しようがなく、学問的な問題に入りようがない。

彼らはまず政治審判所を設置し、用いる言葉は本質主義的な単純化された『文革言語』であり、冷静な学術的精神はなく、あるのはただ興奮した革命的心情であって建設的な態度で問題を扱うことはないのである。これでは問題を討論しようがないではないか」。

 「四人の学者たちは身は二一世紀初頭にあるが、心は二〇世紀中ほどに留まっているのだ。この種の歴史的惰性がわれわれに告げるのはこういうことである。革命を高く唱え、資本主義の復辟に反対する極左思潮が今まさに復活しつつある。

それが一旦復活するや二〇年の改革はその全精神的根拠を喪失し、ついには『資本主義復辟』の罪名のもと歴史的審判を受けりことになり、毛沢東のプロレタリア独裁下の継続革命の道に立ち戻ることとなる。これは警戒すべきことである」。

 当局側四人の学者たちは劉再復が非難する通り、文革期に猛威をふるった「革命大批判」の語彙と論理を用いて「告別革命」を批判しているわけだが、しかしそれは「告別革命」論が生まれた要因そのものに立ち入った批判とはなっていない。あるいは「革命」がはらんだ「悲劇」的問題にまったく無自覚なわけである。

 
 A 「言語ヘゲモニー」の奪還へ――謝韜「民主社会主義のみが中国を救う」
                  論文の波紋

 

つぎに雑誌「炎黄春秋」二〇〇七年二月号に掲載され、著者の立場とその内容によって大きな反響を生み出した韜「民主社会主義方式と中国の前途」という文章を見ておこう。

これは「告別革命」論批判ではなく、内容的にはむしろ共産党版「告別革命」論なのでだが、これもまた広い意味では「告別革命」論への反応の仕方であった。

韜は国家指定の重点大学である中国人民大学前副学長、つまり今日の共産党権力のイデオロギー部門の要所の一つに在任した人である。

 「ケ小平、江沢民、胡錦涛が指導する改革開放が全世界の認める巨大な成果を上げたことは全党と全国人民を思想的に堅固な確信によって統一するに十分である」。

以上の当たり障りのない「改革・開放」頌歌に続いて著者は驚くべきことを述べている。

 「隠す必要はないのだが、改革開放はまた幾つかの問題、主には汚職腐敗、国家資本の流出と不公平な分配を生み出している。とくに分配の不公平さは両極分化をもたらし、騒ぎで沸き返っており、人心が乱れている。

このことは改革開放への回顧と反省を引き起こした。大多数の人々は改革開放の成果を生み出した善意の提案,献策を高く評価しており、偏りを是正し、素晴らしい情勢の発展を図ろうとしている。

ここで注意し警戒すべきことは党内の『左派』が空前に活発化していることであり、彼らは大衆が改革開放へ不満を持っている情勢を利用して改革開放を根本的に否定し、毛沢東時代に立ち戻ることを鼓吹していることである」。

 「改革開放以来の最大の理論的誤り〔失誤〕は何がマルクス主義であり、何が修正主義化か、マルクス主義の正統はつまるところどこにあるのかをはっきりさせてこなかったことである。

『修正主義に反対し、修正主義を防ぐ』という極左理論が常に再復活し、改革開放を妨害し、執政者に『打左灯,向右拐』〔左折のシグナルを点けて右へカーブする〕の政策をとることを強い、改革開放は政治上は擁護されるがイデオロギー的には非難されるという状況下で進行したのである。

中央の主な指導者たち、ケ小平、江沢民から胡錦涛はただ執政権があって言語ヘゲモニーはなかったのである。『論争をしない』〔ケ小平「不争論」〕の政策はただ自分の答弁発言権を取り消すだけであり、『左派』の改革開放への攻撃と非難は一日たりともやむことはなかった」。

 「今日の左派理論の大復活は左派が第二次文化大革命を発動し奪権しようとしているのであり、それはここ二十七年来イデオロギー上で妥協し譲歩してきたことの必然的結果なのだ」。

 以上のように謝韜は、今日の中国言論界での「左派」勢力、すなわち「新左派」ないし「新毛派」の伸張を認め、それが「空前に活発化」していること、「左派理論の大復活」が進んでいることに強い警戒を呼びかけただけではなく、さらにつぎのような大胆なイデオロギー的転換を提起している。

 それは今こそ「民主社会主義」を中国共産党の正式の路線とせよというものであり、その際謝韜は彼が強く感動した辛子陵『千秋功罪毛沢東』の主張を援用している。

辛子陵はそこで、バリケード戦はすでに古くなった、普通選挙権を活用せよという『フランスの階級闘争』エンゲルス序文と、株式会社は資本制生産様式そのものの内部での資本制生産様式の止揚であるという『資本論』第三巻第二七章でのマルクスの論述をもって「民主社会主義」は始祖たちも認めたマルクス主義の発展形態なのだと述べていた。

そして謝韜は『国家と革命』、『背教者カウツキー』等でのレーニンの批判はブランキ路線のものであり、また『資本論』を読んでおらず、レーニンとスターリンのものだけ読んだ毛沢東がそれを理解するはずがなかったというのである。

 このように謝韜にとって「言語ヘゲモニー」を取り戻し、イデオロギー上のヘゲモニーを確立するということは、今日の格差の拡大を解決できないどころか、その温床となっている共産党への批判ではなく、「改革・開放」がマルクス主義の正しい継承であり、それこそが「民主社会主義」なのだということを積極的に突き出せというものであった。

 「われわれはこれまで心底忠誠な毛派であり、左派であり、歌徳派〔「歌功

頌徳」功績を誉めそやす〕であり、迫害されても陥れられても依然として忠誠この上なく、楯突くこともなかった。その後覚悟を決め、依然とした党の人間、改革救党派としてこの党を救出し、改善し、良き党に変えようといろいろ思案をめぐらしたが、しかし哀しみが次第に現われた。この党は救い難い、元に戻すのは至難だ、救い切れない。どうしたらいいのか!?

一つは転換、政策・方針・方策を抜本的に変えること、大度量、優れた文章、優れた政策をもって歴史の新局面を切り拓くこと、この可能性はほとんどない。もう一つは自己崩壊、自己破壊、人民から見棄てられること。これは歴史の悲劇であり、人民は(われわれの世代を含むのだが)あのような歴史の代償を支払ったのに、得たのは歴史的悲劇だとなると悲劇の中の悲劇ではないか」。(「丁弘への手紙」)

 以上の謝韜論文に対して今のところ共産党当局の反応は『人民日報』編集部が読者の質問への答えという形式で「中国の特色ある社会主義」は「民主社会主義」を必要としないと述べたにとどまっているという。

 
(
)「告別革命」ではなく「革命を避ける」ことだ――「自由主義」の反応

 

この「告別革命」論を「自由主義」派は当然大いなる共感をもって受けとめただろうと普通は考えて不思議はない。文革批判は「告別革命」論をもって完結すると見なされるからである。事実そう受けとめた者たちも少なくなかったのだが、「自由主義」の主だったイデオローグたちはむしろ批判的だった。たとえば朱学勤はこう言う。

「世間の人々の多くは、大陸の自由主義者は李沢厚同様ただ『告別革命』派だろうと誤認しており、意外にも両者〔朱学勤、李慎之と李沢厚〕の根本的な違いを知らない。後者の『告別革命』は消極的な態度で座して消極的自由を待つものであり、李慎之の『避免革命』〔革命を避ける〕は積極的態度で『消極的自由』を力を尽くして勝ち取ろうとするのである」。

なお、中国語の「反思」と「反省」は共に日本語で普通「反省」と訳されるものだが、前者は「過去のことを客観的考え直す」、「過去を深く考える」、後者は「犯した誤りを反省する」という違いがあるとのことである。

秦暉もまた自分は「このような反省の仕方」に同意できないという。

「私は二種類の反省を区別すべきだと考える。第一種類の反省は急進主義を反省するが、現実批判は堅持するというものである。そして反省があるからこそ、その現実批判は一層深められるのである。第二種類の反省はそうではなく、反省によって後退し、現実への批判を放棄するのであり、シニシズムに至りかねないものである。この二種類の反省は表面的には似ているが、その違いは僅かに見えて大いに異なっているのだ」。

つまり李沢厚、劉再復の主張はそのケ小平と「改革・開放」への手放しの評価において現実批判を放棄していると見なされたわけである。

「自由主義」のイデオローグたちの多くがもともとは文革を造反派紅衛兵として経験し、文革後は旧来の共産党統治を批判し矢自由派知識人たちであったのである。

 

() 「中国革命と中国史の悪魔化」――「新左派」による批判

 

一方、この公然たる「革命」放棄は「新左派」たちを激昂させている。その一翼「新毛派」老田は辛辣にこう言う。

「筆者もまた『告別革命』が可能となることを希望する。その唯一の実現方式は人と人との関係及び異なる階級間の根本的利益が合理的協調的なものとなることである。毛沢東時代に実施された上層階層への監督による利益の協調化は最善のものではなかったかも知れない。だがエリートたち〔「精英們」、「新自由主義」のこと〕は階層間の利益の協調を実現するいかなるご高案をも決して提出することはなかったのだ。

エリート層は今日すでに自分の考えと利益によって国家発展戦略と大政治方針を切り盛りしている。だがそこには民衆の根本的利益、そして民族の長期的、全体的な利益も見当たらないのである。エリートたちは自分の欲望を節制することがまったく出来なくなっており、すでに民衆の衣食住の権利を厳重に侵害している

それは明らかに三座大山〔帝国主義、封建主義、官僚資本主義〕の復活の兆しだというのに、あべこべに『革命情勢』前提的条件が醸成するなかで『告別革命』という贅沢なお喋りをするというのは、自らを欺くものである。

エリートたちは悪魔化のベテランであり、大躍進と文革を悪魔化し、中国革命と中国の歴史を悪魔化し、中華文化を悪魔化し、太平天国を悪魔化し、蒋介石を再評価している。

だがエリートたちは民衆の衣食住の必要性、民衆の基本的利益と権利とをまったくないものにすることはできず、自分の利益と圧倒的多数の利益とを協調させることはまったくできない。エリートたちは普通の民衆をエリートに変えることはできず、中国は中産階級が多数を占めるに至ったと言いなしている。

であれば彼らに別の選択の道はなく、民衆と共に『労働者農民と結合する』道を歩まなければならない。こうしてはじめて告別革命の道なのだ。李沢厚の言い方を使えば『知識分子の労働者農民化』であって『労働者農民の知識分子化』ではないのだ」。


(
)「武装自衛」と立憲主義――「人民文革」論派の態度

 

王希哲、劉国凱らはこの「告別革命」論に対して表立った反応はしていない。彼らが今、力を集中しているの「人民文革」論をめぐる論争であることもあるが、この「革命」批判、「反革命理論」をある理論水準をもって唱えたのは彼らが高く評価する楊曦光であったことも関係しているのかも知れない。

ただつぎのように述べるところにその基本的態度は示されていると見るべきなのだろう。

「誰であれすべての者が急進的な選択を放棄することを要求することはできない。革命的でなければならず、民衆のテロリズムに反対し、彼らを思い切って革命の条件を準備させなければならない。専制政府に対する革命は人民の天賦の人権なのである」(王希哲)

「それでは中国民主建設の目標は『人民文革』なのか? そうではない。中国民主建設の目標は民主的な立憲政治である。あらゆる形態の人民民主運動はすべて中国人民が民主的な立憲政治の実現を勝ち取っていく過程なのだ。

しかし民主立憲政治は人民運動を敵視することはできず、人民運動を消滅させる必要はない。社会のあらゆる腐敗層だけがそれを恐れるのだ。一個の国家においていつも活力を持って登場する立憲政治に規範下の民衆運動はその国家が生命力旺盛な現われである。〔・・・〕西欧の立憲政治は各階層の人民に人民民主の権利と人権保障を与えている。しかし歴史的かつ今日的に各階層、各利益集団の民衆運動がなかったら、その『民主立憲政治』は考えられないのだ」。

かって文革末期の一九七〇年代中頃、「走資派」官僚集団と江青・張春橋グループとの決戦は避けられないと見て「人民武装革命」に強い期待を寄せそのための準備もしたという劉国凱は江青・張春橋グループのあっけない崩壊にがっくりしたという。

「中国の民主過程を推進するに当たって最も端的な方法は中共専制政権に最も十全な正面圧力を加え、彼らに一党独裁の特権を放棄せざるを得ないようにすることである。この『最も十全な正面圧力』とは何を意味するか? まずそれは人民大衆の武装蜂起を意味する。言い換えれば人民革命の武装勢力の威力の前に中共専制政権が打ち砕かれて瓦解するというイメージである。このイメージは一見すっきりしており、人々を痛快にさせる」。

「しかしここで問題が立ち現われる。すなわち中国社会民主党はその理念からしてこの種の方式を主張しないし、高く評価もしないのである。中国社会民主党は当然人民大衆の自衛の権利を認める。民衆の平和的な民主の訴えを専制権力が血腥く鎮圧したとき武装自衛と反撃する権利がある。

この考えはまた同時に中国社会民主党は民衆が先に武力に訴えることを主張しないことを意味する。このことはさらに民主闘争において民衆はまず何より暴力革命と武装闘争に留意すべきであると主張する民運の友人たちは中国社会民主党に入党することはできないことを意味する」。

ここで劉国凱は彼がなぜ「中国で武装闘争が発生する可能性を完全否定する」
主体的・客体的根拠を七つにまとめて述べている。

そして彼らが抱く現在の政治展望はここで王希哲が述べているように「民主的な立憲政治」の実現ということにあり、そのことにわれわれの関心もある。

「造反派は自己の誤りに気づいたあと、小農社会主義理論から立憲民主主義理論への転向は容易だった。それは彼らが一貫して理論的徹底さを追求してきたからであり、王希哲、劉国凱、楊小凱〔楊曦光〕、徐友漁たちがその最もいい例であった」。(閑話)

彼らが自分らの目標は「人民文革ではない」というとき、それは文革期彼らが抱いた「コミューン革命」をもまた放棄し、「民主的な立憲政治」の建設を択んだことを意味する。 

三、一つの展望――汪睴の「脱政治」克服論

 

 汪睴の最近の論考「脱政治化の政治、覇権の多重構造と六〇年代の消失」はこれまで見てきた諸論点との関連できわめて興味深く、かつ刺激的な文章である。

 われわれが汪睴のこの文章に注目するのはそこにはこれまで見てきた「文革徹底否定」と「告別革命」をめぐる各派の論点を越えるもの、あるいはそれらの諸論点をとらえ返してより生産的な展望を切り拓いていく諸契機、構想力が含まれているように思われるからである。

「『文革徹底否定』と『告別革命』の歴史過程のなかで二〇世紀中国の歴史遺産がたしかにはらんでいる未来の政治への発展契機をあらためて喚起するということは、単純に二〇世紀の入り口に立ち戻ることでは決してなく、『ポスト革命時代』(すなわち革命終結の時代)における『脱政治の政治イデオロギー』と『脱政治の政治』の専制構造の打破を探求する第一歩なのである」。

 つまり汪睴にとって「文革徹底否定」と「告別革命」の風潮は、「脱政治」と「新自由主義」という「グローバリズム」イデオロギーの一環なのであって、それからの脱却が課題とされているのである。

 汪睴はここで資本主義世界と「社会主義」世界をつらぬく「危機」をどう克服するかをめぐる壮大な二〇世紀総括の方法を「脱政治の政治」と「再政治化」というキーコンセプトを用いて提起しているのだが、ここでは文革問題に絞ってその主張を見ておこう。

 

(1)文革の拒絶は「二〇世紀中国の全否定」である

 

汪睴はそこで今日の世界的な傾向への大胆な批判を行なっている。すなわち文革が今日「徹底否定」され、忘れ去られ、それらのテーマ化はすでに「マイナー」かつ「時代錯誤」と見なされるのは文革それ自体の問題性に由来するのではなく、現代社会の「脱政治化」の結果なのであり、「真の政治的名分析」力が枯渇、衰退した証左なのだというのである。

二〇世紀末から二一世紀初めにかけて世界で「六八年革命」三〇周年の記念集会が開かれ、アジアでは「アジアの六〇年代」についての学術討論会が持たれたりしたが、いずれの場合もそこには中国の発言はなかった、と彼は言う。

「そのときから私はこの沈黙の意味を考え始めた。私が観察した第一の現象は、この沈黙は六〇年代の急進的思想と政治実践への拒絶、すなわち中国『六〇年代』のメルクマールである『文化大革命』の拒絶ということにとどまらず、それはまた二〇世紀中国の全否定でもあるのだ」。

「私がここでいう『二〇世紀中国』とは辛亥革命(一九一一)前後から一九七六年〔文革の終息〕前後の『短い二〇世紀』〔ホブズボーム〕についてであり、それはまた中国革命の世紀でもあった。〔・・・〕そしてその終結は七〇年代後期から一九八九年〔天安門事件〕までのいわゆる『八〇年代』なのである」。

「歴史的角度から見るとき、六〇年代に始まった『文化大革命』への失望、懐疑と根本的な否定は、七〇年代から今日に至るこれまで見た歴史過程の基本的な前提となっている。批判的知識人たちが今日の社会的危機――三農危機、都市と農村の格差と地域格差の拡大、体制的な腐敗等々――を分析しようとするとき、彼らに対する最も有力な武器はこうであった。諸君は『文革』に立ち戻ろうとしているのか? この『文革徹底否定』の態度は、現代史の過程についてのいかなる真の政治的名分析の可能性をも潰してしまったのである」。

「歴史的角度から見たとき、どの政治的変動の後にもほとんどみな広汎な、それぞれ異なった『脱政治化の流れ』が生じた。たとえばフランス大革命の失敗のあと、一八四八年ヨーロッパ革命の失敗のあと、そして一九八九年の社会運動のあと、みなそうであった」。

「六〇年代の拒絶と忘却は孤立した歴史的事柄なのではなく、持続的かつ全面的な『脱革命』過程の有機的な部分なのである」。
 この作業のテーマから見るとき、以上のような汪暉の論点をめぐって二つのことが問題となる。その一つは汪暉のいう「脱政治化」ではない「政治」〔汪暉はそれを「階級政治」ともいうのだが〕、「真の政治的分析」、そしてそれに充ちた「二〇世紀中国」の内実とは何かであり、もう一つはこの認識から見るとき文革とその敗北は何だったのかという問題である。


(2)「悲劇」としての文革――遇羅克の闘争と犠牲

 

「中国革命の内容は豊富であらゆるものを網羅するのだが、その核心的内容がないわけではなく、それはつぎの三点に概括できる。第一に土地革命を中心に農民の階級的主体性を構築し、それを基礎として労農同盟と統一戦線を作り上げ、さらに現代中国政治の基礎を定めたこと、第二に革命による建国という方策により、伝統的政治構造と社会関係の改造を通して中国を主権を持った共和国として建設し、さらに農村中国の工業化と現代化の政治的保障を提供したこと、第三に階級政治の形成と革命による建国という目標によって現代政党の産出を呼びかけ、現代政党政治の成熟の前提としたこと、以上であった」。

 一九四九年以降の共産党統治に対する、一見「新毛派」の評価と似通うこのような評価は当然異論がありうるが、汪睴の場合、それは単なる歌徳派〔「歌功頌徳」功績を誉めそやす〕としてのものではなく、中国革命のなかにはらまれていた「革命政治」(あるいは「階級政治」)の対象化とその救出、再生に向けてのものであったことに留意すべきだろう。

汪暉によれば毛沢東の「革命政治」とは、たとえば「『敵と味方の矛盾』、『人民内部の矛盾』を永久不変の固定した関係としてとらえるのとは異なり、闘争を通して主体性の転化を獲得することを励ますものであり、この時代における階級分析と統一戦線戦術にはつねにこの主体性転化を促進しうる歴史の弁証法が含まれていた」というものであった。

「もし革命主体の創造が階級転化(農民階級のプロレタリアートへの転化の政治過程であるなら、階級対立は主体の転化を通して解決できることとなる。政治的対立は階級的対立と同じなのではない。後者は調和できない性格のものだが、前者には対立関係そのものの変化――敵が友ひいては同志に転化する可能性もあれば、友と同志が敵に転化する可能性もある――が仮定されている」。

「社会主義政権が支配する条件のもとでは、『敵と味方の対立的矛盾』は社会改造の方式によって解決すべきであって、『階級の敵』の肉体的消滅によって解決するのが必然とすべきではないのである」。

「中国共産党は肉体的消滅の方式ではなく、主に思想改造、社会的実践によって戦犯を改造した」。

汪暉がとらえ返した「革命政治」、「階級政治」のイメージはこれでおおよそつかむことができる。このように汪暉は毛沢東政治をその「脱政治化」した形態でのみとらえ全否定する今日流行の見方を退け、そこに働いていた本来的政治を弁別し、その再生を図るべきだという。これは魅力的である。

ただ汪暉には中国共産党の誇る「思想改造」、「人間変革」が持っていたもう一つの側面、すなわちそれが自立した主体の形成ではなく、人々の主体の徹底的解体を通して共産党中央つまり毛沢東の主体のもとに完全従属した人格類型を生み出すことになったことが認識されていないのではないか。楊曦光のいう「革命的民主主義」の政治空間的な抑圧性がつかまれていないのである。

この重要な問題はさておき、ここで汪睴の共産党統治への見方(あるいは毛沢東と「毛沢東文革」の評価)についてひと言ふれておけば、彼はそれを一つの「悲劇」としてとらえており、それが彼を「自由主義」の全否定や「新毛派」の基本的肯定とも異なる異色の存在としている感がある。

 「文革は人類史上想念上の現実と客観的な現実との乖離した極端な例である」(黄宗智)という把握がある。中国共産党が一九四九年革命後の経過の総括においてよく使う、いわゆる「階級闘争拡大化の誤り」論である。だがそういうことではないのだと汪睴は強調する。

 「悲劇は革命政治の必然的結果だったのか、あるいは革命政治の内在的原則からの背離とそれを基準とした政策の歴史的産物だったのか?」

 これはきわめて重要な、かつ生産的な問題の設定である。

 「この時代の歴史的変化についてあらためて考えるとき、われわれはさらに問う必要がある。六〇年代政治そのものの『脱政治化』は結局のところいかなる歴史的な条件がもたらしたものなのか? この時代の多くの悲劇的な事件の原因をどう解釈したらいいのか? このことは深く研究し、全面的に考える必要がある問題だが、ここでは暫定的につぎの三点を取り上げておこう。

まず前にふれた大衆運動のセクト主義的闘争への発展、すなわち大衆運動の両極への分化とその暴力化である。つぎに毛沢東は人々を〔硬直化した〕国家―党体制への攻撃に動員するに当たりやむを得ずその個人的権威に訴えたのだが、この『便宜主義的』なやり方(のちに「個人崇拝」と言われたところの)は人々の国家―党体制への反抗精神を呼び起こしたが、同時にそれは大衆の主体性そのものの喪失をもたらすことになった。

以上の二点は共に大衆運動の脱政治化を作り出したのである。第三に政治論争が不断に国家―党体制内部の権力闘争に取り込まれ(すなわち政治路線と理論闘争の脱政治化)、しかも国家―党体制自体が深刻な破壊に遭遇しているもとではこれらの闘争が制度的な規定の枠内に限定されることは不可能であり、その結果大規模な政治的迫害が生み出されたのである」。

 「『プロレタリア文化大革命』はその概念からいえば、社会主義国家とプロレタリア政党の自己革命であり、それが訴えたのは政治的な階級と階級闘争の概念であった。さもなければこの『革命』を『文化』をもって定義づけることはできなかった。

 この政治的な階級概念は一たび構造的な、固定化した本質的概念へと硬化さるや異なる人々の間の敵対的闘争へと転化してしまい、それによってこの概念がはらんでいた政治的能動性は徹底的に扼殺されてしまい、この政治的能動性を体現した理論研究と自由な論争は扼殺されてしまうことになる。一方的に上からの、機械的に分けられた階級区分は国家の政治と大衆闘争における『残酷な闘争、情け容赦ない打撃』の前提となった」。

 「われわれは『階級闘争の拡大化』という悲劇の総括に当たって、階級関係についての把握が客観的現実的なものから乖離したという側面のみならず、その階級区分論が政治的能動性を押しつぶした側面からもこの悲劇をとらえる必要があるのだ」。

 ここで汪暉は「出身論」を書いて社会主義中国の階層差別構造を批判し、差別された青年たちの圧倒的な支持を受けながらも、文革派勢力のもとで処刑された遇羅克の闘いと犠牲は何だったのかと問いかける。

 「身分唯一主義、出身唯一主義、血統唯一主義は二〇世紀中国の革命が含んでいたあの主観的、能動的政治観の否定であり、裏切りであった。二〇世紀の革命政治の中心的任務は、安定した階級関係が造り出したあの暴力機構と財産関係を打ち砕き、解体することではなかったか? 

そういう意味においては、遇羅克の血統論への批判を政治的能動性という角度からとらえ返すことがきわめて必要なこととなる。彼の闘争と犠牲は『脱政治化』が二〇世紀政治あるいは革命政治の動力あるいは趨勢に外在的なものだったのではなく、この過程を支配した階級概念、階級闘争概念に含まれていたことを明らかにしたのである」。

 先の問い、すなわち悲劇は革命政治の必然的結果だったのか、あるいはそれからの背離の産物だったのかという設問への汪暉の答えはこうである。

 「『文革』の悲劇は『政治化』(その象徴は政治討論、理論探求、社会自治、党―国家体制内外の政治闘争そして政治組織と言論領域での空前の活性化等々であった)の産物だったのではなく、『脱政治化』(社会自治の可能性の消滅と両極化したセクト主義的闘争、まさに政治論争の権力闘争的な政治パターンへの転化、まさに政治的階級概念の身分唯一主義的、本質主義的階級観への転化等々)の結果だったのだ」。

 

(3)「悲劇」をいかに克服するか――「脱政治化」から「再政治化」へ

 

 問題を以上のように設定するとき、課題もまた見えてくる。

 「身分論に反対する闘争は人間の自由、階級解放および未来社会への明晰な価値判断の上に建立されていた。従ってこの過程への『脱政治化』的解釈ではなく、『再政治化』的理解と、それを基礎に新たな身分論(それはまた階級関係の再生産でもある)を廃棄し抑制する制度条件を創造することこそがこの時代の悲劇性を克服する真の方法なのだ」。 

 「今日われわれは階級言語が取り消された階級社会のなかに身を置いている。私が思うには、問題は過去の階級と階級闘争の概念(われわれは今なお二〇世紀の階級政治が生み出した悲劇への反省〔反思〕のなかにいるのだ)を単純復活することにあるのではまったくなく、現代社会の平等問題と階級分化に対していかなる政治的展望を打ち立てるかなのだ。あるいは問題はまさしくどのように階級概念を構造化された範疇から解き放って、それを階級分化を防ぎ止めることを目標とする新たな政治概念に転化するかなのだ」。

 この汪暉論文については今はその輪郭のみを押えるにとどめ、また別の機会を期し、そのためにも読者諸兄()の検討を期待して稿を閉じよう。

(邦訳は石井剛訳「中国における一九六〇年代の消失」岩波『思想』二〇〇七、六〜七)